1.
「ここ煙草吸えたりしないっすか」
「申し訳ありません。残念ながら禁煙なんです」
FMラジオから流れるリバイバルしたシティ・ポップのバンドミュージックが店内をなでるように響いている。
いかにも古き良き喫茶店らしい店構えをしているので、喫煙可能なイメージをもたれることはよくあることだ。だからわたしは喫煙について尋ねられたときに残念ながら、と枕詞をつけることにしている。
はじめからわたしの返答がわかっていたかのように、レジ台を挟んで向かい合った、大学生っぽい明るい髪色をした男は「そっすよね」と短く言った。「あと、ホットコーヒーひとつ。店内で、ブラックでいいっす」
オーダーを告げた彼がレジ台に乗せたのは深い青にのった細かな箔押しがまるで星屑のようにきらめく封筒と、シンプルな罫線入りの便箋のセットだった。
暗記しているレターセットの価格をキーボードで打ちこみ、コーヒー八百円のキーを押す。小計に指を添えたまま形式的に切手も販売していることを伝え、不要であることを確認してからキーを弾く。
金額を伝えればスマートフォンを引き抜くためであろう、デニムの尻ポケットに手を伸ばしてからすぐ左肩に引っかけていたバックパックのチャックを代わりに引いた。
よくぞ察してくれた。時代に追いつけていないというよりは、追いつくつもりのないこの店にはクレジットカードや電子決済の類が導入されていないのである。
カルトンの上に千円札とぴったりの小銭が乗せられたのを見て会計キーを押しこめば、カシャコーン、と古めかしい機械音とともにドロワーがわたしのお腹を目がけて飛び出してくる。レシートと梱包を断った彼はレターセットを持ち上げ、一歩だけ進んでレジ横に広がっている六席のカウンターのうち、レジ台のすぐ隣の席に腰を下ろした。
お金をしまいながら、彼から二席空けて出入り口側に座って便箋に筆を走らせている女性を盗み見る。彼女が二十分ほど前に一度だけ口をつけたコーヒーは冷めてしまっただろう。
音楽がフェードアウトして十七時の時報が鳴る。わたしとたいして年齢の変わらない、環境問題に強い関心をもつというプロフィールの女性にDJがバトンタッチした。いつ聞いても好みでない声に首を小さく振って、カウンター内に続くスイングドアに下半身を押し当てた。
防災無線からオルゴールの童謡が流れはじめ、弾かれたように放置されていたコーヒーを一気に飲み干した女性が「ごちそうさまでした」と会釈をしながら立ち上がる。ドア前の段差につま先をひっかけてつんのめりながら、慌ただしくドアベルを鳴らした。
「……あぶねーな」
クローザーがかかって、全開になったままのドアへ視線を移した男はぽつりと呟いた。
「あ、大丈夫ですよ。ちょうどいいので空気入れ替えます」
カウンターチェアから身を乗り出したのを視界の端にとらえて、気を利かせて閉めに行こうとしてくれるのを止めた。日中に暖房を入れると暑く、かといって切ってしまうとそのうち肌寒くなる難儀な気候が続いている。
「オッケーっす」
「お気遣いありがとうございます。もし寒くなったらおっしゃってください」
「了解っす」
手元のラップトップを閉じてちらりと見えた、彼の書いている手紙の下部には空白が目立っているけれど、ふたたび腰を落ち着けてもペンを握り直さない。もう書き続けるテンションではなくなってしまったのだろうか。そもそも、はじめから筆が乗っている様子ではなかったけれど。
三門商店街の一角、こじんまりとした店内で国内および海外からかき集めたレターセットとハガキ、筆記用具などを販売している。ついでに、六席あるカウンターで日替わりのコーヒーを提供している。それがこのわたしのアルバイト先だ。
オーナー夫妻が二十年以上前にはじめた店で、お店の二階部分は彼らの住居になっており一度だけ夕飯をご馳走になったことがある。オーナーとふたりのフリーター、そして基本的には週に一度、木曜日にだけ出勤する学生アイルバイトのわたしでお店をまわしている。
仕入れがもりもりある日などを除いてわたしたちが同じ日に働くことはなく、まるでこの店の主人かのようにひとりきりで店番を任されることがほとんどだ。高校三年生でこのバイトをはじめてから、食品衛生責任者の資格まで取らされている。
わたしが彼にコーヒーをカウンター越しに提供したときには、すでにペンケースからボールペンを取り出して数文字書いていた。ちょろりと書いては数分止まり、スマートフォンを触り、コーヒーを飲み、また書きはじめる。隣にいた女性とは対照的なスピードだった。
邪魔をしてはいけない。でも、邪魔をしないようにしているという気配を醸し出してもいけない。結構な高等技術を要する接客である。わたしはカウンターを挟んで、ふたりの客のあいだあたりでラップトップを広げて、課題のプログラムを書いていた。それが許されるアルバイトなど、そう見つかるものではないだろう。
「なんかわたし、歩いてるとよくかかとを踏まれるんですよね」話しかけられた男はカップに口をつけながら視線をこちらへと向けた。「踏まれたらつんのめったり、靴脱げたりするじゃないですか。やっぱり、かなり間抜けに見えるんだなーって、見てて思いました」
カップ・ソーサー・マドラー・ミルクピッチャーをシンクに回収し、スポンジに洗剤をワンプッシュする。オーナーは「この店に余計なおしゃべりはいらないよ」とよく言っているけれど、一回会話が発生してしまうとその後の沈黙がどうにも気になってしまって、わたしは自分のどうでもいい情報を開示することになる。
