狡噛慎也(PSYCHO-PASS)
「千本のうち一本だけ、飲むと二十時間後に死んでしまう毒入りワインがあるとして」
「二十四時間以内に毒入りワインを特定するために必要な奴隷は最低十人」
軽い世間話のつもりで振った言葉が、疑問符すら伴わずにあまりにあっさりと打ち返されて拍子抜けした。全身真面目ちゃん一色の年下の上官が形のよい唇を引き結んで、静かにこちらを見詰めてくる。
腕に巻き付いた手錠代わりのデバイスの、無機質なホログラムだけが光源の役割を果たしていた。身に纏っていたブラックスーツが白っぽく汚れてしまっているのが見える。隣の男も似たような有様だった。
ご丁寧に電波がきっちりと遮断されていて、ドミネーターはただの鉄屑だ。
「なあんだ、知ってたんですか」
「二進数を活用すれば解ける問題だ」
「簡単に、と言わなかっただけ懸命ですねえ監視官。チョコレートどーぞ」
「どうも」
簡単にぺこっと頭を下げてみせる狡噛監視官は、何の疑いもなく素直にこちらへ手を伸ばしてくる。学生みたいな幼さを脱ぐ気配は見当たらない。
執行官に従順な監視官なんて、彼以外に知らない。いや、従順は言い過ぎかもしれないが、感覚的にはそうだ。我々を道具扱いしないという点において、この男は異質だ。
いつか盛大に手を噛まれるだろう。そう助言してやる者は少なくないが、彼の態度が変わった試しはない。
銀紙とセロファンに包まれた安いそれを大きな手のひらに落としてやる。長い指が包み紙をカサカサと鳴らしながら引き剥がして、カラフルで安っぽいコーティングのそれを早速口に運んでいる始末だ。本当によく死んでいないな。
彼は手元の監視官デバイスにちらと視線を投げて、落胆の色の息を僅かに吐く。
「……ま、気長に待ちましょうよ」
「……ああ」
急に素っ気ない。彼の会話のツボが全く分からないまま、バディを組んで三ヶ月が経った。
廃棄区画の半ば辺り、いかにもといった風情の雑居ビルの一階。執行対象者を追い掛ける最中で「これ罠ですからねえ」と予め言葉を投げておいたのに、監視官は頷いただけでその実なあんにも分かっちゃいなかった。この場合、わたしが囮なんですよと明言することが唯一の正解だったらしい。
割れた酒瓶や注射器の転がるビルの廊下を走って、獲物に誘導されて開いた扉の先、入り口から直径二メートル、あるはずの床にはぽっかりと深淵が浮かんでいた。
咄嗟に重心を移動させて、部屋の────かつて大衆居酒屋だったのだろう、カウンター席の奥に逃げ込んだ標的を執行すべくドミネーターを構える。びりびりと肌を伝う殺気と共に、標的のお仲間さんが奇声を上げながらわたしの背後に迫ってきた。お薬飲めちゃいましたか。
前門の虎、後門の狼にしては弱っちい。わたしひとりで十分対処できると踏んでいたのに、監視官の残像が視界を擦り抜けたものだから、大慌てする羽目になった。
地下に飛び込む形になったものの、それでも運良く綺麗に受け身を取れたので、互いに被害は最小限に留まった。廃墟ビルの地下の扉は重厚で、内側から鍵が開けられないところを見ると監禁を目的に作られていることが分かる。何より趣味の悪いガラクタが床に散乱していて埃っぽい。シンプルに最悪である。
「前線に飛び出すとか一体何考えてるんですかあ? いや別に間違いかと言われたらアレですけど」
嫌味のひとつくらい許されるだろう。監視官は薄汚れた床から立ち上がって、涼しい顔のまま「これが最適解だった」などと宣った。絶対早死にするぞこの男。
デバイスの僅かな光で周囲を検めると、部屋の角に設置された革張りのカウチソファの上、今回の発端であろう女性の遺体を発見した。損壊はそれなりだ。
蹂躙の痕は胸糞悪い。彼女の目蓋を閉じてやるくらいのことしかできない。脳内で一致した被害者名を述べて、両手を合わせる。上官は長い足でこちらに歩み寄ってきた。
「デバイスが使えないのに、その状態の遺体でも分かるのか?」
「資料は事前に確認しましたし、自分の目で見りゃ分かりますよお」
まあ別に、そんなの監視官が分からなくたって問題はない。彼は神妙な顔でわたしの横に立ち、同じように手を合わせた。
面を上げた監視官の瞳が揺れている。
「あーあ、こんなので感情を動かしてどうするんですかあ? 一瞬で色相濁っちゃいますよ?」
