キスマークは初心者マークだよね。
 緑と黄色のツートンカラーのそれに準えてがそう例えたのを覚えている。
 初夏の大学構内で首元に赤い印を携えた女たちがそれを隠す術なく、もしくは所有されていることをアピールするために見せつけている。
 その箇所に絆創膏を貼り付けている女もいるが、なにがどうなるとそこに出血するほどの傷がつくというのだろうか。ヘアアイロンで火傷した、蚊に喰われたなんて言い訳を聞いたことがあるが、そんな程度でわざわざ貼るものか。
「お付き合いはいざ知らず、身体の関係をもったのは大学生になってからなのかもね」
 ラウンジでパックのジュースのストローを啄みながら見解を述べたが、果たしてどちら側の人間なのかは証拠不十分で判断できなかった。

「あ、このポテサラおいしい」
 向かいに座っているが小さく声をあげる。
 手持ち無沙汰にストローを噛んでいた唇は、今夜はジョッキの縁に添えられているし、首元はグレーがかった青いカシミヤのタートルネックで隠されている。
 大学生の頃につけていた偽物の睫毛はなくなり、メイクはいくらか薄くなった。どれだけ時間がなくても唇に色をつけることだけは死守しているらしく、いつもグラスには指先で拭いきれない赤やピンクがうっすらついている。
「だな。最近にしちゃ珍しく、凝りすぎてねーっていうか」
「ね。にんじん入ってるのポイント高い」
 箸先からうんと遠い位置で箸を持ち、器用にいちょう切りされたにんじんをつまみ上げてが口元に運ぶ。天に近い位置で箸を持つ人は、親との関係性が近くないんだって、といつか迷信垂れていたのはだったと思う。
「……つーか、ついに聞かれた」
「なにを」
「ボーダー隊員男子を喰ってる女性職員がいるらしいんですけど、それってさんだったりしないんですか」
 唇を軽くへの字に曲げて、にしてはかなり不愉快そうな表情を浮かべた。本部からこの店までの道でも寒すぎる、と文句を垂れていたが、あのときやたらとボリュームがありすぎるマフラーに隠れていた口元もこうなっていたのではないだろうかと思う。
 ボーダー隊員男子を喰ってる女性職員がいるらしいというのはここ数か月ほどの間にじわじわと広がっている噂だった。
 サークルクラッシャーならまだしも、組織をクラッシュさせるのはやめていただきたいというのが、わりと長く組織に所属している隊員たちの言い分であった。
 もちろん、別の意見もある。そんな手軽にできる女がいるのならぜひお近づきになりたい、と。
「実際どーなんだよ。そのへんなんか知らねーの」
「それ、諏訪が知ってなにかいいことあるの」
 悪いこともないだろうけど、と彼女はひとり言のようにつぶやいて、ししとうの焼き浸しに手を伸ばした。
「いいっつうか、俺はおめーの潔白を代表して証明しなきゃいけねーからな。一般職員の女おめーと近しい隊員としては」
「そんなのテキトーにかわしといたらいいじゃない」
 まぶたをぱちぱちと閉じ開きして、俺の目を迷いなく見据える。なぜそうしないのだ、とは言わずとも目で語っている。
「……まさか、わたしがボーダーの男の子たちと恋愛すると思ってるわけ」
 俺が黙ったままジョッキの取っ手に手をかけたときには、には俺の言いたいことが伝わったらしい。
「これに関しては、かならずしも恋愛する必要はねーだろ」
 おたがいに手元のジョッキを持ち上げて、薄く残っていたビールを胃に流し込む。
「仮にその一般職員が本当に存在していて、それがわたしだったと仮定して見解を述べるならば」
 空になったジョッキを置いて、はメニューの冊子をぺらぺらとめくり日本酒のリストに目を落とした。
「彼らは、自分にも一般的な日常が送れて、生身があるんだってことを再確認できる相手がほしいだけなんだから、わたしじゃなくてもいいんじゃないかな」
 は用紙に人差し指を添えながら、銘柄をひとつずつ確認している。
「……吸ってくる」
 机の上のボックスケースを掴んで席を立つと、は視線を上げることなく、片手をひらりと掲げた。
 噂の一般職員というのがだったとして。こいつはそもそも噂になるようなヘマはしねーだろうな、と都合のいい解釈をする。話の腰を折ったからといって、否定しないからといって、それが肯定だというのは安易だ。――そうだろう?
 暗いブルーのタートルネックが覆い隠している首筋に咲く朱の色を想像して、深く息を吸い込んだ。