「そんなに踏まれるんすか」
「今朝も踏まれましたし、週に一回くらい踏まれてると思うんですよね」
街中で、駅で、大学で、わたしの後ろを歩く人間はわたしのかかとを狙い定めたかのように踏みぬく。
就活用のスーツに身を包み通勤ラッシュの電車に乗りこもうとした瞬間にパンプスを踏まれたときは見事に脱げて、左脚のパンプスが線路に落ちた。誰ひとりわたしを心配してくれる者はなく、ストッキングが破れないことを願いながら自分で駅員に助けを求めに行った。しっかりと用意されていた樹脂製サンダルを履かせてくれたことから察するに、それなりに発生する落とし物ではあるらしかった。
「おねーさんの歩くスピードが人とだいぶ違ってるんじゃないっすか」
いつの間にか左手で頬杖をついていた彼は右眉をいたずらにくい、と上げる。
「それは要するに」シンクを叩く水音に負けない程度の声量にすることで、わたしの不満が色濃く出ているかのようになる。「わたしがかかとを踏まれるのは、わたしのせいだと?」
よくかかとを踏まれるのだと不満をもらしたところ「アキレウスだったら死んじゃうね」と笑ったのは、それからしばらくして付き合うことになった男だった。
アキレウスが一体なんなのか、当時のわたしは知らなかったので彼の言うことにただ静かに首を傾げた。ギリシャ神話に出てくる、不死身と見せかけてかかとを狙えば死ぬ英雄だ、と説明する男に「文系じゃないから知らなかった」と曖昧に笑えば「教養がないのは文理関係ないだろ」と煽られたものだった。
ぱっぱと指先から水気を払ってタオルで拭く。今、そのときと同等のレベルでそれなりに不愉快だった。自分から身勝手に話を振って、予想外の反応が降ってきて脳震盪を起こしている。まさか、被害者が責められるなんて思わない。
「見てねーからわからんっすけど。いきなり立ち止まってスマホいじりだすヤツとかいるじゃないっすか。まあ、そんな当たり屋みてーなことじゃなくとも、歩くペースが変わることはあるし。その頻度がたけーのかなーと思って」
ちょっと失礼、と言う代わりに片手を上げてカウンターからレジ台に移動する。ざっと三十分ほど狭い店内を隅から隅まで見て歩いていた女性が、ついに意を決してレジ台に商品を運んで来た。お財布と相談して吟味したのか、それともお眼鏡にかなうものがこれしかなかったのか。万年筆を一本と、レターセットを一セット会計し「ありがとうございました」とおたがいに頭を下げた。
カウンターに戻ると、彼は思い出したかのようにまだ空白の目立つ手紙を封筒にしまった。もう彼のカップの中身は空だった。
「わたしは前を歩いている人のかかとを踏むことは滅多にないので、ペース、合わせられてると思うんですけどね」
捨て台詞みたいなものだった。大人気がないと言うべきか、接客業に向いていないと言うべきか。反論せずにはいられない自分のプライドの高さ、負けず嫌いさに呆れたときには後悔していた。オーナーがトークを求めないのは、この店がどうこうではなくて、わたしのこの気質を見透かしてのことだったのかもしれないと思い当たって、居心地の悪さに拍車がかかる。
「なら、おねーさんがまわりよく見えてて、器用すぎるってことだな」男は封筒をつまんでひっくり返す。「おねーさんが前の人の乱れたペースに自然と合わせた結果、変わっちまったおねーさんのペースに後ろの人は合わせられねーんだわ」
「……それなら、もうしかたないですね。わたしは自分が踏まれなくなるとしても、他人のかかとを踏みたくないので」
「おう。しかたない」
ちょっと彼の口調が子どもをあしらうかのようにくだけたのは気のせいではなく、わたしの精神面の幼さに起因しているに違いない。
情けなさに視線を落としてカウンターの隅に視線をずらすと、手のひらサイズのガラスのフラワーベースへ無造作に放りこまれていたワインレッド・シルバー・ゴールドのワックスが目に入る。
「――あの」わたしは鼻からゆっくり息を吸った。「封蝋って、使ったことありますか」
「フーロー?」
「シーリングスタンプ……えーと、魔法学校から届いたお手紙の封筒とかについているやつ、って言ったらわかりますかね」
同世代ならばたいてい通ったことのあるであろうファンタジー作品の名前を例に挙げると、無事脳内にイメージができたらしい。
「あ、そこにもあるやつっすね」
くるりと椅子を回転させて陳列棚に身体を向ける。
「よかったら、やってみませんか」そのまま彼の背中に問いかける。「直接封筒につけなくても、クッキングペーパーの上でつくって、あとでボンドで貼る方法もあるので」
思いつきのサービスは、果たして償いになるのだろうか。そんなまわりくどいことをするより先に、普通に謝るべきだろう。口答えした結果、素直に謝罪するタイミングを失ったなんてのは言い訳にすぎない。
「いいんすか」こちらへ向き直ってまだ封のされていない封筒の上に手を置く。「せっかくだしこれに貼ってみっか」
手紙にとって重要なのは長さではないだろうけれど、明らかに書きかけだった手紙だ。まだ書きますよね? という意図からの配慮は一蹴されてしまった。
「何色にしますか。といっても、今カウンターにあるのはこれです」
