鉢屋三郎(落第忍者乱太郎)現代設定
この男は時々、わたしを見ながらわたし以外の誰かを探している。
「どうかしたか」
「……別に」
簡潔な言葉のぶつけ合いを紛らわすようなタイミングで、男は視線をわたしに落としたまま、静かに紫煙をくゆらせた。この場合はわたしが誤魔化してもらったということになるのだろうか。
喫煙者でもないのに同じ屋根の下、他人の副流煙を身に纏う間抜けな有様だ。三号館の傍の、屋根があるだけの喫煙所でただ肩を並べている木曜日。やっぱり隣の男に倣ってコートを羽織っておくべきだったと、薄手のストールに顔を埋める。
鉢屋三郎とは大学一回生の頃からの付き合いだが、未だによく分からない部分が垣間見える。底知れぬと言うか、年齢不相応と言うか。
違和感は常にわたしの隣にあったが、指摘するほどのことでもない。せいぜい針が皮膚を僅かに刺すような、些細な痛みだ。今日の探るような視線もいつものことであったので、今更それに腹を立てたり、感情を揺さ振られたりすることもなく、ただ適当に受け流していれば良かった。
そのはずだった。
「……なに?」
「別に?」
鉢屋の視線はぼんやりとわたしをなぞったままで、内臓が妙にざわつく。言いたいことを我慢するような奴ではないと思うが、今更「別に」なんて言葉で濁すくらいだ、明確な回答が返ってくるとは思えなかった。
グラウンドではしゃぎ倒すフットサルサークルの声を掻き消すように、部室から後輩のバンドの演奏が音漏れしている。体育館の舞台裏を改造して作った軽音部の部室は防音性などないに等しいので、練習時は音量を控え目にしないと大学近隣住民から苦情のお電話を賜ることになってしまう。今の時間帯は竹谷がサポートで入っているバンドだ。今の一曲が終わる頃に部室に乗り込むか。
鉢屋の手元にはまだ火を付けたばかりの煙草が一本、わたしの手元には最近機種変したばかりのアンドロイドが一台。対話を諦めたことによる沈黙の中、男の視線は屋根の向こうの筋雲に、女の視線は液晶に向かった。
偶然にも鉢屋と機種が被った色違いの薄い板は、まだ手に馴染まない。もたもたと画面操作を繰り返していると端末が震えて、ぽこんと通知が飛び上がる。尾浜だ。
『寝たのにフラれた! こんなことある!?』
わたしはお前の手の早さが怖いよ。同級生でなかったら絶対に関わらなかった。そしてどう考えても「振られた」の一言だけで良いだろうが。いやそもそもそんな報告すら不要である。
こないだの近隣大学との合同ライブで出会った一回生に、部室で鬼のように連続でメッセージを送り続けていた尾浜の末路を嘲笑うのは簡単だが、恋の病を煩っている輩をからかって遊ぶと倍になって返ってくるので、静観するのが正解だった。今度こそ本物であるかもしれないのだし。さて、正しい傷心とは。
涙ぐむうさぎのスタンプが送られてきて面倒だ。通知を指先で弾き飛ばして無視を決める。尾浜の使うスタンプは可愛らしいものばかりで鬱陶しい。いやスタンプに罪はないのだが、共に送り付けられてくる文言が最低なことが多い故である。
空いていた鉢屋の右手が、わたしの左手を攫った。
飲み会でよっぽど潰されない限り、この男がベタベタするなんて滅多にない。七松先輩のいる飲み会が恐怖の代名詞であることを思い出す傍ら、左手はそのまま男の方に引き寄せられた。
手の甲がしげしげと観察されている。訝しむわたしに向かって彼は薄く笑って、こちらから視線を外した。
「……いや。お前の手は小さいな」
ああ、こういうのだ。よく分からんが噛み合わない。
手元のカードを全部見せたような顔をしておいて、それが本当に四十二枚あるのかなんて数えさせてくれるわけもない。自己完結の仕上げにメントールを吸って、骨張った指がわたしの手の甲に僅か浮いた血管を撫で上げる。
それきり言葉を発する様子が全くないので、わたしは次の学内ライブのタイムテーブル作成に意識を向けることにした。
この男、こんなんでも軽音部の部長で、わたしは副部長の立場を仰せつかっていた。我々が破局すると部の空気が終わることは互いに理解しているが、今のところその兆候はないように思われる。三回生の春。
