食満留三郎(落第忍者乱太郎)現代設定
結局付き合わなかったな、とうっかり口に出しそうだった。
二酸化炭素と共に吐露するわけにもいかず、わたしは慌てて平然を装って、お冷と一緒に迂闊な言葉も啜っておくことにした。よし、そのまま胃の奥底で五百年眠っていろ。間違っても嘔吐は避けねばならぬ。
「ん? どうした」
「別に」
衣がザクザクの豚カツ定食に舌鼓を打っていたはずの同級生が、気付けばこちらの目玉をじっくり見やっていた。妙なところで勘の鋭い男である。純粋な疑問の色に気圧されたとでも思われたら癪に障る。あえて素っ気なく返した。
二人用のテーブルは定食の皿でほとんど埋まってしまって、料理に手を伸ばす度に水がなみなみに注がれたグラスを倒してしまいそうで危なっかしい。食満はわたしと違って器用なので特に気に留めた様子もなく、豪快にキャベツを頬張っている。
大学の軽音部で出会って四年、わたしと食満はなんだかんだでずっと同じバンドに所属していた。他の構成員は部内の色恋沙汰やらバイトの都合やら雲隠れやらで多少の入替えがあったが、わたしと彼だけは一回生の頃から割と隣にいて、簡単に言えばニコイチの扱いを受けていた。
それが、まさか大学を卒業しても延々つるむことになるとは思うまい。
「梅シソも食えよ」
「じゃあ有り難く」
「代わりにカキフライ貰ってく」
「どーぞ」
わたしの丸皿へ勝手に梅シソチキンカツを贈呈した男は、少し油が回って草臥れた大きめのカキフライを捕らえると、あっという間に一口で食べてしまった。
彼がご飯を美味しそうに食べるところは、確かに四年間見ていても全く飽きなかった。今日とてその三白眼は蛍光灯の光を浴びてきらきらと輝いている。
後輩にギターを教えている時とはまた違って、ご飯を食べている時の彼は意外にも小動物にも似た愛らしさがあるというか。指導者側に立つことの多い男の、年相応な部分を見せられているというか。
ふとココット皿に盛られたディップソースを見やると、わたしがカキフライを突っ込んだ時の形状をそのまま維持している。
「ん? タルタルは?」
「おま、先に言えよ」
「見えてなかったの?」
「カキフライしか」
「はーん」
適当な会話を繰り広げながら、わたしはもう冷めてしまったシジミの味噌汁を啜った。ちょっと味が薄いが、揚げ物に添えるには丁度よいのだろう。
彼とわたしは、偶然にも職場が近かった。というか同業他社である。わたしは市役所、食満は県庁に勤めて早数年。勤務時間も残業時間も似たようなものなので、自然と顔を合わせることが多いのだ。定時ダッシュを決められる確率が少ないところまで似ているのが嘆かわしい。
食満は食べ損ねたタルタルソースを横目で見やっていたが、それにも飽きたのか、スラックスのポケットから徐にスマホを取り出した。卓上のお皿は既にすっからかんである。
「来月の学祭は顔出すのか?」
「まあ、そのつもり。知ってる子も減ってきたから、打ち上げまではいいかなって思うけど」
「大分卒業したしな。じゃあ俺もそうするか」
「富松が寂しがるんじゃないの?」
「お前と晩飯行くから仕方ないだろ」
これだ。何故この男は当然みたいな顔してそんなことを言うんだろう。
再度言うが、我々は付き合っていない。艶っぽい話題なんてひとつもなく、好きな音楽とご飯と、日々の仕事の鬱憤を吐き出すだけの関係性だ。
まあ、確かにこの男の前では、圧倒的に気を遣わずに済むのだが。