腕を伸ばしてグラスを取り上げ、カウンターの上にひっくり返すとばらばらと三色が散らばる。
「おねーさん的にはどれが合うと思いますか」
「その封筒の色だったら全部アリだと思うので、悩ましいですね」
わたしが合わせるならシルバーだけれど、人様への手紙にわたしの意思が介入するのはなんだか気持ちが悪い。同じような感覚が理由で、人にあげるプレゼントについて相談されるのも苦手だった。
「ゴールドにするわ」
というわりに、違う色を選ばれてがっかりした。そして、それ以上に安心もする。ああ、自分の意見を言わなくてよかった、と。
もしわたしがシルバーがいい、と言ったならば彼はわたしに気を遣って、好みではない色を選ぶことになっていたかもしれない。
口に出していないけれど、脳内でシルバーだと回答しているので彼とは違う意見だったのか、彼の好みを選んでやれなかったのか、としっかり落ちこんでいるわたしは我ながらかなりめんどくさい性格をしていると思う。
「じゃあ、ライターで下から炙ってください」
「……おー」
引き出しからスプーンを取り出し、ご指名のゴールドワックスを乗せて彼に手渡すと一瞬怪訝そうに眉をひそめたけれど、自分が最初に喫煙可能かどうかを問いかけたことを思い出したのだろう。デニムのポケットに詰められていた煙草の箱からイエローの使い捨てライターが出てくる。
電子タバコではなく紙タバコ派であろうというのは、彼が入店してからぼんやりとコーヒーの合間を縫って漂っている煙たい香りからわかっていた。
「丸くなるように流したらスタンプを上から押して、15秒くらいそのままにしてください」
シュ、とヤスリが擦られて火が灯る。熱せられたスプーンにあっというまにワックスが溶け出していく。彼は器用に封筒のふたに、ワックスを中心から外に向かってまあるく形づくっていた。
空になったスプーンを受け取り、スタンプに持ち替えさせる。平べったく太い指先が慎重にスタンプの柄をつまんでいる様子はどこか不釣り合いだった。
「そろそろいいっすかね」
「あ、はい、はい。いいと思います」
短く切り揃えられた爪をぼんやりと眺めていたことに気がついて、外されたスタンプの下に見えてくるはずの模様へと意識を集中する。
「おっ――」イチョウ柄が転写された十円玉のようなワックスが現れた。「いい感じじゃね?」
どれだけ慎重につくっても、スタンプで潰したワックスの外縁がゆがむところが味のように感じられて、わたしは封蝋が好きなのだ。
「イチョウ紋――ここのオーナーの家紋で、イギリスの文具メーカーの方につくってもらったらしいです」顔色を伺おうとして眉を上げる。「こんなもので許されるとは思いませんけども、喧嘩腰になってしまって申し訳ありませんでした」
「あー、いや、ぜんぜん。おねーさんを悪モンにするつもりはなかったんすけど、そうとられても仕方なかったっすよね。すいません」
彼は顔を上げることなく封蝋を人差し指でなぞっていた。スプーンを洗うために押し上げた蛇口から、ざあざあと必要以上に水が流れている。
「イチョウっつったら、生命力とか繁栄の象徴とか言ったっけ」
「そうなんですか。お恥ずかしながら花言葉みたいなものには疎くて……」
柄の凹凸をたしかめるように彼は指先をくるくると動かしている。スプーンを引き出しにしまうと、開け放っているドアから強めの風が吹きこんで、前髪がまぶたを撫ぜて目をつぶる。
「――若くして死んだヤツにゃ、皮肉だよな」
ほんとうに、ちょっとした油断で、わたしは息を止める。
多忙など感じたことのないこの店で、繁忙期をあえて設定するとするならば、母の日・父の日・敬老の日・クリスマスの前。そして、もうひとつあるなだらかなそれは、大規模侵攻発生月日の前――要するに、今くらいの時期のことだった。だから、三門市にあるこの店で死者に手紙を書く人間はめずらしくはない。
いつも明るく元気な同級生がゼミの飲み会で家族の話になり、突然声を詰まらせ泣き出すことに誰も驚かない。過剰に反応しない。それは薄情だからではない。ただ、わかるから、想像できるから、そこにいるだけなのだ。
「イチョウって神社とかお寺の御神木だったりしますし、悪くはないチョイスだと思うんですけどね」
いや、ダメだ。信仰しているほかの宗教があったらフォローにならない。
「あと――」政治・宗教・野球は接客業三大NGネタだというのにわたしは少なからず動揺していた。「おいしいですしね、ぎんなん」
「おい、食べんなよ」
彼は鼻で笑うと、前屈みになってチェアの下に置いていたバックパックを引き上げる。
われわれ三門市民は基本的にあの日の話をしない。自分の身に降りかかった悲劇について共感を求めない。相談をしない。そんな三門市の暗黙の了解を忘れて、うっかり口を滑らせてしまったのか――もしくはそんなこと承知のうえで、たまには聞いてほしかったのかもしれない。
おそらくは後者だったような気がする。これは喫煙者である彼のポケットからライターが出てくるだろう、みたいな根拠はない想像だけれど、それならば深追いするべきだったかもしれない。封蝋をサービスするより、カウンセラーごっこをしたほうがよっぽどよろこばれたかもしれない。
ふと、彼は今とても煙草を吸いたいだろうな、と思った。ここに灰皿があって、わたしも喫煙者だったらよかったな、とがらにもないことを考えていた。
2.