鉢屋の指はわたしの手首にゆるりと巻き付いて落ち着いて、脈拍を勝手に数えている。手を取ったのは肌寒かったからだろう。そういうことにしておく。
不破と鉢屋は顔立ちが不思議なくらい似ていて、血縁関係がないというのが未だに信じられないでいる。鼻筋なんてそっくりなのに。本当に赤の他人? と首を傾げた時に、何故か二人に苦笑いされた。一回生の春。
ついこの間だったはずなのに、数年でいろんなものが変わってしまった。良くも悪くも、月日の流れには抗えない。
うちの大学の軽音部は、四回生になっても引退の概念がなかった。卒論と就活の合間、こうしてだらだらと部室に溜まるのは一回生の頃と何ら変わらない。そろそろ後輩たちのために場所を譲るべきだと思いながら、結局食堂や空き教室よりも居心地の良い部室に舞い戻ってしまうから、始末に負えない。部室の炬燵は魔窟に等しい。すまない後輩たちよ。次期部長の田村には今度学食でも奢ってやろう。鉢屋が。
テレパシーでも感じ取ったか、炬燵に転がっていた鉢屋が上半身を起こした。なあ、と呼びかけがある。
「お前のエントリーシート見せて」
「なんで」
「興味本位」
「まあ良いけど」
汚さないでよと念押しして、クリアファイルに挟んだばかりのちょっと上質な白を手渡す。胡散臭い視線が流れるように文字列をなぞっていく。伏せられた目蓋は薄く、最近ろくに太陽光を浴びていないからか、久々知には負けるが青白く見える。軽音部員は健康体と不健康体の二極化が激しい。
就活に備えて、鉢屋の髪型はこざっぱりと整えられていた。剥き出しの額と耳にまだ慣れない。何より黒染めまで施されていたから、別人みたいだった。
まあ当然、喋れば本人である。しぱしぱと瞬きを繰り返す彼の飄々とした表情は、いつもと変わらない。興味の薄そうな瞳が、ゆるりとわたしの顔に向いた。
「こんな字だったか?」
「そりゃ普段より丁寧に書くでしょうよ」
鉢屋のも見せろと言うと、クリアファイルごと手元にやって来た。どれどれと上質紙を取り出して、志望動機の欄を眺める。
「……こんな字だったっけ」
「な? そうなるだろ」
余所行きの文字は意外にも美しく、板書を写す字の汚さは何だったのかと思わせる。自分が読めりゃそれで良い、と笑った彼の成績はかなり良く、何だかんだわたし自身もお世話になったものだ。ルーズリーフの解読にかなりの時間を要することを理解して、途中から久々知に乗り換えたけど。いや、試験勉強の師の話である。
「……習字やってた?」
「いや?」
「硬筆より毛筆のが上手そう」
「見てもないくせに何言ってんだか」
くしゃりと笑うその目が、さびしい色に見えた。何故だろう。
就活は夏真っ盛りの中で終わりを迎えた。
部室のエアコンが壊れたとは聞いていたものの、今日は練習日に当たっていたので集まるしかない。購買で買ったアイスで体温を下げて、ドデカい扇風機で凌ぐ作戦である。
部室の扉を開けると、汗だくになって床に落ちていた竹谷と目が合った。扇風機は辛うじて回っているが、彼が回復するまでには少々時間を要するだろう。彼の額に張り付いた前髪はうねったまま、人工の風に抗い続けている。
「……あれ? 三郎は?」
「トイレ」
リュックを部室の隅に置いて、わたしは壁に立て掛けてあった自分のギターを手に取る。竹谷はその動作とこちらの声音から「もしかして内定出た!?」真っ先に朗報に気付いて飛び上がった。野生の勘か、わたしが分かりやすいのか。
彼女との別れ話の予兆は毎度の如く全く感じ取れないくせに、可哀想な男である。そっちの方が遙かに重要だろうに。まあ今に始まったことではないが。
「おめでたじゃん!」
「はァ?」
妙な言い回しではしゃぎ駆け回る竹谷を、厠から帰還した鉢屋が部室の入り口から見下ろしていた。誤解を招く表現は止めていただきたい。
訝しげに目を細めた鉢屋が、入り口でコンバースのハイカットを脱いだ。後ろ手できちんと靴を揃える鉢屋の口元は、その瞳に反して意外にも緩んで見える。
「誰ができ婚!?」
鉢屋の背後からにゅっとうどん髪が顔を出した。ほれ見ろ不要な魚が釣れてしまった。海へお還り。