長時間労働でくたくたになって、顔面の装甲の役割を果たしていたはずの化粧が裸足で駆け出すような有様でも、食満はいつも「今日もお疲れさん」としか言わない。何なら後頭部の髪を手のひらで軽くわしゃわしゃしてくる。後輩に接するのと変わらない温度感で。
それ、ビミョーな距離の女の子に仕出かすとややこしくなる奴、と思うが、今のところ言葉にしたことはない。こういうところがわたしの愚かしい部分である。
しかし、返答が何となく分かるのもよくない。「お前にしかやらん」とか、そんなことを言い出しそうなので、いつまで経っても指摘できない。冗談も大概にしてほしい。
一回生の頃からこうなので既に違和感を失って久しかったが、よくよく考えると付き合っていない男女の振る舞いとして正しいのか、判断に迷う。
だから深く思考を巡らせてはいけない。色んな過ちが後ろで大口を開けて待っている。
終電を逃すような飲み方をすることもなくなり、翌日の仕事が脳裏に過ぎっては溜息を吐く大人になってしまった。人としては多分正しい在り方だと思うが、無鉄砲だった学生時代を懐かしむのは自然の摂理だろう。
今日も夕方頃に食満から『豚カツ』とだけ通知が入って、今に至る。一昨日はわたしが『寿司』とだけメッセージアプリに打ち込んで、近場の回転寿司チェーンに足を運んだ。テレビで見た白子の天ぷら握りがどうしても食べたかったのだと告げると、彼も同じ番組を見ていたのか、同意の声が上がった。
兎も角、付き合うタイミングというのは、それなりに、度々、数えられる程度にはあったように思う。学内ライブ打ち上げ後のカラオケオールとか、空きコマが被って食堂でダラダラしていた時とか、卒業旅行とか、云々。色気のある空気かどうかは別として。
まあ、食満はわたしに対して概ね好意的ではあるものの、根っこにあるのが友以上のそれか、という最も重要な事実確認を省いている以上、わたしはただ足踏みし続けるだけなのだろうが。
いや、嫌いだったらこんなに同じ時間を過ごすことはないだろうけど。好きか嫌いかの二択であれば間違いなく前者が選ばれるが、親愛か恋情かと問われた時、彼がどんな顔をするのかまでは想像できずにいる。
間抜けなダンスを披露して何になる。あまりに非生産的だ。
溜め息は癖になってしまうから、とりあえずお冷やを飲む。お腹は既にたぽたぽだ。
「大学の近くに新しくラーメン屋が出来たって竹谷が言ってたからな。そりゃあ行くしかないだろ」
「なるほど」
「魚介系らしいぞ」
「それは行くしかない」
ラーメンも焼肉も、何だかんだ食満と同行することが多い。食の好みが合うのは良いことだ。彼はニンニクマシマシアブラカラメには手を出さないし、煮玉子トッピングはわたしと同じく欠かさないし。
別に、彼の手のひらの上で踊ってやっても構わないと思う一方で、手のひらを差し出すのはわたしがよいとも思うのだから、にんげんの心はつくづくままならないものだ。
頬杖を崩さないままに、彼はふと口許を緩めた。
「なーに難しい顔してんだよ」
その、慈愛に満ちたと表現するのが正しいような瞳は何だ、と口にする勇気がないから、わたしは彼と一緒にいられるのだろう。
『すまん、今日泊めてくれ』
華の金曜日などという言葉が縁遠くなって久しく、今日とて残業に打ちのめされながら、お手洗いに行こうと席を立った時だった。端末に突然飛んできたメッセージに目を白黒させていると、既読の文字列に反応してか、次の瞬間には電話が掛かってきた。
人の気配が途絶えた給湯室にさっと身を滑らせ、画面をタップする。開口一番にすまん、と謝罪が捩じ込まれ、わたしは思わず眉間に皺を寄せつつ、首を傾げた。
