共感覚おばけ

尾形百之助(ゴールデンカムイ)現代設定

 注射器を持つ指先が情けなく震えているので、誤魔化すように口の中の唾を無理矢理に飲み込んだ。
 正面の丸椅子に浅く腰掛けた男は、余裕綽々のご様子である。大きな黒の目玉でこちらの肌をじりじりと焼いてくるものだから焼き切れるのも時間の問題、居心地の悪さは延々と右肩上がり、額に滲み出てきた脂汗を自覚して更に緊張は増していく。
 ガラス玉のような双眸がまだか遅い早くしろと針先を威圧する。わたしは観念して一度大きく息を吐いて、彼の二の腕をそっと解放した。
 懺悔の言葉を吐くよりも早く、視界の端っこで山なりの眉が僅か跳ねた。

「ファントムにはさくっと刺してただろうが」
「いや、流石に人体は初めてなので……」

 いまこの瞬間に向き合っている黒の半袖のシャツから除く色白の腕には、医療用の人体模型とは違って当然に体温がある。緊張しない学生の方が少数派だ。わたしも例に漏れない。
 病院実習は後半戦に差し掛かった。学生同士で筋肉注射と口腔麻酔の練習をするのが定例とは聞いていたものの、これだけ目力の強い男と組むのは想定外だった。
 ペアになった尾形百之助という男は学年でも優秀と名高く、最早それだけで肩身が狭い。何なら注射も先行してわたしの腕でさくっと終わらせてみせた。寸分の狂いもない、見事な手さばきだったと言えよう。
 一ミリも笑っていない黒目がシンプルに怖い。はん、と彼は鼻を鳴らして、役目を果たせずにいる針先に向かって顎をしゃくった。

「別に失敗しようが死なんだろう。いくらでも刺せ」
「何その無茶苦茶な男前発言」

 しかも無駄に良い声だし。何なんだこの男は。
 一学年百人弱しかいない歯学部に在籍していれば、講義を受けるうちに殆どが自然と顔見知りになるものだが、例外は存在する。
 尾形百之助とまともに喋ったのは今日が初めてのはずである。一応。記憶に欠損はないはず。多分。
 言葉を交わしたことがなくても、少ない同級生の間ではよく噂になる男ではある。試験の成績(大抵の科目で学年三番以内)とか実習(蛙の解剖)の腕前とか食った女(当然に他所の学部)の人数とか、信憑性の有無に関わらず話題を攫うことに定評がある。友人が多いようには決して見えないのに、不思議なことだ。
 ただそこにいるだけで、自然と視線を集める性質なのだろう。誘蛾灯みたいな男だ。いや、寄り付く女の子を貶す意図は微塵もないが。
 噂話だけで形成した尾形百之助像が真実であるかは全く定かでないが、とりあえず怖いという感覚は正しいだろう。

「誰もタダでとは言ってねぇ」

 ほら、もう発言が大っぴらにできない自由業のそれだが。
 無骨な手のひらが彼の前髪を撫で上げる。漆黒の瞳が眇られて、真新しく見えるスニーカーのつま先が、項垂れて内側を向くわたしのそれを小突いた。

「一回の失敗につき、飯一回奢りだ」

 こちらの返事を決め付けて、彼は丸椅子ごとずいっと一歩分、距離を詰める。
 他人の身体に針を刺す行為に怖気付いている学生の悲鳴で周囲は賑やかだったはずなのに、その瞬間、すっと雑音が引いた。
 錯覚のはずだった。

「さっさとやれ」

 軍人に等しい冷徹な声、差し出された左腕の生白さと、相反するような厚い筋肉に怯む間もなく、デニムに包まれた男の膝の骨が布越しにわたしの膝頭に触れる。座ったままのせいで足を引けず、仕方ないので顎を引いた。
 いや、刺される側がこんなに偉そうなことあるか?
 何だか緊張しているこちらが馬鹿馬鹿しくなってきた。そもそもこんなところで怯えていては、来週に待ち構えている口腔麻酔の練習に挑むことすら困難だ。甘ったれた己はこの場に捨てていくのがよいだろう。そうだろう。
 酸素を肺に押し込んで、厚みのある腕をわしっと掴む。己とは似ても似つかぬ、見事に鍛え上げられた筋肉だった。