結局、いつものメンバーで学生御用達の大学近くの安居酒屋の暖簾を潜った。就活お疲れさまと称した、ただの飲み会である。値段の割にはちゃんとアルコールの入ったジョッキを傾けて、その夜は始まった。八月の末。
ひとまず鉢屋が手早く注文した料理の三分の二が、我々の胃の中にすっかり消えた頃。この中では真っ先に国家公務員の内定を勝ち取った久々知の頭には、美しい漆黒の鳥の巣が爆誕していた。真っ赤な顔をした尾浜にうりゃうりゃと髪を掻き混ぜられたのが原因と見受けられる。不破が全く変わらぬ顔色でぺろりと日本酒を干していく傍ら、竹谷は皿の上の遠慮の塊に箸を伸ばしている。
わたしはと言うと、見事に酔っ払った鉢屋に上半身をホールドされていた。
何だこれは。
何故誰も突っ込まないのか。普段なら尾浜が鬱陶しいくらいに茶化しにくるはずの事象であるし、竹谷は日頃の恨みを晴らすのに持ってこいの展開であるはずなのに。
最初は肩が引っ付いたなあと思う程度だったはずなのに、気付けばこの有様だった。とりあえず隣の席の不破に助けを求めるも「メニュー取って?」お前まだ飲むのか。ソファー席に転がる尾浜を止める者はいない。竹谷はバイト先からの電話で一時的に席を外して、アルコール耐性がそれほど高くない久々知は机に突っ伏して寝た。
鉢屋が動く気配もなく、熱を帯びた吐息が首筋を撫でる。しっかりと冷房が効いているにも関わらず、わたしはこの奇妙な図にじとりと汗をかいていた。人間ひとり分の重み、その全てではないにせよ、引っ付いた皮膚は宵闇の布団の中と同じ熱を帯び始めている。
「鉢屋、暑い」
返事はない。ただの屍らしい。
こちらから顔が見えないのでよく分からん。飲み放題のラストオーダーが来るまでこのままなのだろうか。不破に再度視線を向けるも、電子メニュー越しの彼の瞳は、具の選べるだし巻き玉子に対して持ち前の優柔不断を発揮してしまっている。望みは潰えた。
鉢屋の手が少し緩んで左腕が自由になったので、テーブルの上でしっとりと濡れたジョッキに口を付ける。巨峰サワーはもう随分と薄くなってしまっていて、ほぼ水みたいだ。
不破が悩んでいる隙に電子メニューに手を滑らせて、今度はピーチサワーにする。左手をフライドポテトに伸ばして、辛子マヨネーズを掬った。咀嚼。鉢屋の寝息が鎖骨をくすぐっている。
軽音部で飲み会をやるといつもこんな感じではあるものの、わたしの肌は妙な既視感に震えていた。
────薄暗い灯りの中、縁側で、着物みたいな服を身に纏って、鉢屋の髪は肩よりも長くて。
目蓋の奥の幻影は現実みたいな温度で、頭がこんがらがった。ジョッキの中で薄っぺらく溶けた氷を奥歯で噛み砕いて、その冷たさで白昼夢を破り捨てる。
「ピーチサワーと加茂錦、エイヒレ、アボカド西京味噌漬けですー」
個室のドアがすらっと開いて、店員さんが盆を片手にご登場である。だし巻き玉子で迷っていたはずの不破は、結局全く違うメニューに落ち着いたらしい。店員さんの生ぬるい視線に恐縮しながらジョッキを交換する。まあこんなの、学生の特権みたいなものだ。お許しいただきたい。
「てか、不破それ飲み放題のやつじゃないでしょ」
「あ、バレちゃった。皆には内緒にしてね?」
「えーっじゃあ勘ちゃんも!」
「自分で勘ちゃん言うな」
こんな時ばかり飛び起きた尾浜の口にフライドポテトを突っ込んで、わたしは再びジョッキを傾ける。眉間に皺が寄った。このピーチサワー、ピーチの味が皆無である。学生バイトの店員さんが配分をしくったに違いない。稀によくある。ただの炭酸と錯覚しそうなピーチサワー擬きを喉に流し込んで、溜め息を押し殺した。
薄いカットソー越し、鉢屋の体温はこちらによく馴染む。
「何はともあれ、みんな無事に就活終わって本当に良かったよねえ」
枡酒のグラスに口を付けながら不破が頬を緩めた。尾浜は口の中のものを飲み込んだ後、後輩女子達を悉く撃墜する用の笑顔を浮かべて頷く。
「でも、卒業したらバラバラになっちゃうよな。いつものことだけどさ」
「今回はみんな土日休みだったろ? 大丈夫だと思うけどな、三郎も」