「……そこまで激情家じゃない」
「またまたあ」
真面目ちゃんがむっと唇を尖らせた。
呼吸を失った肉体に、この場でこれ以上のことは何もできない。比較的汚れていない壁にもたれつつ腕や背やアキレス腱をぐいぐい伸ばし始めたわたしを尻目に、狡噛監視官は仁王立ちで根気強くデバイスを弄っている。損な性格だな。今日は営業終了で良かろうに。そう思わないことが色相を美しく保つコツとでも言うのか。
我々の信号がロストしたのは明らかなはずなのに、他の班員は修羅場の中でワルツでも踊っているのだろうか。堂々と仕事をサボる口実にはなるが、こんな空気の悪い密室の中、全力でくつろげるはずもない。無為な時間がただ過ぎていく。
「そもそも執行官を庇って落ちてちゃ意味ないんですよ」
「その後で蹴落とされたあんたに言われたくはないな」
「いやーわたし、ちゃんと獲物を狩ってから落ちてますのでえ」
「………………」
ハリネズミの針みたいな黒髪を片手で掻き回して、彼は少しだけ唸った。こんな時に正論を吐くべきではなかったな。まあ執行官に情緒を求める方が異常なのである。
わたしがこの男を諫めたくなる瞬間があるのは、どうにも避けられない事象に思われる。
気味が悪いほどの成績で公安局に足を踏み入れた彼は、思えば最初から真っ直ぐな目でこちらを射貫いてきた。今日に至るまでそれは変わらない。監視官らしからぬ愚直さにこちらの肝が縮んだのも、一度や二度の話ではない。
時折その瞳が潤んでこちらをじっと見詰めてくるのも、大変心臓に悪かった。
ただでさえ寿命には期待できないのに、ますます窮地に追いやられる気分だ。わたしが一体何をした、と声を荒げて遠ざければよいのかもしれないが、生まれたての雛みたいに後ろをぴよぴよついてくるので邪険にもできず、気力が削られる速度は右肩上がり。
わたしを盛大に笑い飛ばす同僚の佐々山が、この見た目だけは良い朴念仁かつ意味不明な上官をどうにかしてくれるわけもなく。体の良いオモチャ扱いに苛立ちながらも、ただ与えられた使命に専念するしかない。
今日とてそうだ。仕事中は一定の温度で大体はきちんと任務を遂行するくせに、時折油断すればこうだ────いや油断するなよと指摘されたらわたしも唸るしかない。しかしそもそもの原因はこの男にあるからして。
それで、冒頭の世間話を振ったわけだが、全然上手くいかないし。
彼を見ていると、まともだった頃の自分を嫌でも思い出す。色相が濁る前のわたしはキャリアを夢見て直向きに努力する、それこそ真面目ちゃんだったわけだが、転げ落ちた後の人間なんて誰しもこんなものだ。健気だった小娘の気配は跡形もない。
肺がそわそわする。思ったより天井が高いとは言え、流石にこんなところで吸うのはな、と僅かに残った良心が咎めた。そんなものがまだ己の中に生き残っていたことに驚く。
身体に悪いものほど美味しいと感じるのは幼少期の経験によるらしいが、酒と煙草が欠かせなくなるのは大人になったからか、駄目になったからか。
「……全ての物質は有毒である、って誰の言葉でしたっけねえ」
「パラケルスス」
「あー、そうそれです。監視官さすがあ」
一拍も待たずに正解が打ち返されて、割と素直に感心する。ほんと、こんな現場で手を拱いていないでさっさと厚生省のキャリアを登り詰めて、執行官の待遇改善に尽力していただきたいものである。
ライトに青白く照らされる彼の横顔には、紛れもない疲労が滲んでいる。
肉の焦げるにおいや濃すぎる血のにおいに慣れるより、机の上で書類を片付けている方がずっと良いに決まっている。正義感を己に塗装してドミネーターなんてろくでもないものを握る仕事なんて、彼には相応しくないだろう。
無意識のうち、スーツの胸ポケットに手を伸ばしかけた時だった。
「……あんたは、どうして執行官に?」
急に振られた世間話の、その遠慮と脈絡のなさに盛大に吹き出した。監視官が不思議そうな顔をこちらに向けているのが分かる。捩れた腹筋を両手で支えて、滲み出た涙を指先で払う。
「いやあ監視官、その見た目でデリカシー皆無なんて事故ですよ最早」
「誰が事故だ」
ひとつも緩まないネクタイの結び目みたいな彼は、眉を少し動かしただけでわたしを観察するモードに戻ってしまった。
