1.
朝から曇天が広がっていたがなんとか耐えていて、陽が傾きはじめてもなお、地面は濡れていない。
第二次大規模侵攻が敵国の撤退をもって幕引きとなった当日中に行なわれた、開発室での身体検査結果は心身ともに異常なしと告げていた。とはいえ、キューブ化された隊員たちは皆、翌日中に、大事をとって三門市立総合病院での精密検査の受診を約束させられていた。
そうして今日、渋々足を踏み入れた病棟は忙しないという印象だったが、普段立ち寄らない場所なのでこれが大災害の翌日であるからなのか、通常営業なのかは、知るよしもない。
もし前者であるならば、現状問題のない俺については煙たがられてもおかしくなかったが、対応してくれた医師・看護師はつねにフラットな表情や態度だった。風間と一戦ならぬ二十五戦交えたという三雲が重篤な状態で入院していることは知っていたが、病室に立ち寄るほどの関係性はもちろんなく、場所を尋ねることもしなかった。
亡くなった六名のオペレーターの通夜は今夜行われるらしいが、隊員に参列義務はない。何名かの親族には機関関係者の参列を断わられたらしいと、林藤支部長あたりからの情報だろう、木崎から聞いた。とくに驚きはない。俺が知らないだけで、記憶封印措置がどこかでだれかに発動された可能性すらもある。だとしても、こちらも論ずるに値しない。そういう組織に、俺は属しているのだ。
一服して本部基地に戻ろうかと煙草をくわえ、うろ覚えの記憶を頼りに足を進めていれば、屋外喫煙所の屋根が見えた。
先客も確認できたが、その人物はベンチの背もたれに完全に背中を、外壁に頭を預けていて、顔が完全に空を向いている。真っ黒なベンチコートのチャックは首元まで上がっているようで、性別ははっきりせず、まるでその様相は巨大なダンゴムシである。
もしかしたら、雨乞いをしているのかもしれない。
そんな、唐突すぎる奇抜な発想と同時に、んなわけねーだろ。と、背筋に寒気が走った。ここは病院の敷地内。場所が悪い。
早足で距離を詰めれば、すぐに投げ出されている足先にブラックのエナメル素材のローヒールパンプスが見え、正面まで辿り着いたときには、安堵していた。彼女はまぶたを落とし、口をだらしなくぽっかりと開けた状態で空を仰いでいて、コート越しに上半身と喉元が上下していたからだ。
――寝ている。一月の寒空の下で。
その間抜けな口元よりも、化粧が施されていないように見える細いまつ毛に、目が留まった。規則正しく聞こえる寝息を聞いていたのも束の間、ベンチの上に投げ出されていた手元には、火のついた煙草が人差し指と中指に挟まったままであることに気がつく。前屈みになり、短くなりすぎている煙草をフィルター部分から人差し指で弾いた。
煙草がころころとアスファルトに転がってから間髪入れずに、は、と彼女が大きく息を吸い込んだ。眉間にしわが寄り、片方だけ上げられたまぶたが、二度三度とまばたきをくり返した。ゆっくりと口が閉じられるのと同時に、彼女の頭部が起き上がってくる。
「……寝てた」
俺に、自分が寝ていたかと問いかけたというよりは、恥ずかしげもなく宣言するような声色だった。俺を一瞥すると、彼女はふたたび眉根を寄せて、今度は思いっきり咳き込んだ。大口を開けて寝ていれば、喉も乾ききることだろう。
「……よだれ」
垂れていなかったかと、今度は確実に俺に問いかけるていだった。咄嗟ににぎり拳をつくり親指を上げ、首を縦にふり無事を知らせた。ならいい、とでも言うように、彼女は両腕を上げてうんと背伸びをする。
それを合図としたわけではなかったが、コートのポケットに手を入れて彼女の右隣に腰をおろすことにした。ボックスを取り出し、押し込んであった使い捨てライターを引っ張り出して、くわえていた煙草に火をつける。
「体調、悪いんすか?」
