「そういえば、イスタンブールには砂漠ってないんだよなあ」
見渡す限り真っ暗な世界。ゲートが開いて一面の砂が俺たちの視界に入ったとき、冬島さんが思い出したように言って、東さんもそれに同調していた。
イスタンブールってどこの国家? とりあえず、砂漠があるこの地はイスタンブールではないらしい。
一晩停泊しようか、と想定外に立ち寄ることになってしまった惑星国家への一時的な滞在を東さんが提案し、散歩してくると扉を開けば、
「あんまり、夜遊びするなよ」
どこで遊ぶって言うんだよ、ここには何もない。
踏みしめる地面はゆるい砂。じっとりとした日本の梅雨を思わす不快な湿度のなか、やはり戻ろうかと考えはじめるほどしばらく何もない空間を歩いていた最中、ついに煙草の先の灯り程度の赤がじわりと浮かんだ。
すぐそばのように思えそのまま歩みを進めたが、まわりに建物がないので目測を誤った。ボーダーから玉狛まで歩いたかというほど長い距離を経て、なぜ俺は換装しなかったのかと疑問を抱く。飛ぶなり走るなりしてさっさと見て回ればよかった。この国のゆるさに、忙しない動きは似合わないからだろうか。ただ、人影を認識してしまったので、さすがにトリガーに触れた。
「あら、人だわ」
その声にこちらも、人がいることを本格的に理解する。
小さな灯りはランタンのそれだった。ぼんやりと狭い範囲を照らしている。真っ赤なラグを一面に敷いて座っている彼女は、まるでピクニックを楽しんでいるようだった。
彼女の前に仁王立ちしている俺によかったら、とグラスにたっぷりとミントのような葉が入った飲み物を彼女が差し出す。疑うことを知らない俺は、躊躇いなくそれを受け取って口に運んだ。ミントとアルコールの強い香りが、鼻先を突きさす。彼女のグリーンの瞳に、よく似合っていた。
「ここは、なにもないんだな」
「もう少し歩けば、街があるわよ」
それらしい灯りは見えない。田舎のいうお隣さんの距離がとんでもないのと、同じようなものだろうか。
そんな想像を察したか、今日からお祈りだからみな出払っているのだ、と彼女は地面を叩いて俺に座ることを促す。やっぱり断る理由に思い当たらないので、おとなしく従う。
「絶食したりするのか」
マゼランだかマダランだか、宗教学の講義で聞いた信仰がふいに思い返され尋ねる。
「絶食? 死んじゃうじゃない」
俺の唯一といえる宗教の知識は、役に立たなかった。勉強なんて、ちっとも価値がないな。
「アンタは? 祈りに行かなくていいのか」
「信仰は自由よ」
宗教がひとり残らずすべての人を巻き込んでいるタイプの国ではないということなのだろうが、この国の薄暗さがその信仰率を物語っている。
「ご旅行ですか」
ここは呑気な国なのか。それとも彼女だけがそうなのか。近界はどこもかしこも戦時中ではなかったのだろうか。
やはり知識より経験こそ宝だと、俺は日頃の考えを裏付けられた気がして喉が鳴る。
「不時着」
「ラッキーだったわね」
皮肉か。ここには何もないではないか。なけなしのモラルで、その言葉を飲み込む。
「旅の話を聞かせてよ」
「代わりに俺の国の話をするか」
「聞きたいわ」
まず、ここにはないけど日本にあるもののことを話した。建物(それはこの先にあるわ)、山(昔だれかに木というものを教わった)(それがめちゃくちゃ集まったのが山だ)、海(それははじめて聞いた)(水がめちゃくちゃ集まったのが海だ)(あっでも味がちがうか)。
浅い話が砂漠を転がっていけばいくほど、深い酒になった。ふう、とひと息ついたときに隣に腰を落としていた彼女との距離感が随分と縮まってしまっていることに、視線が絡んで気がつく。
「キスしたい」
「あなたの国ではそう宣言してから、するの」
「なんでも許可をとらないと、後が大変なんだ。いつも、忍田さんとか風間さんに、怒られる」
ふうん、と息を吐くように彼女はつぶやいた。
許可は得られていなかったが、彼女の二の腕をつつむように掴んで引き寄せ、唇を重ねる。離れては、名残惜しくくっついた。
ぐっと彼女の両肩を押しても、彼女は動じない。トリオン体は解除すべきかと、現実的な問題が頭をよぎる。
隔てるものがなにもないこの場所は、狭い場所のほうが安心すると言う人間の気持ちが、手に取るように理解できるようだった。
それでも開放感よりも背徳感が勝る行為に胸が騒いで、身体は彼女を欲しがった。なにせ、ここには彼女しかいない。
焼けるような朝焼けと共鳴するように、頭のなかがガンガンと鳴り響く。ここには遮るものがないのだ。だから涙が出るほどまぶしく、そして空と地面の境界線がはっきりとわかる。彼女が言っていたとおり、遠くにはうっすらと街並みがあるようだったが、その方角には霧がかかっていてよくみえない。
忘れものをしたかもしれない。ふいに太刀川は思い至った。
ミントの香りが蘇る。鈍い音をたててゲートに引っ張られてゆく遠征艇の中は、ひどく狭い。