もう来ないだろうと思っていた。
喧嘩腰の接客、そして、話の方向性を察したうえで話題を深掘りしなかったこと。色恋営業していたキャバ嬢が本気になった客の言動に強めに釘を刺したような、致命的な感覚。ここはキャバクラでは断じてないし、わたしは水商売をしたことはないけれど。
だから、昼過ぎに軽快な音を鳴らしたドアの先、風になびかないようにセットされた、イチョウのような色の髪の毛が見えたときには、素直に驚いた。
ちょうど一週間前、あれからほどなくして彼が帰ったあと、〈イチョウ〉〈花言葉〉と検索エンジンで叩いて〈鎮魂〉という意味があることを知った。
故人に宛てたお手紙ならピッタリじゃないですか。わたし、ナイスアシストでは? なんて蒸し返すのはセンスがないだろう。
「土曜と昨日も覗いたんだけど、いなかったっすよね」
コーヒー一杯の会計を済ませると先週と同じ席に腰掛けた彼は言った。
人を選ぶかなり際どい発言だと思うけれど、特別不快な気持ちにはならなかったのでわたしは彼のことを少なからず気に入ってはいるらしい。
覗いた、ということは入店はしなかったということだろう。今日はあれから二度目の来店ではなくて、この一週間のあいだにも来ていた可能性も捨てていなかったけれど、違ったようだ。
わたしは、わたしの働いていない日のことを知る術をほとんどもたない。ほかの従業員と話す機会は多くなく、してもせいぜい、向かいの肉屋の商店会長夫婦の定期連絡くらいなものだ。毎度ツケで一杯飲んでいくので、ある程度貯まったら集金にいかないといけないからだ。
交友関係が広がらないアルバイトだけれど、吐瀉物まみれの居酒屋やひっきりなしに来客のあるチェーンのカフェなど、同世代の友人たちのバイトとくらべればこちらのほうが圧倒的に性に合っていると思っている。
「大学忙しくて、今は基本的に木曜だけなんですよね。クローズしたら研究室には行ってるんですけど」
日曜定休日の店なので、それこそ最初は土曜日だけ入っていたのだけれど、木曜日に講義が入らない時間割になった今年は、土曜日をフリーにすることにした。
ウォーターサーバーからケトルにお湯を注ぎコンロの火にかける。グラインダーをスケーラーに乗せてボタンを押し、重さを0に合わせた。
「なんだ、大学生だったんすね。市立?」
「そうですよ」
振り返って麻袋にメジャースプーンを突っこみ、すくった豆をグラインダーに入れる。ふた粒避けて12グラムが表示されたことを確認し、グラインダーを持ち上げてハンドルを回す。
「学部は」
「うーん」ごりごりと豆が削れていく心地よい振動を手元に感じる。「……理系です」
「無理には聞かねーけども」
「ひみつがちょっとあったほうが、楽しくないですか」
「そういうもんかな」
「そういうもんです」
オーナーは「個人情報を聞かれても答えなくていい」と口を酸っぱくして高校三年生のわたしに言って聞かせた。
特別顔が整っているわけでもスタイルがよいわけでもないので心配しすぎではないかと当時のわたしは自分を低く見積っていたわけだけれど、なにもそういった類のトラブルには限らないということらしい。だから、嘘はつかないけれど、本当のことも全部は言わないことにしている。
「ひとりで店まわしてて、休憩とかどうしてるんすか」
「基本的にぼんやりしてますし問題ないですよ」
「労働法的に大丈夫なのかよ」
さあ、と肩をすくめると、豆の香りを引き締めるようにぼこぼことケトルが暴れはじめて火を止める。フレンチプレスにお湯を注いでシャフトをつけ、カップにも同様に注ぐ。
「今日は昼、食ったんすか」
「はい。カレーの香り、残ってないならよかったです」
「ここでカレー食ったんすか」
「たまにそこのインド料理屋さんがお裾分けしてくれるんですけど、今日はその日でした」
ほんの十分前くらいまで、インド料理屋の日本ではないアジアのどこかの国出身のお兄さんがカウンターに座っていて、カレーをすくいながら当たり障りのない話をしていたところだった。