ひとつ煙を吐き出したあと、念のために確認する。昨日から親族の病室にでも泊まっていたのかもしれない。案の定、小さな頭を小刻みに横にふって否定した彼女は、お尻を浮かせて俺が先ほどふっ飛ばした吸い殻をつまみ、ノールックで灰皿に投げ入れた。
「……でもあなたは、泣いてた?」
前屈みのまま首だけを動かして俺の顔を見上げている女は、いたって真剣な表情を浮かべているようだった。
「いや、まったく」
「そう。じゃあよかった。そういう人の、気配を感じたので」
お尻をベンチに戻した彼女は、ポケットから取り出したくしゃくしゃになったソフトボックスから、一本煙草を引き抜いた。どうやらラス1だったようで、丸められたボックスも灰皿へ放り投げられる。
「それ、どういう人っすか」
「どうって。まあ、元気がないってこと。元気な人って病院にあんまりいないけど」
公共の場で大口開けて寝ていた女になにを言われてもなんの説得力もないし、そもそも昨日の今日で、すこぶる元気な三門市民というのは少数派であることは間違いない。たいていの占いが統計学であるのと同様の怪しさを感じる。
たしかに、精密検査の結果は週明けに。と言われたとき、なんだよ今日じゃねーのかよ。とは思ったが。楽しみを引き延ばされるならまだしも、恐怖へのカウントダウンは趣味ではない。趣味なやつもいないだろうが。
「……俺は悲劇の渦中にいるタイプじゃねーと思ってたんすよ。モブっす、モブ。ちょっとだけ中心に近い位置にいるくらいの」
「それが、昨日は違った?」
「めちゃくちゃ先陣きって、飛び込みました」
まだ自分がどこの組織に属しているかを告げていなかったが彼女は察したようで、お疲れさまでした。と、小さく頭を下げた。
彼女が泣いていたような気配を感じたというのなら、心当たりがあるのは超フレッシュなこの話題しかあるまい。無警戒で無防備な彼女には、なにを言っても特別支障はないような気がした。ひとりごとみたいなもんだ。
「でも、自分としては危険って感覚、なかったんすよ。だって、死なねーもんだと思ってるんで。死なんけども、その先どうなるかは、わかってなかったっつーだけで」
トリオン体に換装し、三門市内にいる状態で、本部基地のシステムが正常である限り、死ぬことはない。侵攻の初動で緊急脱出機能がエラーを起こすことは考えにくい状況だった。イレギュラーなトリオン兵を目の前にしても、その考えは揺るがなかった。トータルとして、自分が初見の敵の被験体になることが得策だと考えた。まずだれかが犠牲にならなければ、相手の手の内をできる限り見せてもらわない限りは、開発室の優秀な人員たちができることも増えないからだ。
「仮にそこで死んでたとしても、俺は死ぬわけねーって思ったまま死ぬんで、ハッピーっすよね。でも、庇われた側の気持ちって考えてなかったなーとか。まあ、守ってもらった相手に死なれたら、重すぎますよね」
こんな話を数分前に会ったばかりの女にしている俺こそ、重すぎんだろ。と、心のうちでつぶやく。やはり彼女は居心地悪そうに、腰を浮かせて周囲を伺うような素ぶりを見せながら、口をつけたフィルター越しに息を吸い込んでいる。
そして吐き出そうと指先が動いたところで、電子音がけたたましく鳴り響いた。天を仰ぎ、うんざりとした表情で彼女がコートのポケットから取り出したスマートフォンの液晶には、人の名前らしい漢字が数文字連なっていた。彼女は灰皿に向かって煙草を投げる。
「ごめん、できればこの電話を無視して話を聞きたいところだけど」
俺が、大丈夫です。と言うより早かった。彼女は自然な動作で、先ほどまで煙草をつまんでいた手で俺の手首をにぎって、しっかりと俺の視線を捉えている。
「とにかくあなたが今、ここにいるのは間違いない」