「それでは、尋常に勝負」
「お言葉に甘えてじゃねぇのかよ」
「気合い入れていくぞー」
「試合か?」



 果たして結果は惨敗に終わった。

「飯三回奢りだ。忘れるなよ」
「はい……」

 学年でも有数の秀才の腕を穴だらけにした罪を早速背負うことになった。
 針の角度が浅かったり手が震えて危うく傷口を広げそうになってやり直したりと、数々の申し訳ない所業を繰り広げたせいで、頭を稲穂の如く垂らすしかない。
 わたしの腕の傷口が最小限の一箇所であることが、己の惨めな技巧を際立たせるのに一役買っていた。いや、別に彼は全く悪くないのだが。
 注射用保護パッドを腕にべたべた貼り付けられた彼は、ポロシャツの袖を下ろすと同時に立ち上がった。丸椅子の足が床を引っ掻いて耳障りな不協和音を奏でたが、彼は微塵も気にする素振りがない。

「……あの、尾形くん」
「尾形でいい」
「へえ、譲歩とかするんだ」

 すぐに滑るこの口をそろそろ縫い合わせておくべきか、と思って二十年以上経つ。新鮮な後悔が舌の上でびちびちとのたうち回っていた。
 じっとりと重い視線が頭上から降りてきて、顔面の毛穴を容赦なく穿ってくる。背を丸めて項垂れるわたしのつむじにも、これでもかと鋭利な光線がざくざく刺さる。視線だけで人を殺した経験があるのでは。

「ペンチ使って麻酔なしで親知らず引っこ抜いてやろうか?」
「本気に聞こえるから勘弁して」

 冗談だ、と続くかと思ったが、延々待っても予想した言葉が吐かれる素振りはなかった。ぞっとして顔を上げたが、目がマジで大層怖いので何とかしてほしい。ただの学生が放ってよい迫力ではないと思う。前世はどのようなお仕事を?
 わたしの四本の親知らずはまだ口腔内に健在だが、生えている向きが微妙なのでいずれ引っこ抜かれる運命ではある。それでも無麻酔ペンチはご遠慮願いたい。
 彼はマスターピースの黒のスクエアバックパックを背負って、怯えながら両頬を手で押さえるわたしを嘲笑った。人を見下すのが特技だと言われても疑わない。エントリーシートに記載しやがれ。
 針のぶっ刺し合いが終われば、今日の実習は切り上げてよいことになっていた。ひとまず彼が帰ってしまう前に懺悔の予定を詰めておこう。キャンバス地のトートバッグをまさぐりながら「とりあえず、明日のお昼は食堂でいい?」と切り出しておく。先手必勝である。
 が、彼は眉をひとつ跳ねさせて、猫ちゃんみたいに首を右に傾げてみせた。

「手始めに今日の晩飯を奢れよ」
「正気か?」

 ああ、先手よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ。
 講義に実習にと大忙しでバイトもそれほど詰め込めない金欠学生なのでランチでさくっと償いたかったのだが、どうやら全て見透かされていたらしいことを知る。

「明日は実習ないだろ。何か不都合でもあるのか?」

 バイトでも入っていれば良かったのだが、生憎と間が悪いことに手帳には貴重な空白が浮かんでいるのを思い出してしまった。真顔で詰め寄ってくる男に向かって、掠れる声でイイエと返した。わたしは正直者の代名詞を名乗るに相応しい。
 まあ、己の行いが引き起こしてしまった事態である。尾形は何が食べたいの、と素直に疑問符を投げ付けると、彼は髭の生えた顎を指先でなぞった。