「なにごと?」
『伊作に家を占拠された』
「哀れな……貴重品はちゃんと持ち出しなさいよ」
『自宅が爆発すること前提にすんな』
卒業してなお続く腐れ縁のひとつ、不運うんこ委員長の善法寺伊作は相変わらず食満宅を不法占拠し、恐らく実験と称した迷惑行為に勤しんでいると思われる。やはり重罪だ。早く海外逃亡でもするがよろしい。いや、あいつパスポート持ってないんだっけ。
食満の声は疲労で掠れていたが、それほど重苦しい色合いではない。善法寺のことに関しては全般的に色々と諦めているからだろう。可哀想だがそういう星の生まれである。割り切る方がしあわせというものだ。
「IHの賃貸にして正解だったでしょ、火力的に」
『化学反応の前では無力だ……』
「まあそれはそう」
『で、泊めてほしいんだが……』
電波越しに拝み倒されているのが分かるような声音だった。わたしは神仏の類ではないので、拝まれたところで有り難い御利益を授けることも叶わないのだが、この男は知っているのだろうか。
ちなみに、官公庁街には終電を逃した社畜のためにビジネスホテルが乱立しているものだが、善法寺に自宅を奪われる度に外泊していたら残業代が泡沫の夢となってしまう。あまりにも悲しい。
まあ、分かる。わたしが同じ立場だったら流石に友人の家に泊めてもらうことも選択肢として数える。それほどに不運うんこ委員長は避けようのない巨大ハリケーンみたいな存在なのだ。
でもまあ、冷静に考えて。異性の友人の家にすたこらさっさと泊まりに来るというのは、如何に。加えてあっさりと泊めるというのも、如何に。
確かにこの男が潮江の自宅に泊まると世界が滅びそうだが、竹谷か久々知なら同情しながら狭いワンルームの屋根を貸してくれるだろうに。
対比して、わたしが間借りしているのは広めワンルームだから、まあ、余裕はあるのだが。
十数秒の逡巡をただのポーズと思われるのは気に食わないので、数十秒の間、答えを口の中で転がした。悩ましいのは本当だ。
「……残業中だから、晩ご飯はどっかで食べてきて」
それでも何も起きないことを知っているから、わたしは草臥れた声で現状説明を兼ねた指示を出すしかなかった。
今までずっと「わたしはあなたの友人です」なんてでっかい看板を引っ提げて、内心ぐちゃぐちゃに掻き乱されて片付けようもないのに、あたかもドライな感じの皮を被って、それ以外の方法が分からなくなってしまったから。
が、返ってきたのは負けず劣らずのくたくたの声だった。
『いや俺も職場』
「は? 善法寺はどうやってあんたの家に侵入してんの?」
『いつの間にか合鍵が複製されていたらしい』
己のやりたいことに対して貪欲すぎる食満の相方は、時々常識破りという言葉で片付けるには些か乱暴過ぎる仕打ちを平然とやってのける。いくら友人の家でもそれはどうなんだ。緑髪糸目の芸人じゃあるまいし。
「まあ女連れ込んでないだけマシ?」
『それは一昨日叱った……』
言うことを聞かない幼稚園児の相手をする若いお父さんのような声で、彼は長く息を吐いた。なるほど、既に実行された後だったか。そもそもこんな下方面に奔放な幼稚園児は許されないと思うが。
鍵の取り替えを依頼しようにも、残業が続いてままならなかったらしい。誠に哀れなことである。
「あいつ、いつからそんな下半身ゆるふわ男になったんだっけ」
『あー、三回生くらいから片鱗は見えていたな』
伊作の奴、俺に対する信頼度がバグってるからな。食満は乾いた笑い声を零した。お人好しは損するばかりだ。