親しみとか、下心とかではなく、まるで、脈拍をはかられたような機械的といって差し支えない動きだった。それでもたしかに、彼女の手のひらは俺の皮膚に触れ、そして離れた。
小走りにかけていく黒い塊を、煙草をくわえたまま、視線で追いかける。彼女の冷えた手のひらの感覚が手首にいつまでも残ることはなく、すぐに凍てつくような空気と同化した。
病院から本部基地に戻ってからの時間経過は、まさにあっという間だった。
気がついたときには、組織支給タブレット端末の液晶は午後十時をまわろうとしていることを示していた。先に帰らせた堤が差し入れとして置いていったホットコーヒーは、申し訳ないことにひと口飲んでから、その存在を忘れていた。換装を解いてから、すでに冷え切っているそれを飲み干した。
乗り込んだエレベーターがグラウンドフロアに到着して、電子音とともにドアが開く。迷いなく右にターンして、煙草をくわえる。見えるはずだったガラス張りの喫煙ブースには黒い塊がひとつあり、想定とは違う光景をなしていた。
あの女だと、直感が告げていた。ベンチコートに身を包んではいるが、足元はコンバースのハイカットで、バックパックが床に置いてあるというのは、数時間前とは違うところか。
「あ、こんばんは。また会いましたね」
そして、今回彼女は起きていた。だから、俺がブースに入るなり彼女はスマートフォンに落としていた視線を上げて、そう俺に声をかけている。
「もしかして、職員だったんすか」
「いえ、部外者ですが。ちょっとお使いを頼まれて」
こんな組織にお使いを頼まれる人間の素性はかなり限られるのだろうが、うまく選択肢が思い浮かべられない。とりあえず思考を放棄して、ライターのやすりを擦ることにする。
「もしかしたら会えるかもと思ったけど、ほんとうに会えるとは」
ああ、とか、はい、とか、そうですね、とか。なんらかのリアクションをとらないといけない、と脳は動こうとしていたが、まったくなにも口から出てこなかった。ちょうど息を吸ったあとだったからだということにしてほしい。
「どう? 少しは気分、落ち着いた?」
「……まー、はなっからわりと落ち着いてるっつーところが、ますます気色わりーって感じっすかね」
「なんだか、ややこしいのね」
肩をすくめた彼女からは、嗅ぎ慣れた煙草の匂いと、わずかに薬品のようなケミカルな香りがする。視界の端にとらえた彼女の指先にはさまっている煙草のフィルターの先がほんのり赤く染まっていて、数時間前にはほとんどなかった唇の色が、人工的に添えられていることにも気がついた。
彼女にまた会いたかったか? 話したかったか? という問いの答えは、どちらかといえばノーだろう。見ず知らずの女にあんな要領を得ない感情を吐露したという事実は、できれば穴を掘って埋めてしまいたいものである。
でも実際は、避けようと思えば容易に避けられたのに、彼女の姿をみとめてなお、ブースに立ち寄り、こうしてふたたび会話をしているわけだが。
「おねーさんも、お疲れなんじゃないっすか」
「うん。昨日から病院実習と称して軽率に現場に駆り出され、ついには、こちらのメディア対策室のお偉いさんに、状況報告をするというお使いを頼まれたの。メールか電話でよくない? そもそも、学生が窓口でよかったのかしら」
「……ああ、はあ」
間の抜けた、煙のような音だけがブース内に浮いた。彼女の言い草を素直に受け取れば、どうやら彼女は医学部生らしい。もちろん医師や看護師だとも思っていなかったが、医学部生だとも思っていなかった。当然だ、院内の喫煙所で大口を開けてベンチで寝ている女が病院関係者だとは夢にも思うまい。
彼女は俺のわかりやすい反応をとがめることもなく、淡々と続けた。
「でも今日はもう上がり。明日は夜勤させられる予定。だから、よかったらちょっと付き合ってくれないかな」
