ウ、とぎりぎりまでななめ上に伸ばした腕に対してうしろへと引っ張られた首と喉が、これ以上は伸びないぞ、可動域外だぞ、と怒っている。
 かすり、と目当ての箱が指先に触れるが、文字どおりかするだけで掴めない。あろうことかどんどん奥へと押しやられていってしまう。
 身長があと3センチ高ければと思う。欲張らない。3センチでいい。いや、2センチでも、1センチでもいい。人差し指の第一関節にも満たないくらいだろう。謙虚だ!
 ハマり続けて3か月。大学と駅と一人暮らしのアパートで三角を描いたら、ちょうどおへそあたりの地点に位置するカルディで、週にいちどまとめて購入し続けているクランチチョコレートの定位置は店頭入ってすぐ右手のカゴの中だったのに、今日は見当たらなかった。
 店内はわたしには縁のないバレンタインデー間近であることを示す装飾で騒がしいというのに、廃盤にでもなったかとおそるおそる店内を歩けば、突き当たりの棚のいちばん高いところにその見慣れたパッケージはあった。
 目線を平時よりかなり上げないとその姿を捉えることができなかったわたしの身長は日本人の成人女性の平均よりは低い。とはいえ、ここは商品を売るお店だ。商品を手に取って、レジへ向かう必要がある。ご購入いただく品物はさすがに小学生も、とは言わないが、だれだって手に取れる高さに置いてしかるべきだろう。わがまま? そうだろうか? この制度をとっている限りわたしの主張はまっとうだと思う。100歩譲って踏み台を置いておくべきではないか。わたしはチビだけど、わたしより低身長な子も大学の同級生にいないことはない。
 こんなことならヒールを履いて来たらよかった。近所にチョコレートを買いに行くだけなのに、これからわたしはヒールを履いて来なくてはならないのか。
 わたしに購入せず帰宅するという選択肢はなく、さあ、いよいよ店員さんに声をかけるしかないかと腹をくくり、腕を下げ、浮かしていたかかとを床につけ直したところで頭上から手が伸びてくる。その手はさきほどまでわたしがなんとか掴もうとしていた箱を親指と人差し指でいとも簡単につまんだ。
 わたしが邪魔で割り込むのを待っていたほかの客ではなく、気の利く店員さんだ! と、瞬時にそう認識したわたしはかなりハッピーな脳みそをしているのかもしれなかったが、一応その線もこうして思い浮かべることはできるので五分五分といったところだろうか。
「これですよね」
「あ、はい。ありがとうございます。あの、それを2個、お願いします」
 低い声に、へこへこと頭を下げながらもうひとつ取れ、と頼む。ほんとうは5個いきたいところだった。自分でごっそりレジまで持っていくのはいいけれど、他人に頼んでおいて5個も取らせるのか、と思われたくないという見栄がわたしに2個だけリクエストさせる。
 要求どおりふたつの箱をわたしに手渡す人物の顔は、わたしが見上げる必要があるほど高いところにあるようだった。親切にされた相手へのお礼を述べる際の最低限のマナーとして、その人と目を合わせようと視線をあげて───、
 あ、この人知ってる。店員さんじゃない。ツッキーくんだ。山口の友だちの、月島くんだ。
 じつはここでアルバイトをしている、ということはないだろう。だって、ジャージ姿でリュックを背負っている。
 時期は正確には思い出せないけれど、少なくとも四年生になってからではなくて、一年生ほど前でもない。二年生か三年生のころのはなしだ。
 講義終わりに山口と一緒に大学を出て、ふたりとも駅前に用事があるということで並んで歩いていたら、偶然、山口のはなしによく聞いていた月島くんに遭遇した。話題にのぼる頻度の高さから、この人なのか! と、妙な感動すら覚えた。そのままおたがいを紹介され、挨拶をした。挨拶はした。挨拶だけは。愛想がいいとか、陽気で明るいとか、月島くんはそういうのとは縁遠い人だった。かといって、無愛想とか、無礼とかいうのともちがったけど。
 そんなわけで、あの短時間のやりとりでさして特徴のないわたしを月島くんが覚えているかどうかはあやしいところ。
「すみません、助かりました。ありがとうございました」
 なので、知らぬふりをすることにした。感謝は伝えたのだから責められることもないだろう。
 だってわたしはあの日とはちがって、化粧もしてなくて(していたとしても大差ないけれど)、部屋着みたいなゆるい服装で、履きふるしたスニーカーで───とにかくはやく穏便にこの場を離れたい、ということだ!