「やっぱり定期的に集まるようにした方が良いかな? 生存確認がてら」
……何か、妙だった。
不破と尾浜の視線は鉢屋の後頭部に向けられている。穏やかな寝息と、どくどくと脈打つ手首がわたしの肌を掠めていた。慣れてしまった鼻が、今更煙草のにおいを捉えて辟易する。
「あーっすまん、バイト先からヘルプ入ったから行ってくるわ! 雷蔵、立て替え頼めるか?」
戻ってきた竹谷がしわくちゃの顔で吐露するので、わたしと尾浜は爆笑した。こんな夜分に呼び立ててくるバイト先────駅前のコンビニである。可哀想に。不破は菩薩の顔で片手を挙げた。
頑張れ~と気の抜けた声で竹谷を送り出した尾浜が、くふふと悪そうな笑い声を上げる。
「はっちゃん、アレだろ、新しく入ったバイトの子にコレよ」
「尾浜の妄想力は四年間で悪化したよね」
「何を言う。真実はいつもひとーつ!」
鬱陶しい酔っ払いがいくら騒いでも鉢屋は身動ぎひとつすることなく、ただ健やかに眠っていた。どんだけ疲れてたんだろう、この男は。
「そうだ、今日もう三郎駄目だと思うから、家まで送るよ」
エイヒレに齧り付いた不破から神のような提案が示され、思わず拝みたいところだったが、当の鉢屋が邪魔でシンプルに叶わなかった。
「頼むわ。わたしじゃ持って帰れないし」
「ん? 介抱してくれるよね?」
「……待って、どっちの家?」
「三郎の家はいま荒れ放題だから」
わたしの家が荒れていない保証などないのだが。決定事項みたいに不破がにこりと笑ってちびちびと日本酒を舐めている。
数名の男手を借りて、ぐにゃぐにゃの軟体生物と化した鉢屋をわたしの下宿先に運搬した。尾浜は途中でスマホが鳴って抜けたので、そういうことだろう。爆睡していた久々知もしっかりと意識を取り戻していて、祝賀会は大体いつもの感じで幕を閉じた。
触ると冷たいタイプのラグの上に転がされた鉢屋を見届けて満足したのか、久々知と不破がにっこり笑って玄関の扉を閉めた。二次会だの何だの言い出すかと思ったので、ちょっと拍子抜けしたのは内緒である。
酔っても顔色は変わらない鉢屋の腕が、何かを探し求めて宙を漂っている。見事に寝惚けているな。とりあえず転がっていたクッションを押し付けてやると、彼はそれをぎゅうと抱き締めて動かなくなった。
グラスだと鉢屋は手を滑らしそうだと思って、食器棚からマグカップを取り出し、蛇口を捻る。ついでにエアコンのスイッチも入れた。今日は熱帯夜だ。死活問題である。
「さぶちゃんや、水置いとくよー」
「…………すまん」
床から消えかけの返答があった。流石に覚醒してくれたようで良かった。時刻は二十四時手前。今日はもう泊めてやるしかないのだろう。
終電を逃したからと言い訳して我が家に入り浸っていた鉢屋は、二回生の冬から晴れて下宿生になった。それでも我が家の滞在時間は伸びるばかりで、今日もこうして記録を更新し続けている。
「ここまで盛大に酔っ払うの珍しいね。シャワーどうする?」
「……汗でべたべたするし、入る。お前先で良いよ」
家主を気遣う素振りまで見せるのに、鉢屋はクッションを胸に転がったままだった。とりあえずローテーブルの上の水を勧める。特にチャンポンしていたようには見えなかったが、さっさとアルコールを分解しないと二日酔いの明日が待っているし。
短くなった前髪のせいで、落とされた薄い目蓋がよく見える。
「何か、こんなの前もあったなあ」
わたしの声に、彼の睫毛が震えた。
────縁側で飲み潰れていく竹谷と尾浜と久々知、けらけら笑いながら酒を飲み干す不破、その誰もが長い髪をしていて、ちょっと泥に汚れていて。鉢屋がわたしに擦り寄って、僅か潤んだ瞳がこちらを射貫いて。
丁度今日みたいにわたしにその身を預けた彼の、眦を拭ってやったのは。
「……あー、そうだ。その時も就活お疲れさま会を、した、…………」
意図せず喉から妙な言葉が飛び出した。どうやらわたしもちゃんと酔っ払っているらしい。
だって、あまりに見事な白昼夢で、いや今は夜だけど。これでは尾浜の逞しい妄想力を馬鹿にすることもできないなと乾いた笑みを零しつつ、ローテーブルに鎮座させておいた自分のマグカップに手を伸ばす。