今度あのふわふわの髪の毛毟ってやったら、と軽い調子で宥めてやると「将来ハゲたら俺のせいにされるだろ」と謎に言い返してくる。一体何を構うというのか。イケメンのうんこハゲ委員長なんて要素てんこ盛りで、腹筋を鍛えるのに相応しいだろうに。
まあ軽音部だし、女癖悪いのは仕方ないか。ぼそっと零すと、画面共有をしているわけでもないのに彼が頭を振っている幻覚が見えた。
『あいつがベースやるって言い出した時に止めれば良かったのか……』
「今の発言は全国のベーシストに謝っておきな」
ふと腕時計に視線を落とすと、軽く十分は話し込んでしまっていた。そろそろ戻るか。今日中に仕上げなければならないレク資料は、あと一時間もあれば形になるだろう。
「とりあえず二十一時退勤目指すから、適当にどうぞ」
『助かる。ありがとう』
「はいはい」
通話を切り上げて、ボトムスのポケットにスマホをねじ込んだ。誠に愚かしいわたしである。
自宅にやってきた食満は、手土産に下がり眉とコンビニのケーキを持参していた。
申し訳なさそうな顔をするのがどんどん上手くなるのは、やはり職業病だろうか。確かに必要不可欠な技巧ではある。公務員をサンドバッグだと思っているひとの何と多いことよ。
マフラーはしっかり巻いているものの、鼻頭がすぐ赤くなるのは社会人になっても変わらない。黒のウールコートを預かって、ハンガーに掛けてやった。
エコバッグをきちんと持ち歩く彼の手元には、シンプルなミルクレープがふたつ並んでいる。半額の赤いシール付き。消費期限の欄に今日の日付が並んでいる。
何の暗示だろう、と一瞬捻くれた考え方をした自分が恥ずかしい。そりゃあ半額なんだから今日までの命でおかしくないだろうに。
「この時間帯に食べるの?」
「明日のおやつにするか?」
「明日予定ないの?」
「疲労回復」
「じゃあ寝てな」
食満は満足気に頷いて、勝手知ったる様子で炬燵に潜り始める。流石に電源を付けたまま寝ると風邪をひくから、追加の毛布を渡してやった。
一日ぐらい遅くなったとて、割引になったコンビニケーキの味が今更劇的に落ちるとも思えない。手土産を冷蔵庫の中へ誘導しつつ、電気ケトルで湯を沸かす。インスタントコーヒーを準備してやると、彼はのそのそと炬燵布団から顔を出して、マグカップを恭しく受け取った。
彼の正面側を陣取って、わたしも一度入ったら抜け出せない魔窟に足を突っ込む。あーあ、突っ込んでしまった。終わりの始まりだ。
仕事の愚痴を合間に挟みながら、取り留めのない話題を投げ合う。学生の頃のように腹を抱えて笑い合うことは減ったものの、食満との会話はネタ切れになることがないから不思議だ。適当なことばかり喋っているからかもしれない。
マグカップの取っ手に指を伸ばした時、ふと彼の視線を感じた。
「手、乾燥してるな。ハンドクリーム塗ってやるよ」
彼は至極当然のことのようにそう言って、床に転がっていたリュックから黄色のチューブを取り出した。こちらが瞬きを繰り返している間に指先を掴んで、シアバター配合のそれを丹念に塗り込んでくる。
まめまめしい男だ。人の面倒を見ていないと落ち着かないのだろうか。
なるべく客観的な感想を胸に抱えておかないと、どうにかなりそうだった。上がった血圧を悟られるのはあまりにも恥ずかしい。幸い、冷え性の指が温もったのは体温が移ったからだと言い訳はできそうだが。
だって、異性の手にハンドクリーム塗りたくるような真似、そんな簡単にできるか?