プレスとカップの中のお湯を捨て、グラインダーから挽き終わった粉をプレスに落としスケーラーに乗せる。電子タイマーをセットしてケトルから勢いよくプレスに半分程度まで湯を注いだ。
「ああ――斜め向かいの」彼は出入り口のほうを見やった。「どうでもいいんすけど、インド料理屋の看板とメニューって全部同じとこに発注してんじゃねーのかってくらい、どこも同じデザインっすよね」
「たしかにー。出店斡旋業者のパッケージとかあったりして」
二投目、160が表示されるまでお湯を移す。しだいにガス・粉・液体の三層の地層ができるので、ゆらゆらとスプーンでかき混ぜてからシャフトをつけ直す。
「あそこのほうれん草入ったカレー、大好きなんですよ」
「ほうれん草ってうまいけどよ、茹でたらめっちゃカサ減ってなんか、もったいねーよな」
「それはわかります」
野菜はもちろん、それにお魚やお肉だって調理すると水分がなくなる分サイズが変化するけれど、ほうれん草のなくなっちゃった感は異常だ。
「向かいのお肉屋さんは商店会長なんですけど、よくコロッケくれるんですよ」
「ずいぶんかわいがられてるんすねえ」
「うちの孫と付き合わないかとか、そういう絡みは鬱陶しいんですけど、ありがたいです」
「いないんっすか」スマートフォンをいじりながら彼は続ける。「彼氏、いることにしといたら楽なんじゃないっすか」
商店街の人たちに自分が馴染んでいることを自慢したくなってしまったばかりに、一気に俗っぽい話に繋がってしまった。
「高二からいないんですよねえ。それに、嘘が後々バレるのも、それはそれで面倒じゃないですか」せめてもの方向転換のために会話の主語を変える。「いらっしゃるんですか。お付き合いされている方は」
「いや――」指先の動きが一瞬止まった。「俺も高二以来、いねーな」
ピピピ、と電子音が鳴ったのを合図にプランジャーをゆっくりと押し下げる。
それは先週から引き伸ばされた限りなく薄い根拠のある、勘。わたしは点と点を無理矢理線にしてしまう性質なのだ。
あの日、大規模侵攻時、彼は高校二年生だったのではないだろうか。もしそうならば、わたしと同い年だ。
大学デビューの一年生の金髪というには顔や眉色に似合いすぎていて、一年生独特の上擦った感じもない。だから、少なくとも彼は大学二年生以上だとは思っていたので計算は合う。
「なんかこう、難しいよな」端末がカウンターに置かれた固い音がする。「――死んだヤツのことすっかり忘れて次に進んでるって思われんのも」
あの手紙の宛先は亡くなった恋人に宛てたもので、その人は高校二年生のときに被災して亡くなっているのではないか。
こういった場合、元カノと呼称するのか、死別した当時の彼女、などと言うべきなのか、適切な表現方法がわからなかった。
「そういうもんですかね」
「そういうもんだろ」
カップをひっくり返してお湯をシンクに流す。プレスからカップへコーヒーを注ぐと顔面にもわもわと湯気が膜をはるようにまとわりついた。
贅沢な悩みね、と言いかけてやめた。悩みに優劣がないことなど知っている。
「――調理の過程でほうれん草は小さくなるけど、消えちゃったわけじゃないですよね。それと同じで、時間と手間をかけることで小さく、消化しやすくなったとしても、なくなっちゃったわけじゃないんじゃないですかね」
ソーサーにカップを重ねてカウンターの上に置く。陶器同士が擦った高い音がラジオの音形に混ざる。組み直した脚がカウンターに当たってマグの中の液体がゆれた。
捻り出した言葉が彼のこれからの人生を左右することはなくていい。ただ、三門市にもおせっかいを焼く人間がいることを知ってもらえれば、くらいには思った。わたしもこの商店街の一員なので、と今日のところは考えを改めたのだ。
「まさか、ほうれん草に例えられるとはなあ」
「プログラミングには国語力も大事なので、そこは任せてください」
「いや、ほめてはねーよ」
「えっ」
くしゃりと真っ白な便箋を握りつぶしたような乾いた笑い声と眉間がまぶしくて、憎たらしかった。
3.
