アンパイアの女
帰りに通る公園で、毎晩素振りをしているやつがいるんだと、風間が電話越しに言うのを歌川は聞いた。
だからといってわざわざその公園で自分も素振りをする必要はないのでは──歌川はすんでのところまで声が出かかったが、わかりましたと答え通話を切る。風間の表情はみえるわけもなかったが、まるで子どものような素直な目を彼がしているのであろうことが想像できたのだった。純粋な隊長の“野球少年”のイメージと、それにならおうとする心意気を歌川は大切にすることに決めた。
バットは本部から持っていくと言っていた風間のことばを反芻して、歌川はとくに持ち物を変えずに来た道を少し引き返し、その練習場所へ指定された公園へと歩みを進めた。
ふわりふわりと、シャボン玉がいくつか浮いていた。
到着したときにはすでに公園の前に風間の姿があり、園内では数人の小学校低学年くらいの少年たちとひとりの少女が、浮かぶ透明な丸をつくることに夢中になっていた。ストロータイプ、リングタイプ、さらには電動のものまであるらしい。シャボン玉の進化も目覚ましい。
「あ。遼くん」
砂利をなんどか鳴らしたところで、聞き覚えのある声に呼び止められる。声のあったほうを向けば、ちょうど木陰になっているベンチに缶ビール片手に腰掛けている見知った顔があって、歌川は目をまるくした。
「なにしてるんですか」
「審判してる」
どちらかといえば、なぜこんなところで飲んでいるのですか、というほうを教えてほしかったのだが、彼女の返答はその疑問をある程度打ち消すほどには呆れるものだった。
シャボン玉をだれがいちばん大きくふくらますことができるかを、彼らは競っているらしい。知り合いか、と問う風間に姉の友人でして、と歌川は関係を説明し、たがいの紹介をする。彼女はすっと立ち上がって「いつも遼くんがお世話になっています」と、おじぎした。
「風間さんよりひとつ下ですね」
「……もっと年上にみえるな」
風間が一般的に実年齢より若くみられがちであることを差し引いても、ということであろう。歌川も否定する気はなかった。むしろ同意を示したい。
そっちこそどうしたのかと問いかけて缶ビールに口をつけた彼女に、いろいろあってちょっと素振りをしたいと思いまして、と風間が両手でにぎっている二本のバットについて教えた。
おねーさん、ちゃんとみといて! ごめんごめん。
「……ある日、理容室に行ったんですよ。普通、男しか来ないと思いますよね。なのに、先に座っていたのが女の人で。それが、あの人だったんですけど」
べつに、身なりを気にしていないような感じでもなかったし、正直、きれいな人だとすら思いましたよ。
歌川と風間から子どもたちに目線と体の向きをずらし声かけする女とはじめて対峙したときのことを、歌川は風間に言って聞かせた。そこまで風間に彼女にたいする興味があったかどうかは定かではないが、風間はだまってうなずく。
「貫禄があったっていうか……なんと言えばいいかわかりませんけど……昔から、あんな感じなんですよ」
けっして老けた顔をしているわけではない。年相応。ただ、理容室のイスに座っていた彼女は、小洒落た美容室ではなく理容室で髪を切ってもらっていることにいっさいの恥じらいもないようだった。かといって近寄りがたいツンケンした鋭利さや人とのコミュニケーションを避けるような陰気さも感じられなかった。現に、こうして子どもに声までかけられ、いっしょに遊んですらいるのだ。
「理容室で髪を切る女の人が姉の友人だと知ったときは、変な気持ちでした」
「なんだ、理容室をそんなに悪く言うか」
「いや、言葉が悪かったですね。でもなんか、異質だったんですよ、彼女は」
しばらく歌川もその理容室に通っていたし、おそらく彼女もそうだったと思われたが、第一次近界民侵攻時にその店は建物としても営業という意味でもつぶれてしまった。
彼女がいまどこで髪を切っているのかは知らないが、きっと理容室である理由もなかったのだろうし、コンビニより多く存在している美容室のひとつにでも通っているのだろう。
「よし、少年たち、家に野球道具はあるか?」
「あるよー!」
「持ってきてくれる? みんなで野球をしよう!」
座ったままスローイングの動作をしてみせる彼女に、子どもたちは両手を上げて賛同の意を叫んで、数人公園を飛び出していく。その騒ぎから、ひとりいた少女が彼女のもとにおずおずと寄って来る。まだシャボン玉がしたいと、今の遊びの継続を懇願した。彼女はわかるわかる、と二度頭を動かすと、
「そしたら、君がシャボン玉を飛ばして、それをバットで消す遊びをしよう」
なんて残酷なことを。
せっかくつくったシャボン玉を破壊される。たしかにシャボン玉はつくれるだろうが、果たしてそれでいいのだろうか。歌川は女の子がその提案に泣きださないことを祈った。
「いいよ!」
いいのかよ。
にこにこと満足げに笑っている女の子と、彼女の顔を歌川はぼんやりとながめる。案外、この子も彼女のように成長したりするのかもしれないな、と歌川は未来をみた気がした。
片方のバットが自分に差し出されていることを視界の端で認識した歌川は口角をあいまいに上げながら受け取った。
「……やっぱり、こう、変な人なんですよ」
「歌川もそんなことを言うんだな」
リング状のパーツを液にひたして、彼女が缶を持っていないほうの腕でそれをゆっくりとふる。
歌川を少し見上げた風間は、若干尻上がりのイントネーションで「いい女だな」。そう問いかけるようにつぶやいて、歌川が肯定するのだけを待った。