店に到着した時点で、すでにラストオーダーの時間だったようだが、どうやら彼女はその店の常連なようで、奥から出てきたシェフが両手で手招きをしていた。
このイタリアンレストランは、彼女の医学部友人父(官僚)行きつけ店の暖簾分けで、味は当然ながら申し分なく、しかも三門市にあるこちらは価格がわりと良心的だということだった。まあ、まずいイタリアンを探すほうが難しいと思うけど、ツウぶってみた。と、彼女はすぐに人差し指を立ててつけ足した。
昨日あんなことがあったのに、臨時休業していないのかと、三門市外の人間は驚愕するかもしれないが、〝あの日〟以来、この街の人間はいつも通りの日常を、不自然だとしても、不恰好だとしても守りたがる。それが、被害のなかった地域におけるあらゆる店舗の通常営業に、如実にあらわれている。
「好きなものから食べる派? それとも、最後まで残しとく派?」
「最近は好きなものしか頼まねーからアレっすけど。残す派だったと思う」
「ふーん」
ふーんってなんだ、ふーんって。そう不満をあらわせば、彼女は目を細めて喉の奥で笑い、シャルドネの入ったグラスに口をつけた。そういえば、彼女が笑った顔を見るのは、はじめてだったかもしれない。
「ああいう災害が起こるのはボーダーがいるからではないのに、勝手に盲目的に彼らのことをわたしたちが頼りきってるのに、怪我したことに対してボーダーにあれこれ文句垂れてる人を、院内で見たことがあったの。ふざけた話よね」
制空権取れないから分が悪いのに、よくやってるよねえ? なんて、彼女は真鯛のカルパッチョをつまみあげて、ひとりごちている。ああ、だから最初に俺が勝手にいろいろ話し出したときに、周りを気にしていたのか、と納得した。
「親も医者なんすか?」
「ううん。だから、奨学金、利子ありと利子なしの両方使ってるほどには、苦学生」
彼女いわく、数年前の未曾有の侵攻を経て、医師や看護師を志す三門市の人間は増えたらしい。ただ、それはかならずしも三門市に暮らし続けることと同義ではなく、その証拠に、彼女たちより下の、第一次大規模侵攻以降の世代は、入学金や学費がほかの大学と比較して割安らしい。不公平だわ。と、彼女は頬をふくらませた。
「あんま医学部のプロセスわかんねーっすけど、何科の医者目指してるんすか?」
「いやー、正直ぜんぜん関係ない道もありかな、と思ってる。医学部入ったのも、努力した証拠がほしかっただけだし。医学部合格・医学部卒の経歴は、明らかにステータスが感じられるでしょ」
「そらそーだ。ま、だとしても、そのために努力できんのがすげーな。現に実習で死にかけてるわけじゃないっすか」
「身体と精神を酷使することで、達成感や自己肯定感を得ているところは少なからずあるので、悪いこととは言い切れない」
「……わかったような口を聞きたくはねーが、わかる」
この点に関してわかり合えることが、一般的にほめられることだとは言い切れなかったが、ことこの意識に関して他人に否定されることを、俺は好んでいなかった。ストレートに言えば、嫌っていた。だから、少なくとも俺にとっては同志を見つけた感覚や、自分の本質を拒絶や非難されないという、安心感があった。
ただ、不思議なことに、俺は彼女のその自暴自棄に似た行動を、たしなめたくもなっていた。自分はそうされたくないのに、だ。そんな身勝手なことがあるだろうか。
シェフ直々に運ばれてきた茄子とリコリッタチーズのパスタとカルボナーラから立ち昇る湯気が、ふたりのあいだで出来立てであることを誇示している。俺に余計なことを言わせないためにあらわれたのかと錯覚するほど、完璧なタイミングだった。
目の前に座っている彼女が、ゆるむ口元を隠すこともなく、身体ごとシェフに向き直って、両手を合わせて礼を述べている。アペタイザーで思い出されつつあった食欲が、いっそう掻き立てられた。
2.