「……なんで、いまさら」
随分はっきりとした声音だと思った瞬間、わたしの手首は男の胸元に縫い止められていた。
もう片方の腕で額を覆った鉢屋が、深い深い溜め息を零す。いつの間にかクッションは床に投げ出されていた。え、とこちらが困惑の母音を零すのに被せて、なんで、と震えた男の声が耳朶を叩く。
彼が起き上がる気配はない。わたしは置き去りになったマグカップと彼を交互に見やって、あまりに鮮やかな幻影に瞬きを繰り返す。勝手に跳ね始めた心音が、体内で喧しく響き渡った。
「……島原でも、会津でも、ちっとも……思い出さなかったくせに」
恨めしさで塗りたくられた声が、足元から駆け上ってくる。ぐわんぐわんと耳鳴りがする。酔っているから、平衡感覚を失っているから、正気ではないから。
は、と思わずこちらが吐き出した息に、くそ、と鉢屋が悪態を重ねる。わたしの手を奪ったまま、彼は胎児のように身体を横に向けて丸めた。
「……やっと寿命を全うしたと思ったら、私に看取らせないし」
突拍子もない言葉の並びに、こちらが目を白黒させる時間すら与えてはくれない。彼の唇から零れ出る二酸化炭素には、確かに苛立ちの色が乗っていた。
エアコンの稼働音が鼓膜を刺激する。マグカップの表面に浮いた水滴が指先に滲んで、錆びた剃刀みたいな声音が震えながら続いた。
「ずっと、腹立たしかった……」
掻き消えそうな語尾は震え、手のひらで目許を隠し、彼はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。欲しい玩具を買って貰えない子どもみたいに、なんで、と彼は繰り返す。
言葉を失ったわたしは、脳裏でちかちかと瞬く幻影に平常心を奪われていた。
初めてひとを殺した実習は、鉢屋が一緒だった。破瓜の記憶の傍に彼が寄り添って、夫婦のまねごとをした任務はそれなりの長さで、僅かな平穏を大事にあたためて。欠けていく同級生、仕えていた城主の没落、煙のにおいが視界すら奪って。
「ちゃんと思い出せよ、全部」
もうほとんど嗚咽に近い叫びが、彼の腕の下でくぐもった。足裏のラグは温度を失って、ぐらぐらと揺れる視界はアルコールのせいだとわかっているのに、まともな台詞が思い浮かばない。
彼の爪がわたしの手首に僅か食い込んだ。そのまま腕が力強く引っ張られ、わたしは床に縺れ込む。うっかり頭を打った。痛みに抗議する暇もない。鉢屋は未だ目許を隠したまま、冗談じゃない、と吐き捨てた。びりびりと皮膚を刺激する声だ。
酔っ払いの戯れ言と笑い飛ばす機会を永遠に失った。わたしの臓腑は冷え込んで、思い出せない島原と会津を想像する。重い蓋が乗っかっているみたいで全く上手く行かない。立ち上がろうにも引っ張る腕の力が強くて敵わない。側頭部はじんじん痛む。
「────私がお前の隣にいた時間、全部だ! 思い出せよ!」
こんなに必死に声を荒げる彼を見たのは、恐らく初めてではないはずなのに。
ぎりぎりと音を立てて拘束された手首は、きっと痣になっているだろう。わたしははくはくと無意味に口を開けるばかりで、まともな言い訳のひとつすら錬成できなかった。
「……ごめん」
ならばと正攻法を選んだら、鉢屋が鼻を啜った。上擦った呼吸を宥めるように、彼はわざと大きく息を吐く。お前の人生、ずっとめちゃめちゃにしたかった。掠れた声が肌を擦る。
そうじゃなきゃフェアじゃない。なあ。私がお前にどれだけ傷付けられてきたと思う。今世は天辺から地獄に叩き落としてやるって決めてたんだ。それを、なあ。なんで。
頑なに目を合わさない彼の、わたしの手首を傷付ける指に自分のそれを絡める。
そっか。わたしにずっとめちゃめちゃにされてきたのか。一向にきちんと思い出せやしない女に期待ばっかり抱いて打ちのめされて、この男は何百年耐えてきたのだろう。
震える彼の指を包んで、わたしは喉の奥で笑った。皮膚を喰い破る爪の返事に、わたしは額を彼の二の腕に寄せる。朧気な記憶を引っ掻き回しても、きっと自分ではどうしようもないと理解していた。
「じゃあ、また百年後に」