「書類触ってると、どうにも乾燥するよな」
「まあ、こればっかりは仕方ない」
「柚子の香りだからお前好きだろ」
そんなの、一度足りとも言ったことないのに、断定系で。
彼は鼻歌でも披露しそうな勢いで、指の腹を使ってハンドマッサージまで始めてしまった。揉みほぐす動作は随分と手馴れていて、単純に気持ちが良いのでわたしは一切の抵抗を辞め、彼の骨張った指に視線を落とす。
他人の好みまで逐一把握しているくせに、何故かこの男は最後の一歩を足踏みする。かと言って、こちらが積極的に踏み込むわけでもないのだが。
臆病者同士が寄り添っているだけなのだろうか、と思いながら、頬杖をついて今度は彼の顔を見る。無駄に睫毛長いなこの男。真っ直ぐ伸びて硬そうなそれは、逆睫毛になれば地獄だろう。
「上手いだろ」
「うむ、苦しゅうない」
脳味噌が反射で言葉を探してくれているおかげで、わたしは生き延びている。
「風呂はお前が先な」
「家主へのお気遣いどーも」
これで付き合っていないのだから、やはり何かのバグのような気がしてならない。あーもう。
食満の指先が離れていく。按摩は終わりということだ。風呂上がりの方が嬉しかったとは思いつつ、感謝の言葉を投げるも、彼は少し眉を上げただけで、ずるずるとコーヒーを啜っている。
さも当然、みたいな顔をして。
湯船に肩まで浸かって、零れそうな溜め息をしっかり飲み込んだ。風呂場の物音は嫌なくらいに反響するものだから、迂闊な独り言を霧散させるわけにはいかない。
彼に揉んでもらった手のひらと指は、いつもに比べて随分と軽くなった。むくみも取れた気がする。ぐっぱと指を閉じて開いて、またもや喉から出そうだった吐息を肺に抑え込む。
そういえばバンドメンバーと行った卒業旅行で、夜行バスの隣席が食満だった。あの時もハンドマッサージしてもらったっけ。リクライニングも大してできない安いバスでもリラックスして寝れるようにって、何でもない顔で。
あいつ、そんなのばっかだ。出会ってからずっと、些細な優しさを惜しげもなく提供してきて、わたしはただそれを淡々と享受する振りをして、内心は震えていたけど。
車内の通路を挟んで、隣の二席には同じくバンドメンバーが早々に眠りこけていた。わたしと食満は狭い座席だから自然と肩を寄せ合って、消灯時刻になっても彼の指はわたしの手の甲を掠めたままで。
わたしだけが特別だと、そう錯覚させるのが上手い。
答え合わせをする気力はない。間違った時に全てを失う賭けなんて、最初から乗らないのが最適解だ。
すんと鼻が鳴るのを掻き消すために、湯船からざばっと上がって、犬を洗うみたいにバスタオルで髪を拭いて、急いで顔と身体を保湿してから最近買った真新しい下着に足を通す。意味なんてない。偶然。ただの日常のひとつに過ぎない。
ドライヤーでごうごうと頭部を乾かして、いつもよりは丁寧にブラシを通してから脱衣所を出る。居間を覗くと、彼は炬燵でぬくぬくしたまま、バラエティ番組に視線を投げているところだった。前回はそのままぐっすり眠りこけていたが、今日は違うらしい。
「おう」
「お先」
わたしの気配に気付いた食満が顔を上げて、――――何やら緊張した面持ちである。口元がもにょっとしている。真冬の最強の武器に足を突っ込んでいるくせに、居心地の悪そうな。
「なに、変な顔して」
「してない」
初めて同じバンドでライブに出て演奏した時とおんなじ顔をしておいて、彼はあくまでも平然とした調子に寄せた声を出した。相変わらず誤魔化すのが下手くそだ。後輩への指導のためならさっくり嘘も吐くくせに。
こういう時の食満は意地を張って口を割らない可能性が限りなく高いので、限りなくめんどくさい。蛇口を捻ってきんきんに冷えた水をコップ一杯汲んで、彼の少し曲げられた唇を眺めながら、気温ですっかり冷え切ったそれをちびちび飲む。