「……鍋」
「夏に鍋?」
「あんこう鍋」
「はあ」

 わたしはあんこう鍋を食べたことがない。どんな味がするんだろ、と思いながら文明の利器の検索窓に文字列を打ち込む。現れた店の住所は電車に乗って数駅先のものばかりだ。
 田舎の数駅先と都会の数駅先を一緒にしてはいけない。時刻表も然りである。わたしは育ち盛りを田舎で過ごしたので今更なんとも思わないが、都会生まれの同級生が「次の電車が二十分後って何!?」と悲鳴を上げていたのをしみじみ眺めて早数年。二十分後は二十分後だよ。何なら早い方だよ。

「この辺りはあんこう鍋やってるお店ないなあ」
「じゃあ何でもいい」
「ええ……」

 急に適当になるじゃん。じゃあ牛丼で、と返したら良いわけないだろと鋭い舌打ちが返ってきてしまった。脅しがお上手で。
 この辺りは住宅街が広がっているだけなので、大学のキャンパス付近まで戻るのがよいだろう。

「わかった」

 途端、素直に彼は頷き、わたしの背を手で押しながらそそくさと会議室を出る。まだ注射器と格闘中らしき友人が何事かと目を丸くしているのが見えたが、言い訳を口にする間もなく、気付けばわたしの足は病院の敷地を跨いでいた。



 キャンパス付近へ戻る市バスに運良く乗り込んで二十分程度。エンジン音と同化した振動が実習でへとへとになった肉体を攻撃してきたが、何とか生き延びた。
 夕焼けを顔面に浴びながら学生御用達の居酒屋の暖簾を潜る。五分後には障子に囲まれた個室でジョッキを打ち鳴らしていた。
 突き出しが枝豆だとお酒飲む時は嬉しいよねと言いながら、白の小鉢に盛られた緑のそれを食む。突き出し? と尾形がぱちぱち瞬きした。

「あ、関東はお通しだっけ」
「お前、どこ出身だ」
「関西の山奥。尾形は?」
「茨城」
「へえ」
「全然興味ねぇだろ」
「そんなことないって」
「…………」

 彼は既に半分ほどになったビールを卓の隅に追いやって、タブレットのメニューを次々スワイプしている。奢るけど加減していただきたい旨をそっと告げると、ふむ、と承諾してるんだかしてないんだか、やはり無駄によい声でさっぱり意図の分からない返事があった。
 給料前なので財布の中身は痩せ細っている。通帳の中を泳いでいる数字を思い浮かべようとしたが、記憶はさっぱりだ。労働に勤しむしかない。

「そもそもサシ飲み大丈夫なの?」
「何が」
「いや、彼女とか」
「いない」

 ふうん、と返してハイボールを一口。真実かどうかを判別する術はないので、話半分で鼓膜に覚えさせておくことにする。

「お前こそ大丈夫なのか」
「まあ」

 恋人だった男には二週間前に別れを告げたところだった。実習が始まるタイミングと被ってそれなりに大変だったが、特段面白い部分があるわけでもないので割愛する。
 尾形は前髪を撫で付けてから、ぐいと麦酒を喉に流し込んだ。彼の視線はよく肌に刺さる。フレンチスリーブから覗く己の腕の、ひとつしかない傷口を狙い撃ちである。

「それにしても、口腔外科を目指してるくせに随分な腕前だったな」
「え?」

 思わぬ言葉に、わたしはジョッキを持ったまま固まった。確かに進路はそっちなのだが、何故尾形がそんなことを知っているのだろう。

「実習初日の自己紹介でそう言ってただろ」

 あんなのちゃんと聞いてる人いるんだ、と思わず感心した声を上げると、彼は嫌そうに目を細めた。

「実家、歯医者?」

 果たして彼はどんな自己紹介をしていただろうか。わたしの海馬は曖昧な返事しかしないので、結局定型文を吐く。枝豆を飲み込んだ彼は、少しだけ目蓋を落とした。
 憂いのある表情は、確かに女が放っておかないだろうなという説得力がある。