絶対にこんな、血と埃のにおいに塗れた地下室でする会話じゃない。人工的に着色されたアルコールとチーズで乾杯するのが似合うようなカウンター席でやるべきだ。別に求めちゃいないが。
それ、命が惜しいなら他の執行官には聞かない方が良いですよおと申し伝えるわたしは褒められて然るべきだ。
似てはいけない部分が佐々山に似てきてしまっているのではないか、この男。可哀想に。誰も助けてくれませんもんねえ、と告げる。必要ない、なんて強がるところが可愛らしい。
首の筋肉を伸ばしながら、カウチソファの足なんかをぼんやり眺める。アイアンのそれに被害者の女性の髪が絡まっているのが分かって苦々しい。
わたし自身も言えた義理ではないな。
「……大切な友人を失いまして。犯人を見付けて好き勝手やっちゃったんですよねえ」
色相はお察しですよとからから笑うと、彼は眉を顰めた。自分で聞いておいて何ですかその顔は。正直に吐露したこちらが馬鹿みたいではないか。
まあ馬鹿だったので、当時はドミネーターで執行する前にタコ殴りの上に刃物を持ち出して色々やってしまったのだが。最初はわたしの後ろで爆笑していた佐々山が、真顔で制止してくる程度の惨劇だったと言えば十分だろう。
そんな風には見えない、と男が口を滑らせた。そりゃどうも。善人の皮を被り直すことは容易いが、すっかり濁った色相は誤魔化しようがない。シビュラシステムという箱庭の中で生息せざるを得ない限りは。
「……元監視官だったのは、本当なんだな」
「数ヶ月だけですよ、そんなの」
現に執行官になってからの歴の方が長い。十年後のキャリアより目の前の悪を殺すことを優先したなれの果て。間違っても真似しないように、と胸を張ると嫌そうな顔をされた。
人事システムを盗み見る彼の度胸を窘めるべきか、手を叩いて褒めるべきか。暫く沈黙が落ちた。デバイスで遊ぶのにもようやく飽きたのか、上官は少し俯いて、口元を指で押さえながら長考に入ったらしい。
そうか、と彼はぽつりと呟く。水分を失ったアクリル樹脂の絵具みたいな声で。
「あんたの正義を、全うしたのか」
なんてことを言うのだこの男は。
絶句するわたしを他所に、彼は妙にすっきりとした目でこちらを捉えてくる。ブルーライトを浴びた虹彩がきらきらと眩く。ぞっとした。
ただの暴力を正義に挿げ替える、その危うさに眩暈がする。本当に大丈夫なのかこの監視官は。側頭部まで痛み始めた。
「……全く褒められた行動じゃないですよ、それ」
「何が」
「仲間扱いの上にメンタルケアまでしてくださるのは結構ですけど、絶対痛い目を見ますよーって話」
まあ佐々山から既に遊ばれているかと思わず零すと、彼は機嫌を損ねたのか、痛いほどだった視線を逸らした。学習してるくせに何故繰り返すのか。その脳味噌はお飾りか。
被虐の似合う男ではあるだろう。そういう星の生まれに見える。個人の感想だが。
「てか、遺体の傍で女を口説く情緒ってどうなんです」
「く、口説いてない!」
一瞬で耳を赤く染めて、彼は一歩大きく後退った。動揺にあっさりと震えた語尾は愛おしい。可哀想だ。道理で佐々山が可愛がるわけである。遅効性の毒みたいな男だ。
噛み殺し切れなかった笑みを誤魔化すみたいに、煙草を咥えて火を付ける。彼の肺を汚すくらいならわたしにも許されるだろう。
案の定、監視官は少し眉を顰めてわたしの口から零れ出る白の煙を眺めている。健康を害するぞ、と想像通りの言葉が飛び出してくるものだから、我々は友人にはなれないなあと強く実感する。
彼の切れ長の眦は熱を帯びていた。別にわたしが望んだわけじゃない。決してよくない兆候と理解している。
少し腰を折って、わざとらしすぎる角度で彼を見上げた。
「そうそう、そーやって初々しい感じでいてくださいよ、ねえ」
監視官を引き摺り下ろすのは赤子の手を捻るようなものだが、それでは面白くない。
彼の熱情を受け止める資格はない。火遊びならわたし自身が許すだろう。自分の手で人を殺めたその日から、わたしはもう変われない。
「監視官、いつか、ちゃんとわたしを撃ってくださいね」
言葉を失った狡噛監視官を認めて、わたしは遂に堪え切れなかった笑い声を上げた。
傷を舐め合う日が待ち遠しい。そう、これがきっと最適解だ。