「ギリギリセーフ?」
突然前方から聞こえた声にラップトップの画面を叩きつけるように閉じ、顔が跳ね上がる。
「いらっしゃいませ!」
ドアは開けっぱなしにしていて音が鳴らないので、来客に気がつくのが遅くなる。それを差し引いても遅すぎた。なにせ、すでにカウンターの目の前に人がいるのだから。
アニメの優等生キャラがかけていそうな細いフレームの眼鏡に見覚えはなかったけれど、その声と髪色に覚えはあって、彼が三度目に会う男だと認識できた。
「セーフ、セーフです」男越しに見える壁にかかっている時計は十八時半前をさしている。「あと三十分あります!」
「焦りすぎだろ」
「めちゃくちゃゾーン入ってたみたいで……びっくりした。失礼しました」
二つ折りのレザーウォレット片手に歩みを進める彼をなぞるように、わたしもレジ台へと向かう。
「万引きとかされてねーかよ」
「それはさすがに大丈夫だと思いたい」
店内にはわたしと彼の声だけが響いていて、気分転換にラジオを消してかけていたレコードの針はいつのまにか上がっていた。かれこれ二十分は没頭していたらしい。
「コーヒー出してる店の人が言うもんでもないとは思うんですけど、夕方のカフェインは夜に響きませんか」
「これから夜勤」
「夜勤……コンビニとかですか」
キーを叩いて小銭をぴったり受け取る。コンビニだったらそこでコーヒーも売ってるか、と思い直す。
「いーや、ちょっくら三門市の防衛するバイト」
コインケースの隙間に小銭を詰め、大学ノートに走り書きしていた金額に800円を足して売上金を記入する。
あんまりにも来客がないので二時間前にあらかたレジは締めてしまっている。この一杯、いや、これから大学に顔を出す自分の分も合わせて二杯を淹れたらクローズだ、という決意を確実に実現するためにレジをロックした。
同世代のボーダー隊員に会ったのは彼でふたりめだった。数百人規模だという所属隊員のうち、たったのふたりである。
だからわたしは、正しいリアクションがわからなかった。とりあえずボーダー隊員とアルバイトという単語の組み合わせが奇妙だ、ということだけを感じていた。彼らの雇用形態を知らないけれど、それは厳密にアルバイトなんだろうか。吹いたら飛んでいきそうな責任しかもっていない響きの範囲に彼らを詰めこむのは変な話だ。
「そしたら、テイクアウトカップがいいですよね」
「助かりまーす」
カウンターを通り抜け、ドアにかかっていたプレートをひっくり返してドアを閉める。ちらほらといる通行人の声や足音がくぐもって、店と外に明確に境界線が引かれたようだった。
「コツとかあんの」
「コツ?」
「おいしいコーヒーの淹れ方」
カウンターに戻り湯を沸かしはじめれば、彼は定位置に座って当たり障りのない、でもすぐには答えづらい質問をした。
「ああ――」喫煙者にコーヒーの味のこまかいところまで理解はできるのだろうか。「フレンチプレスは、とくにないですよ」
「ないこたぁないだろ」
「豆さえよければおいしくなりますよ。言うならば豆の質がコツか……」
そういうことじゃねーんだけど、という空気を背中に受けながら豆をすくう。
「なんかこう、自分で淹れるとコーヒー味のお湯みてーな気がすんだよな」
「家ではペーパードリップですか」
「おう」
スケーラーの上のグラインダーにからからと豆を落とせば、液晶に24が表示される。よっしゃ、ドンピシャ。
「コーヒーは化学ですよ。粉の量、お湯の量、時間、温度。全部ちゃんと計らないとダメなんです。抽出技術を向上させたいなら、いつも同じ量でやることですね」
「温度計はさすがに家にねーよ」
「では、諦めてください」
「今すぐ通販します」
グラインダーのハンドルをまわしながら振り返り、ガラス扉の棚をのぞく。普段使っていないサーバーとドリッパーが隅に追いやられているのが見える。扉を引いてペーパーフィルターの入っていそうな箱を開ければ、数枚だけ残っていた。
「そうだ。ペーパーで淹れてみますか。いや、でも正直、クオリティが保証できないですね」
何度かマスターに習ってペーパードリップも特訓はした。とはいえ、しばらくお店はおろか家でさえ淹れていない。
「ノークレームノーリターン。ぜひペーパーでお願いします」
「……わかりました。解説しながら淹れるので、万が一があっても解説代でチャラにしてください」
「ありがてーけど、そこまで心配しねーでも大丈夫だろ」
棚から引っ張り出した器具は埃こそ被ってはいかなかったけれど、念入りに洗剤で洗う。サーバーにドリッパーを重ねてシンク横に置き、カウンター越しにペーパーフィルターの箱を渡す。
「ドリッパーにしっかりフィットさせたいので、それみたいな円すいタイプならペーパーの横をチャック部分に沿って折り曲げて使います」
「は? やべーな、初耳なんだけど」
箱からつまみ上げたフィルターを言われたとおりに折り曲げはじめた手元を見下げる。ぴいぴいと鳴るケトルに黙ってもらうためにコンロの火を消し、湯煎のためにサーバーとドリッパーに熱湯をまわし入れる。
まだ豆の感覚が残っているグラインダーのハンドルをラストスパートでまわしながら、二杯なら粉は24グラム、お湯は320ミリリットルをベースにすることを伝える。