「全く関係ない」
「じゃあうちと一緒だ」

 僅かでも共通点があれば、多少は会話も弾むだろう。楽観視は特技のひとつだ。へらっと笑うと、尾形は僅か首を傾げた。
 わたしがポテトサラダを小皿に盛るのと同時に、彼は冷やしトマトを咀嚼している。

「……家を継ぐのが当然みたいな顔したボンボンはむかつく」

 淡々と言うくせに、眉間にはしっかりと皺が刻まれているのが可笑しかった。少しだけ色付き始めた彼の耳殻を眺めながら、運ばれてきた月見つくねチーズ焼きに手を伸ばす。
 確かに、何でバイトなんかするの? ときょとんとした顔で宣戦布告してくる同級生は多いものだ。概ねむかつく旨を返せば、彼は桜肉のユッケ仕立てを口に運んでから、ふんと再び鼻を鳴らした。ちょっと嬉しそうに見える。
 ハイボールの中に浮かぶ立方体はまだまだ現役なのに、ビールの泡は瞬く間に消えていく。

「そういや、お前は何のバイトしてんだ」
「ファミレスのホールとカテキョ」
「は、よく働くな」
「そういう尾形は」
「塾講と焼肉」
「あんたも全然働いてるじゃん」
「賄いの美味い店じゃなきゃ働く意味がないだろ。塾講はブラックだが、まとまった額が入る」
「大手予備校の人は発言が違いますなあ」

 無駄口を叩いて杯を重ねて分かったのは、尾形が意外にも聞き上手らしい真実だった。
 女の話なんて小指の欠片も聞かない男なのではという先入観を打ち砕かれたが、素直に吐露したところでわたしにメリットはひとつもない。沈黙は金なので、しっかり噛み締めておく。
 彼はそれほど表情が動くわけでもないのだが、バイトの愚痴やら勉学の話やら、他愛のない会話であっても少しは楽しんでくれているらしかった。ありがたいことである。お通夜のような食事は精神衛生上よろしくない。
 席を立った時、いつもより足取りがふわふわしている自覚はあった。きちんと水も飲んでいたのに、尾形の次の反応が野良猫みたいに読めないから、それが妙に面白くて飲み過ぎた、かもしれない。



 次に目蓋を押し上げると、鏡張りの天井があった。
 ぽかんと間抜けな顔で大の字を披露したわたしが巨大な鏡面に反射していて、思考が停止する。
 衣類に乱れはないが、ないけど、いや、これは。

「起きたか。水飲め」

 扉の向こうから腰にタオルを巻いただけの尾形がひょっこり登場したことで、混沌の渦は増した。束になった前髪から覗く瞳が熱っぽい。情報量が多い。
 風呂上がりでようやく人っぽい色合いになった腕が、備え付けの小さな冷蔵庫に伸びる。正方形の扉の向こうからミネラルウォーターのペットボトルが姿を現して、彼の手が黄緑のキャップをぱきんと回す。
 剥き出しの背中に、男の濡れた髪から雫が滴り落ちた。空調の無機質な稼働音が、アルコール分解に励む臓腑を騒ぎ立てる。
 ぺたぺたとスリッパを鳴らして尾形がこちらに近付いてくるので、わたしは急いで上半身を起こした。体重で軋むスプリングに心臓が嫌な音を立てる。彼は黒髪を後ろに撫で付けて、蓋を取っ払ったボトルをこちらに差し出した。
 水に罪は無いのでとりあえず有難く頂戴することに決め、きんきんに冷えたそれで喉を潤した。二、三口飲んだところで入れ物は男に奪われ、そのまま彼の口の中に液体が飲み込まれていく。
 喉仏の動きに目を奪われていたことに気付くまで五秒もかかった。
 酔っ払いの敗北宣言を掲げるタイミングを見計らうも、妙な緊張とアルコールのせいで脈拍がいつまでも落ち着かない。どでかい鏡が頭上にあるのも原因のひとつだ。
 虚像の後頭部がふらりと揺れた。