子どもみたいな緊張の仕方をする男だなと思いながら、炬燵に近付く。ずっとそわそわしていた彼の肩が少し跳ねた。
「え、なに」
「…………」
言葉を探していることは明らかだった。風呂上がりで装甲を解いた状態のわたしに、果たして何を緊張することがあるというのか。むしろ見慣れているだろうに。
テレビ画面には芸人が何組もヒイヒイ言いながら笑い転げているのが映っていて、狂騒が鼓膜を刺激するはずなのに、食満の表情は硬いままだった。寒さでお腹でも壊したのだろうか。いつもわたしの家のトイレに行く時に妙な気遣いを見せる男ではあったが。
「早く風呂入りなよ」
湯船冷めるし、と付け加えても、彼の肩には力が入ったままで、立ち上がる様子がない。さっぱり思考が読めない。
「……あー」
男は額に手を当てて、謎に呻き始めた。いや、風呂、入れ。一体何をうだうだしているのか。浴室はわたしが先に利用したから温まっていて、寒さに怯む必要はないというのに。
コップに口を付けながら、どうにもならない彼の様子を観察することぐらいしかできない。急に普段の姿より何倍も頼りなくなった理由とは。
「ほれ、風呂入れ」
とりあえず炬燵から押し出してやろう。その程度なら手伝ってやれる。確かに強い意志を持っていないと脱出は困難を極めるし。
疲労の色が滲む背中にスウェットで隠れた手を伸ばして、その時だった。
突然、炬燵の天板の上のスマホが歪な音を立てて震え始めた。バラエティ番組の喧騒にすら勝るような、硬質な物質同士がぶつかって、マナーモードのそれは延々と鳴り止まない。
わたしのスマホではなかった。剥き出しの林檎マークは目前の男のもので、そして彼はぐるぐる逡巡している。振動音は続いている。着信。
「え? 早く出なよ」
不協和音と仲良くする気力なんざ残っていない。さっさと出れば良いのに、食満は頑なに沈黙を守っていた。まさかこの時間、職場からではあるまい。現在の食満の所属部署は、夜間の緊急呼び出し関連の所管ではないはずだ。
まさか、他人の家だから遠慮しているとでも言うのか。
何を今更。神妙な顔で見守る姿勢を解く様子がない男に少し鬱陶しさも覚えて、ぴかぴかと人工の光を放つ液晶の上、勝手に指を滑らせた。
本当に今更なのだが、画面ロックのナンバーを互いに知っているのもどうかと思う。
難なくロックを解除すると、わたしの指先が誤タップしたのか、元々スピーカーモードに設定されていたのか、液晶に表示されたはずの文字列を認識するよりも早く、光る板が自発的に喋り始めた。
『もしもし留三郎? 上手く行った? 報告遅くないかい?』
「は?」
『おっとっと?』
うす塩味のそれを彷彿とさせる台詞を吐いている、電波の向こうの人物は柔らかな声の男だった。わたしもよく知っている、声と顔だけは良い、あの不運うんこ委員長の。
職場で上司が昨日と百八十度違う指示を出てきた時に出すのと同じ本音が、気付けば喉を通り過ぎていた。職場じゃなくて命拾いした。
こちらの失態を相手方は気にした素振りもなく、おどけた声音で続けてくる。
『あれれ? もしや今、』
「伊作!」
「ウワッ」
突然の金切り声が左の鼓膜を襲ったかと思えば、道路に飛び出してくる鹿みたいな速度で食満がスマホを奪っていった。網膜には残像が焼き付いている。
『もう、お膳立ての結果が知りたいのは当然の欲求じゃないか。で、どうだった?』
「い、伊作!」
いや、声引っ繰り返っとるがな。
善法寺の摩訶不思議な発言がこれ以上飛び出すのを阻止するためか、食満は唾を飛ばす勢いで「今日は勘弁してくれ!」と叫んで画面をタップした。今日は。