折り目がつけられたフィルターを受け取りドリッパーに重ね、サーバーの中のお湯をシンクに流す。
「92〜96度が苦味・酸味・甘味をバランスよく引き出しやすい温度帯だと言われてます」
「ウォーターサーバーのお湯はそれより温度が低いから、そのまんま使わねーで沸かしてんのか」
「おー、そのとおりです。まあ、わたしはもうお湯の温度は計らないですね。沸騰してから一分くらい経ったら適温なんで、なんやかんや準備してたらちょうどよくなるってことなので」
「おい、誰だ温度計買えっつったのは。注文するとこだったぞ」
「一回計ったってバチ当たんないですよ」
カウンターの上にスケーラーを置いて、その上にドリッパーをはめたサーバーを乗せる。
「粉は平らになるようにならします。でも振りすぎないように」
グラインダーからコーヒーの粉をフィルターに落として、ドリッパーの取手ではなく下部を右手で掴んで振る。さらさらと動く粉を見るときわたしは高確率で幼稚園にあった砂場を思い出してしまう。
「中心からペーパーの外縁ギリギリ手前まで40ミリリットルのお湯をさして、約20秒蒸らします」
ドリッパーからケトルに持ち替えて、粉の真ん中に注ぎ口を近づけてそっとお湯をまわし入れる。
「はーい、先生。なんで蒸らすんでしょうか」
テイクアウトカップと店名ロゴ入りのスリーブをふたつずつ用意しながら、図体のでかい生徒が目の前でご丁寧に片腕を挙げているのを横目で見る。
「それは、ガスを抜いてお湯の通り道を確保するためです。粉にお湯をかけてふくらむのはガスがあるからで、鮮度がいい証拠だけど、ガスがあると成分が出にくくなるんですよ」
「……マジでちゃんとわかって淹れてんだな」
「試したんですか。失礼な人ですねー」
一投目、一円玉サイズの円を描くように中心から外に向けて注ぐ。160ミリリットル注ぐので、蒸らしの分と合わせてスケーラーが200になるまででストップ。三分の一程度フィルターから見えるお湯が減ったら、えぐれた粉を同じ高さに戻すイメージで二投目、280になるまで。ラスト三投目は320になるまで――。
数字をせっせとフリック入力していく手元を見ながら、サーバーの中をスプーンでかき混ぜてふたつのカップに移し、ひとつにだけプラスチックのリッドをはめて、スリーブをつけカウンター越しに受け渡す。
「苦味が強すぎるならゆっくり注ぎすぎ。酸味が強すぎるなら早すぎたらしいです」カップを持ち上げる様子をなんとなしに見ているようで、内心まったく落ち着いていなかった。「豆は先週のと同じだったはずです」
ほんの数秒、一部だけ眼鏡のレンズが曇ってすぐに晴れる。動いた喉を見て、猫舌のわたしはよくもまあ熱々の状態で飲めるなあ、と感心する。
「先週の味は覚えてねーけど、変わらずうめーよ。おいしいです」
まずい、と面と向かって言われることはないだろうから、自分でたしかめるまで安心できない。スリーブをつけてリッドははめずに口元へ近づけて湯気を浴びる。
フレンチプレスとペーパードリップでは香りにも違いが出ているはずだ。推測の域を出ないのは、フレンチプレスでこの豆で淹れたコーヒーは飲んでいないからだ。
「豆がいいので、正直大失敗はありえないとは思うんですけど、さすがにペーパードリップでおいしいのはわたしの手腕かな」
ペーパーで淹れるとオイルが少なくなる分、フレンチプレスと比較するとさっぱりとした味わいになっていると思われる。ついぞひと口味見することはなくリッドをはめて、カウンターにカップを置く。もう少し待ちたい。
「うーわ、なんか言いだしたな」
長い付き合いの男友だちみたいな茶化す声色に安心しつつ、首をひねりたくなる。
「そういう距離の詰め方は嫌いではないし、わたしもそれを求めていた節はあるんですけど、やっぱり今回は素直に肯定してほしかったかもしれません」
いちアルバイトとして面倒ごとは極力回避したい。だからお店の基準に数字でしっかりと間違いなく従っておきたくて、感覚でコーヒーを淹れることはこのバイトをはじめてから一度足りともなかった。分量は計ったとはいえ、淹れ方自体を変えてしまうなんて、どうかしていたのだ。サービス精神が旺盛すぎる。
「悪い悪い。うまかったし、ちゃんとメモったし、やってみるわ。ありがとうございました」
「それならよかったです」
ドリッパーをダストボックスの上でひっくり返してペーパーと粉を落とす。ざん、とゴミ袋が沈みこむ。袋の端を両手で持ち、袋を引っこ抜いて両端を縛った。
目の前で座っている男に立ち去る気配はなく、端末を片手でいじっている。洗い物のために蛇口を上げて流れ出した水の音よりも、聞こえない声のほうが気になった。ラジオDJの声やレコードの音の波で、空間を満たしてほしくなった。
「……ボーダーと大学の両立は大変なんじゃないですか」
「俺は文系だしそーでもねーと思ってっけど。まあ、必修だらけの一年んときはきつかったか」
「わたしは自分がボーダーに入ろうなんて発想には一瞬も至らなかったので。いつもありがとうございます」
三大NG話題と並んでボーダーの話はあまりアイスブレイクのネタとして好まれない。思想がくっきり出るため政治と宗教のミックスみたいで厄介なのだ。
でも多分これは、そういう解釈の不一致による理由の気まずさではない。