「……言っとくが、部屋はお前が選んだからな」
「なんと」

 いや、いつ。ノリノリでボタン押しただろ。はて。
 不毛な会話を爪先で蹴飛ばして、円形のベッドに男が腰掛ける。趣味がよいとはとても言えない内装にげんなりする余裕もない。思わず座ったまま後退って、やたらと柔らかい枕が尾てい骨に当たった。
 このわたしが! ノリノリで鏡張りの部屋のボタンを押した! 今日初めて喋ったような男と休憩するために!

「は? 泊まれば良いだろ」
「ねえ、もしかして何か盛った?」
「アア?」
「ウワッ顔怖ッ」

 新入生だったら泣いていたぞ。この男は自分の目許にどれだけの攻撃力があるかを自覚すべきだと思う。
 未だ酒を飲みすぎても記憶を飛ばした経験はなかった。絶対何かしら盛られたに違いない。不覚。
 ぐびぐびと水を飲み込んで、彼の射干玉の双眸がじっと項垂れるわたしの旋毛を見据えてくる。歯科医になるのに必須ではない筋肉が詰まっているであろう腕が伸びてくる気配があって、わたしは慌てて面を上げてそれを制止した。
 空中の押し合い圧し合いは苛烈を極める。冷や汗を浮かべながらアルコールで掠れた声を張り上げた。

「同学部の女は食わないって噂じゃん!」
「何だそれ」
「えっ」

 まさか本人が知らんわけがない。それとも食われた同学部の女は心の奥に真実を秘めたまま実習に励んでいたとでも言うのだろうか。色んな意味で恐怖が拭えない。
 とりあえず距離を置きたいが物理的に追い詰められている。己の迂闊さを呪う。
 暖色系のライトを浴びて、彼の顔半分に深い影が落ちた。

「風呂、入らないのか」
「え、ええー……」
「別に俺は構わんが」

 顎を反らした横顔を披露して、選択肢を与えたように見せかけてくる。悪魔か。
 一日の実習を終えて、その疲れを洗い流したいのは当然だが、この状況下でほいほい風呂に入ればもう後戻りできない。アルコールで使い物にならなくなった脳を酷使するも、まともな解決策が颯爽と浮かんでくるわけもなかった。
 糊が利き過ぎてぱりぱりのシーツを焦って爪で引っ掻いて、ただ視線を彷徨わせる。弱者の選択肢はいつだって限られていた。
 わたしの荷物は尾形の向こう側にある革張りのソファーにぽんと置かれている。スマホには何故か充電のコードをぶっ刺してくれているので、逃亡するにはその二点を尾形の邪魔なしに取り戻す必要があった。
 いや無理。敵に背中を見せた時点で負けが確定する。

「時間の無駄だな」

 妙に楽しげな声音で言うな否や、肉厚な手のひらがわたしの足首を引っ張った。ずるんとシーツの上に全身を引き倒されて、わたしは汚い悲鳴を上げた。天井に写る我々の姿を認めてしまい、更に肝が冷える。
 恐らく血の気がどっか行った顔をしているであろうわたしの姿を認めて、こうすると大抵の奴は喜ぶのに、と彼は静かに零した。
 喜ぶのに?