テレビから流れる音だけが残り、部屋の中の生き物は全て沈黙した。
食満は全力疾走した訳でもないのに肩で息をしていて、スマホを絨毯の上に投げた。随分とぞんざいな扱いをするものだ。普段の彼ならきちんと置くだろうに。
お膳立て、と善法寺は先程半笑いで言った。その言葉の意味を、わたしは舌の上で転がし続けている。善法寺は次出会ったらひとまず髪を毟るとして。
道化の道具に仕立て上げられたという苛立ちと羞恥が、腹の中で急激に暴れ始めた。こんなことははじめてだ。呼吸が浅くなりそうなのを宥めるため、肺に酸素を無理矢理押し込む。
冷静になるには俯瞰が大事だ。目前の観察を続けていると、ばちりと音がするように視線が重なった。黒玉の瞳は動揺で揺れているように見える。
「あ、あのな」
言い訳の第一句を唱えようとした彼は、ごくんと唾を飲み込んで、こちらをじっと見据えた。耳の縁がはっきりと赤い。
その瞳は雄弁だった。きっと、初めて見たと思う。
目前のあまりにも頼りない姿に、脳内でごちゃごちゃと考えていたこちらが、急に馬鹿らしくなった。
学生時代に付き合っていれば、もっと違った日々だったかもしれない。こんな、スウェット姿の女と草臥れたスーツの男で始まらなくても良かったかもしれない。
足踏みをしているのはどちらも同じだった。だから、踏み出すのも同時にすべきだ。第三者の半笑いから始まって、ムードもへったくれもない。
でも結局のところ、それが似合いなのだろう。
わざわざ夜景を見るような、観覧車に乗るような、洒落た空気作りをするのは気恥しいと、きっと互いに腹の奥で考えているからこんなことになるのだ。臆病な自尊心と尊大な羞恥心をここまで体現する必要もなかっただろうに。
スウェットの裾を指先で弄ることで、辛うじて平静を装った。第一声が震えないよう、腹に力を込めて、日常と変わらない声色を作って。
「……今後裏切ったら、多分許さないけど」
「い、いや待て、普通に言わせてくれるか」
面接に挑む新卒みたいな空気を纏って、彼は手を突っ張った。指先が僅かに震えていて、わたしの口の端は勝手に吊り上がってしまう。さっきまで怯えていたわたしは、一体何だったのだろう。
「へえ、言ってくれるんだ?」
「何ニヤついてんだ!」
ついに顔まで真っ赤にして、額に季節外れの汗まで浮かべて、彼は正座しながら再び呻き声を上げた。
「……えー、な、何と言うか……」
いままで、その。
最後の方は消え入りそうな声音だった。大学デビューしたての子みたいな。夜なのに口笛を吹きそうになったじゃないか。
「早く続けて」
「鬼教官か!」
「いや、聞きたいから」
促すわたしの声も、いつの間にか茶化す温度がすっかり抜けてしまっていた。他人のことをどうこう言う資格は失われたということである。
仕事以外で緊張するの、いつぶりだっけ。風呂上がりを言い訳にするには、わたしの体温も上がりすぎているに違いない。不思議なくらいに手のひらがべたついている。ハンドクリームはお湯で流れてしまったのに。
不安そうに視線を泳がせる彼を、誰が無下にできるだろう。
「……学生と社会人じゃ、使える時間の量が全然違うだろ」
「まあ」
細々と吐き出された文字列に、ただ頷く。
「働くようになってからも、割と一緒にいてくれてたから……まーあれだ、お前なら大丈夫だって確信したわけだ」
上擦った語尾。増える瞬き。見ているとこちらまで移りそうなのに、目が離せそうにない。
きっと、この瞬間を手に入れるための月日だったのだろう。
「ははあ」
「やめろじっと見るな!」
「本気で照れる食満って新鮮だな」
「やめろ!」
次第に頬は林檎色になって、額には季節外れの汗をはっきりと滲ませて。紡がれる言葉を待って硬い腕を引っ張れば、次の未来がそこにある。