「――俺が復讐のためにボーダーに入ったって」彼はカップに口をつけてからそっと離す。「そう思ってるヤツらもいんだよな」
「違うんですか」
彼の手元で所在なさげにしていた、あの紙の白さがちらつく。
口に出せないから書く手段を選ぼうとしたんじゃないのか。でも、書けなかったのならやっぱり、声にするしかないのかもしれない。彼にとってそれは、どうしてか、この場所らしい。
「あの日の時点で、もう付き合ってなかったんだよな」今度こそひと口コーヒーを飲んでから続けた。「前の日に別れてたんだ。俺から言って」
「……なるほど」
「すっかり忘れるもなにも、試しに付き合ってみたってだけでよ。そんな好きだったわけでもねーし」カップをカウンターに置いて半回転させる。「なんか書いたらすっきりすっかと思ったけど、手紙に書きてーこともなかったわ」
半笑いで冷酷なことを言っている。
それでも、あれから年月がいくらか経っているのに、どこかになにかが引っかかっていることがあったということだろう。割り切れない性格は身軽に生きていくには損だ。
「適当に女と付き合ってさっさと別れる男なんて山ほどいます。それを咎められているように感じるんだったら、それは振った直後にその人が亡くなっちゃったからですよ。タイミングが悪かっただけで、そんなに気にすることないんじゃないですか」
彼は否定も肯定もしなかった。わたしが先回りしてあれやこれやと想像を突きつけて、正解を探し当ててもしかたがない。
「ずっと考えてたんだよな。言わなきゃよかった、って」
ドリッパーとサーバーをクロスで拭き上げながら、わたしは黙って耳だけを傾ける。
「わざわざ言わなくったってどうせ永遠に別れることになったんだ。それなら、言わないままのほうがよかっただろ」
砂を噛んだような表情を見てわたしは舌の感覚を失っていた。
たとえば、自宅が全壊した人に半壊したことの愚痴は言えない。家族を亡くした人に片脚を失った生活の不自由さや未来への不安は漏らせない。
そうやって他人のために自分の話をせず我慢している自分は、自分のことをあけすけに話す人たちよりも配慮して生きている。そして、そのように気を遣える性質であることこそが、彼らよりも生きづらく不幸だと思う。
気まぐれで付き合った女に律儀に別れを告げて、悪者になんてなる必要なかったのになあ、傷つけなくてもよかったのになあ、なんて彼の後悔は――訃報の連絡を受け、言うタイミングを逃して恋人として別れた男の葬儀に参列したわたしの滑稽さは――あのとき、誰に聞いてもらえばよかったのだろうか。
「被災した俺らはみんな悲劇の登場人物だろうけどよ。そんなかでも関わりの深い人間を亡くしたヤツらはなんつーか、カースト上位だったろ。好きだった彼女に死なれた男でいんのって、やっぱどっか、ちょっと、罪悪感以上に楽だったんだよな」
彼から背を向け、器具とペーパーの入った箱を元の位置に戻す。
わたしたちはあの日を境にあまり大人から怒られなくなった。腫れ物を扱うように、みんながみんなと少しだけ距離をとっていた。今このときを見るんじゃなくて、いつも相手の背景を推測っているから。つらい出来事を経験した人にはやさしくしなくちゃいけないからだ。
「いいじゃん、楽なほうを選んだって」放置していたカップを持ち上げてコーヒーをすする。「これからも生きてかなきゃいけないのは、わたしたちだもん」
カウンターの下に置いているトートバッグにラップトップをしまって肩にかける。
「でも――」いつもより意識して高い声をイメージしてもう一度口を開いた。「そのずるいところを知ってる人がいてくれると、もうちょっと楽になれるのかも」
左手でゴミ袋を持ち上げて、カウンターの隅のフックに引っ掛けてあったドアの鍵を右手でひったくるように取る。わたしの帰り支度を察した彼は、カウンターチェアを半分まわして片脚をフロアにつけた。
「あの、星空みたいなレターセット。あれ、わたしもお気に入りのやつだから捨てないでちゃんと使いきってよ。もったいない」
カウンターから出てドアの横のスイッチを右ひじでぱちりと押しこむと、人感センサーの小さいライトだけが足元を照らす。
「書いたら読んでくれんのかよ」
「はあ? 嫌だよ。他人宛ての手紙を読む趣味はないし、文才ないしアドバイスできない」
わたしが手を伸ばす前に彼がぐっとドアを押してしまう。頬をさらりとした風が転がった。
「他人宛ての手紙なんか読ますわけねーだろ」
「じゃあ、なんだ。わたしに感謝状でも書いてくれるわけ」
書き出しの一行目に記したい名前も、まだ知らないのに。
それは軽率な思いつきだった。段差に足をかけたスニーカーのかかとを目がけて、パンプスのつま先をひっかける。
「討ち取ったり」
じっとりと文句でも言いたげに振り返った彼の表情は、街灯が逆光になってよく見えない。
「――残念だけど、かかとは俺の唯一の弱点じゃねーよ」
夜風のような声についその姿を重ね合わせようとしてしまうのは、わたしがずっと影を追っているからなのかもしれない。でもそれは、歩みを止めていることと同義ではない。
わたしたちは過去の事象を、全部まとめて背負って抱えてはいられない。だから、ときに捨て置いて、忘れて、都合よく解釈しながら、それぞれのリズムで、ステップで、踊り続けるのだ。