「いやいや、そこに尾形の意思はあるの」
「……?」

 水溜まりを間違えて踏んだ猫みたいな顔で、彼はわたしに馬乗りになったまま動きを止めた。
 尾形の足に胴体を挟まれて、高い熱がじわじわと移ってくる気がしてならない。心拍数は暴れたまま、睨み合うこと十数秒。彼の腰元のバスタオルが鉄壁を維持してくれることを祈るばかりである。
 男は少しだけ上半身を起こして、何度か瞬きを繰り返した。

「愛情表現だろ?」
「情操教育やり直しておいでよ」

 ガッと強い力で髪を鷲掴みにされて、またしても汚い断末魔を上げることとなった。反射で打ち返したわたしの言葉は、どうやらお気に召さなかったらしい。
 これが正解だろ、と宵闇の瞳が訴えてくる。そんなわけあるか。

「ちょっと尾形くーん、毛根死ぬから勘弁してよお」
「別にお前が禿げても俺は困らない」
「あだだだだ、痛い痛いマジ無理」
「謝ったら許してやろうか?」
「何故わたしが謝らないといけないので? ていうか尾形、あだだだ、もしやご飯食べたらいつもこの流れ?」
「手っ取り早いだろ」

 うーん、言葉にできない。
 チベットスナギツネの女を鼻で笑って、男は突然わたしの頭皮を解放した。勢い余って枕に後頭部を打ち付ける羽目になったが、立派な綿が衝撃を吸収してくれたので一命を取り留めた。
 しかし未だ劣勢に変わりはない。慌てて上半身を持ち上げようとしたところで、シーツに肩を容易く縫い止められてしまった。びくともしない。一進一退、正直に吐露すれば二退か。

「お前が望んだんだろ」
「待て待て、勝手に主語を挿げ替えるな犯罪ですよ!」

 無理でーすと両腕を上げたいが間違いなく状況が悪化するので何とか踏ん張るしかない。黒の双眸はわたしの肌に突き刺さったまま、解放してくれる様子は見受けられない。
 冗談ではない。逃げ道を確認するため、視線を鏡越しに扉の方に向けて、わたしは息を飲んだ。

「お、おがた」
「往生際が悪いな」
「いや違うって、聞け」
「何だよ」

 今にも舌打ちしそうな彼は、わたしの必死な顔を見て一瞬思い留まったようだった。
 からからに乾いてしまった己の喉が、唾液を飲み込んで大袈裟にごくんと鳴った。

「さ、さっき、一瞬、映った」
「アァ?」
「人の足」

 ベッドに乗り上げた我々以外の。

「……………………」

 尾形は静かになった!
 実習で疲れていて見間違えた、もしくは盛られた何かの影響による幻覚ということにしたかったが、わたしの網膜には残像がへばりついていた。
 部屋の隅っこ、二本の足、男性の。
 俯いてしまった尾形の表情は全く見えないが、足止めには成功したと判断して差し支えないだろう。わたしの心臓も竦み上がったので勝利判定は大変に怪しいが。
 改めて直接扉の方を見やったが、脱ぎ散らかした二組のスニーカーが転がっているだけだった。
 また嘲笑を浴びて攻防戦を再開することになるやもしれん。恐る恐る尾形を見上げたが、彼は一向に動かない。

「……信じるんだ?」
「……いや、……」

 何かを言いかけて、結局彼は口を噤んだ。心当たりが? と好奇心をぶつけると、重たい沈黙が戻ってくる。先程の応酬で乱れた前髪が表情をすっかり隠してしまって、どちらかと言えば目の前の男の方がホラーだった。
 バスタオル一枚で項垂れる男にようやく隙が生まれた。これは最後の好機に違いない。わたしは努めて明るい声を出した。

「ひとまず、尾形は順番をお勉強しようよ。いきなり肉体言語じゃなくてさ」

 侮るわたしの言葉の並びにそろりと顔を上げた尾形は、意外にも迷子の少年の姿をしていた。
 楽しく酒を飲み交わしたのは嘘ではない。だからこそ勿体ないなと思った。

「何せわたしはあと二回、ご飯をご馳走しないといけないし」

 借りはきちんと返す主義である旨を述べると、戸惑いから怪訝の色に変わって、長い溜め息が落ちてくる。
 同時に重い筋肉も降ってきた。潰れた蛙の声で返事すると、何なんだお前はと詰られる。
 わたしの胸元に顔を埋めて、彼は動きを止めた。性的な感じがなかったので、わたしはようやく肩の力を抜いた。
 変な女、と酸素をたっぷり含んだ声が鎖骨を這う。彼の濡れた髪がわたしの服を湿らせていくが、抗議の意思が素直に尊重されるとは思えなかった。
 諦めを覚えると、途端に睡魔が頭上を覆う。間抜けな欠伸をうっかり零したら、なんと尾形に伝播した。急に懐いた野良猫か。