「肉うどんひとつと、きつねうどんひとつ」
翌日、午後二時前、ランチタイムのピークを避けた時間帯。俺からオーダーをとったスタッフが厨房へと消えていくのを見送った。デパートの六階に入っている自家製麺店で、彼女と俺はふたり掛けのテーブルに向かい合っていた。
「今さらだけど、今日、大学なかったの?」
「必修取り終わった文系大学生の講義なんて、あってねーよーなもんだわ」
ならいいんだけどさ。と、彼女は隠す努力を施していない目の下の隈のあたりを人差し指でかきながら、目の前の湯呑みに手を伸ばす。それに合わせるように俺もお茶をすすりながら、やけに見晴らしのいい窓の外をながめる。
ふうふう、と一生懸命に湯呑みのなかに息を吹きかけている彼女を見ながら、べらべらと喋り続けて弁明したい気持ちもないことはなかったが、その必要性を、今のところ強くは感じていなかった。
まぶたを上げたとき、視界に入ったのは見慣れた自宅の天井だった。同時に、自分が眠っていたシングルベッドのとなりに人がいる気配をはっきりと感じた。ゆっくりと顔を傾けて確認した彼女は身体ごと壁際を向いて、ほとんど布団に潜り込んでいた。
もう一軒行かないかと言い出したのは、彼女のほうだった。俺も誘おうとしていた。と、言ってもよかったが言い訳がましいので、ただふたつ返事をして、ここの支払いは俺がしたいと言うことだけを申し出た。彼女は少し驚いた顔をしてからすぐに、ありがとう。と、口角を上げた。よく覚えている。
二軒目は必然的に朝方までやっている店を選ぶ必要があり、一軒彼女に連れてきてもらった手前、今度は自分が選ぶべきかと考えた。そういう意図で、ひとり暮らししているアパートから徒歩約五分の、最近気に入っている炉端焼き屋をチョイスした。
イタリアンだったからワインを選んだけれど、ほんとうはビールがいちばん好きなのだ。と、彼女が自分の顔の倍くらいありそうなジョッキを片手で持ち上げて目尻を下げた一連の行動には、百点をくれてやってよかった。めちゃくちゃ覚えている。
それからの記憶も、ていねいに辿らずとも明らかだ。二軒目の店を出て、コンビニに寄ってアイスを買って、彼女とともに自宅に帰ってきた。そして、昨日(今日の明け方)の俺は自制心があった。
と、まとめたいところだが、疲労とアルコールのダブルパンチで使いものにならなかった可能性も捨てきれない。そのあたりに関する真の理由は定かではないが、とにかく、手を出さなかったことだけはたしかで、アイスもちゃんと食べた。
マタニティハイとかシュガーハイとかと同系列の、戦闘ハイみてーなやつだったんじゃねーのか――と言ったところで、それは免罪符になるんだろうか。ついでに彼女は言うまでもなく、オーバーワークハイだったんだろう。
いや、なんだそれは。要するにおたがい、わりと正常ではないメンタルだったのでこうなったのではなかろうかというのを、ちょっとそれっぽく言ってみたかっただけである。
通りすがりの女と軽率に飲みに行ったり、家に泊めたりしない。少なくとも俺はその部類だったはずだ。素性の知れない女に触れること・触れられることを本能的に拒否している節があった。それが、この有様である。風間や雷蔵にはとてもではないが、知られたくはなかった。
俺が目を覚ましてからほどなくして上半身を起こした彼女は、俺の着古したスウェットを着ていた。おはようと、おたがいに小さくつぶやいてから、彼女が洗面所に向かい戻ってきたときには、昨日着ていた彼女自身の服に着替えをすませていた。
その姿を見て、こういった、前日の夜から翌日の昼までの流れというのは、家に招き入れられたほうが、そそくさと玄関を出ていくことで幕をとじるのだろうと思われた。それを「うどん食い行かね?」なんて言って阻止したのが、ほかでもない俺だったのは言うまでもないことかもしれない。