 伏目のままそそくさと重ねた箱をふたつ持ちレジへ足を踏み出す。そろそろ店員さんたちに顔を覚えられてチョコレート女とあだ名をつけられていてもおかしくない。あとは向かいのセブンイレブンで麻婆丼と缶ビールとレモン酎ハイを1本ずつ買って任務達成だ。もしかしたらじゃがりこあたりも買うかもしれないけど。
 会計をすませて持参していたエコバッグに放り込みながら、出入り口へ向かってわたしは歩きはじめていた。

「ねえ、ちょっと」
 自動ドアがにぶい音をあげたのと、確実にわたしを呼び止めようとしている声が背後に聞こえたのはほとんど同時だった。
 声の主なんて検討しなくったって月島くんしかいない。ほぼ初対面の女に自分から声を掛ける月島くんなんて、解釈違いだ。
 振り返れば、仏頂面の月島くんがわたしを見下げている。機嫌が悪いのか、いつもこうなのか、わたしには判断がつかない。
 べつに、わたしは月島くんから逃げ出したいわけではない。やましいことはなにもないのだ。なのに、彼は責めるような目をわたしに向けているようにみえる。
「普通の大学生はさ、ツッキーだ! 久しぶり〜、とか言って馴れ馴れしく話しかけてくるもんなんじゃないの」
 気持ち少し高めの声で、おそらくわたしに期待されていたリアクションを読み上げた月島くんを、わたしは驚いて見つめた。目を丸くする、とかそういう比喩表現は今こそふさわしいのかもしれない。
「……じゃあ、月島くんは普通の大学生なんだね」
「……ハァ?」
「冗談です」
 戸惑いを隠せないわりには、軽口をぶつけてしまった。月島くんもそんな返答は想定外だったようで、はあ、とひとつため息をついて開閉を繰り返していた自動ドアに近づいて、店外へ出た。わたしはその大きな背中に、一歩二歩、遅れて着いていく。
「月島くんは、何買ったの?」
「コーヒー。挽いたやつね」
「へー……」
 へー、ではない。種類とか、よく買いに来るのかとか、何とか聞けよ、わたし。会話を広げるのが致命的に下手かよ。
「……時間あるなら、駅前のスタバでも行きますか?」
「無理して普通ぶらなくていいよ」
 信号機が点滅を始めて、わたしたちは正面の横断歩道を渡れなくなる。セブンイレブンはここを渡った先だ。月島くんはこの信号を待つのだろうか。それとも、話の区切りがつかないから一時停止しただけなんだろうか。駅へ向かうならこの信号は関係ない。
 月島くん、これからどこへ行くの。横に並んでそう問いかけようとしたけれど、先に月島くんが口を開く。
「山口が心配してた」
 月島くんが言わんとすること、というより、なぜ山口がわたしを心配をしているのか、その理由は想像できた。わたしが三年生の秋くらいから、まともに大学へ通っていないことについてだろう。月島くんは、それを山口から聞いていたということだ。
 単位をほとんど取り切ったというわけでもない。まったく取れていないというわけでもないが、とにかくわたしはほとんど大学構内に足を踏み入れていなかった。
 ゼミにもあんま顔出さないからかなぁ、なんてバックをゆらしながら、へへへ、とわたしの顔を見ない月島くんに声だけであいまいに笑う。
「でも、助けて欲しい相手は俺じゃないんだろうから深入りもできない、ってさ」
 びゅ、と頬を刺すような風に目をつぶる。顔面が痛い。目の前を走り去っていく自動車の走行音がやけに大きく聞こえる。
 他人に依存するのではなく、わたしは自分の力で立っていられるようにすべきだということを、わたしは理解している。それでも、誰でもいいのに。それが山口なら、悪くないと思う。だけど、誰も踏み込んで来てはくれない。こうしてわたしはいつもひとりぼっちだ。ひとりじゃなくなれるなら、誰でもいいのに。
 でも、本当は誰でもはよくない。きっと、山口がわたしに確認せずに認識している、俺じゃない、というのは正解だ。
「……決定的な何かがあるわけじゃないんだよ。ただ、どうしても、いろんなことに心が追いつかない」
 そんな感じかな、と剥がれかけているスニーカーのつま先部分を執拗に眺めながらわたしの近況を述べてみる。
 たった2回しか会ったことのない、友人の親友。ストレートに表現できない気持ちをざっくり吐き出すにはちょうどいい相手だったのかもしれない。
「ぼく、これからスーパーに寄るけど、さんも行く?」
「……買っても、腐らすと思う」
「ふーん。それは、重症だね」
「まあね」
 月島くんが立っていないほうに顔だけ動かして、彼のいうスーパーを視界に入れる。
 どうせわたしが拒否するだろうと踏んでのことだったのか。親友の友人に対する社交辞令。ぼくもお節介を焼いといてあげたけどあれはダメだね、と親友へ報告して体裁を繕うためか。どうして知らないふりしてくれなかったのか。なぜわたしに声をわざわざかけたのか。月島くんに問いただしたいことはたくさんあった。
「部屋、片付けるの手伝ってあげようか」
「散らかってる前提なんだね」
「心の乱れは部屋に出るもんだって、相場が決まってるから」
 脱ぎっぱなしの下着やスウェット。玄関に数袋積み上げられているゴミ。ユニットバスの隅に転がり続けている複数のトイレットペーパーの芯。カビを生えさせてやっとの思いでゴミ袋には突っ込んだ鍋とフライパンとお皿。月島くんのいうとおりの光景が広がっていた。彼もまさかここまでの惨事とは想像していないだろうけど。
 月島くんも人の子で、わたしを哀れみ、同情しているから、このままわたしに何の提案もせずには放りだせない、というだけだ。月島くんに部屋の掃除を手伝ってもらう? わたしのなけなしの羞恥心は、そんなことを許すだろうか。
 それでも、きれいさっぱりしたワンルームで、スマートフォンから小さく音楽をかける。月島くんにコーヒーを淹れてもらう。お気に入りのチョコレートを頬張る。想像する。わずかな、芽生えるものへの期待。そんなものはもう、見えないふりをしたいのに。
 ねえ、どうすんのと、月島くんがメガネのブリッジをくい、と上げる。驚いた、あくまでも本気なんだ。
 わたしのこの沈殿している不明瞭で不愉快な感情に月島くんも覚えがあるのかもしれないと、ふいに思い当たった。
 信号の色が切り替わって、横断可能時間を伝える電子音が冷たい空気を割くように鳴っている。