「……寝る前に風呂は入れよ」
「え、マジで泊まる気?」
「何もしねぇよ」
「いやそれはそうなんだけど……」

 幽霊が出没するかもしれない部屋に平然と滞在する宣言を掲げた彼は、今度こそしっかり顔を伏せてしまったので、その内情は窺い知れない。

「……鍋の時期まで待ってやっても良いぜ」

 声は肌を通り越して骨を伝う。僅かに上がった語尾に騙されそうになって、眠たい頭を横に振った。

「いや、借りたものは早く返さないと何でも雪だるま式になるじゃん」
「可愛くねぇ女」
「今までの展開に可愛い要素あったか?」

 そろそろ服着なよ、と白い肌をぺちぺち叩いてやる余裕も生まれた。しっかり稼働している空調が、彼の肌の表面をずっと撫でている。遠慮なく体重を掛けてくる肉布団は動かない。
 肺が押し潰される。檻みたいな腕に囲まれてしまって、本日何度目になるか分からない「怖い男だなあ」という感情を抱いた。
 ああ、もう全部面倒だ。

「よーし、実習で睡眠足りてないので寝ます!」

 まともに会話しようと思う方が間違っているのだ。何せ我々はいま酔っ払いに過ぎないので。

「風呂」
「じゃあ退いてよ」
「眠い」

 潔癖なのか、そうでないのか。矛盾を孕む彼の言動に振り回され続ける未来が見える。悪くはないだろ、と勝手気ままに男が笑う。
 互いの脈拍が溶けていく。木曜日、二十三時五十九分。

Afterword

 

  • 現パロ神迂路さんの書かれるキャラの設定は毎回毎回見事すぎて平伏しているのですが、今回も現代大学生尾形の解像度の高さにやられました…頭脳明晰でイケメンでモテてちゃっかりしてるのに人の愛し方を知らない尾形…酔っ払って男とラブホに来ちゃった☆王道展開も迂路さんの手にかかると原曲テーマの愛情表現についての掘り下げに……尾形の感情変化と二人の軽快なやりとりが尊いです。ありがとうございました!あと髪かき上げ描写もめっちゃ好きです!!(選曲者:によ)
  • 尾形おまえ、ちょっとそこに正座! まあ、わざわざ飯に誘う(行かざるを得ない)口実をつくっただけマシなのだろうか。いやでも夢主の奢りだよな。ベッドの上で覆いかぶさってくる尾形の腕を迷惑がりつつ最終的には抱えて眠りたいです。(疲れてる?)。わたし、天井が鏡のラブホって入ったことないんですけど、古の夢女が書く夢小説にはよく出てきますよね? 気になるので今度三人でラブホ女子会しませんか?(疲れてる?)(小雨)
  • 折角なのでトリップ物を書きたかったのですが時代考察が難しくて挫折しました。尾形の情緒はきっと他人の見様見真似で構成されているに違いないと思っていたので、あまりにぴったりな曲でワクワクしながら書いたら想像以上に長くなりました(いつもの)。明るい展開にしたかったのですが、尾形がいつでもどこでも軌道修正してくるので大変でした。肉体と精神の分離が激しい故に飲んだ日は大抵こういう碌でもない事態を自分で引き起こすイケメンだが迷惑な男・尾形を書けて楽しかったです!ありがとうございました!(編曲者:迂路)Sep 27, 2022