お待たせしました。と、テーブルにふたつのせられた器の音で思考はいったん停止する。湯気が立ちこめるうどんの器を両手で包み込んでいる彼女の顔には、気まずさのかけらも見えない。
「飲んだ翌日のお出汁は、最高だよねえ」
「だな」
気にしていない風に取り繕っているのかもしれなかったし、慣れっこなのかもしれなかった。どっちなんだと聞いてみたところで、彼女が真実を語るかどうかは、わからない。代わりに、食わねえの? と問いかけようとして、そういえば猫舌だって言ってたな。と、昨夜の会話の一部を思い出す。
「じゃ、お先に」
「どーぞ」
いただきます。と、手を合わせる。記憶に残っている彼女との昨夜の会話をなぞりながら、レンゲの柄をつまんだ。
ひとつ下の階の本屋に寄ると彼女が言って、そういえば、たまに読んでる作家の新刊が出てんだよな。と、断わりを入れて着いて行くことにした。新刊コーナーにそれは並んでいたが、四六判は場所をとるので購入はしなかった。そもそも、彼の小説については、いつだって単行本を待っているのだった。
彼女は書籍に用事があったわけではなく、スケジュール帳を購入する必要があったらしい。もう一月も中旬だ。出遅れている。案の定そのコーナーは縮小されていたが、高級感漂うブラックレザーの大判のそれを、彼女は迷いなく手にとってレジに運んだ。
ちょうど到着していたエレベータに乗り込み地上階についたとき、ガラス張りの壁から見える通りには傘の花が咲いていた。土砂降りではないが、傘を持っている客の量から察するに、スコールではないのだろう。天気予報をチェックせずに家を出たのは不覚だった。
「100均入ってたよな。傘買ってくるわ。待ってろ」
「これくらいなら、わたしはいらない」
「あんたが風邪ひいちまったら、みんな困んだろ」
ふと、不自然な会話の間を感じて、彼女の顔を覗く。彼女の血色の悪い頬が盛り上がって、小さく首をかしげた。
「みんなって、だれ?」
「……先生とか、患者じゃねーの。……実習のメンバーとか」
言葉尻をとらえやがって、と毒づきたくなる。このまま傘を持たずに帰らせて彼女が風邪をひいたら、俺に罪悪感が待っているので、そんなことをしてほしくないというわけではない。なぜなら、このまま別れたならば俺には彼女が明日、風邪をひいたかどうかを知る術はないからだ。
「じゃ、ありがとね。いろいろがんばって。応援してる」
コートのフードを目深に被った彼女は、片手を上げてするりと俺の脇を抜けて自動ドアをくぐってしまう。
「おい、待てって」
数秒遅れて追いかけた先、外に響いていた地面や建物を叩く雨音は、想定していたより随分と大きかった。
すでに雨に打たれはじめていた彼女の手首を背後からつかんで、力任せに引っ張る。当然、彼女はよろめいた。人気のない路地の街灯にそそのかされても、ふざけて引き寄せたりしなかった身体が、俺の胸におさまる。こちらに預けられた重みや、うっとうしいくらいにふかふかとしたコート越しに触れる彼女の骨格は頼りなく、力加減を誤ったら簡単に押しつぶしてしまいそうだった。
通行人の視線は傘で遮られ、それを持たぬ人々は足早で、俺たちを露骨な好奇心とともに見ているような余裕はない。背中から迂闊にまわした腕の中で、彼女のポリエステル素材のコートは潤滑油のように機能した。
猫のような柔軟さでゆっくりとこちらを振り向いた彼女の額には、前髪がいくつか束をつくって貼りついていて、濡れたような瞳が俺を見上げていた。鼓膜は雨音ともうひとつ、騒々しい音だけを拾っている。