これが路上試験だったら一発で落とされそうな縦列駐車をして、身を乗り出し助手席のドアを内側から開けた諏訪が大声でわたしの名前を呼んだ。ほとんど怒鳴り声に近かったのだと思う。篠突く雨の音より、諏訪の声のほうがはっきりと聞こえた、なんてことはない。寄せられた眉根と縁石にドアを擦るリスクが度外視されたスピード感からの、考察だった。
 わたしはずっと、アーケード街の端っこから車が停まって扉が開けられるまでの一部始終を見ていた。かすかに聞こえた聞き慣れた荒い声より、街頭に照らされていた表情のほうが、その空間だけきれいにクロップされたかのように印象的だった。
「傘、ないって、言うから。貸したんだよね」
「なんでオメーが濡れんのに、貸すんだよ」
 何かを察していたのか、後部座席に用意されていた、諏訪が忌み嫌っている球団のキャラクターが印刷されているバスタオルが、わたしの膝に放られた。俺以外の家族はこのクソ球団のファンなんだと、いつか愚痴っていた。
 すでにある程度濡らしてしまったシートをなかったことにするためにお尻の下に敷こうとしたら、タオルをひったくって、わたしの髪の毛を力任せに擦り付ける。
「濡れてほしくないからだよ」
「オメーは濡れてもいいと思われてんだぞ」
 逆に考えてみろ、と諏訪は至極真っ当なことを言った。
「まあでも、そういう愛情も、あるかも」
 馬鹿げた解釈をこぼしたわたしに、諏訪はひとつ息を吸い込んで、今にも説教をはじめそうだったけれど、呆れ返って、もう、ものも言えないようだった。その代わりに、お風呂上がりの子どもにお父さんがするには乱暴すぎる行為に、拍車がかかった。
「いや、ないかもね」
 雑に扱うのをやめてほしくて膝に言葉を落とせば、思惑通りにその動きが止まった。数秒の間ののち、すっぽり頭からかけられたタオルの裾を諏訪が引っ張って、頭からつんのめる。サイドブレーキは目の前に迫っていた。突然かかった圧力に声も出せない。横殴りの雨のように暴力的だった。
 おそるおそる視線から先に持ち上げようとしたときには、両肩を掴まれていた。覗き込む三白眼にわたしは捕えられていて、まるでいつもそうしてきたのかのように、無抵抗に目をつぶった。
 タオル越しにわたしの後頭部を支える手の温もりは、感じない。くっつけられた唇は余韻を残す間もなく離れて、わたしの顔面は諏訪の固い上半身に押し付けられた。タオルでくるまれたままの頭の上に、突き刺すように諏訪の無精髭混じりの顎が乗せられる。それから、いち、にい、さん。四度、角ばった手のひらが背中を叩いた。なだめられているようにも、謝られているようにも思えた。回数になんらかの意味があるわけではないのだろう。叩きたいだけ、叩いたのだ。埋めたい隙間を潰すように。
 わたしはオレンジ色のうさぎみたいなキャラクターの名前がなんだったのかを、思い出そうとしていた。

***

「女湯にも、稲あった?」
「菖蒲だ」
 右隣に座っている寺島がわたしに問いかけて、それに答える前に左隣の木崎が訂正した。わたしは、あったよ、と短く答える。
 端午の節句には、無病息災を願って菖蒲湯に入る風習があるらしい。二十一年も生きてきて、はじめて知ったわたしは、無知なのだろうか。ゴールデンウィーク初日である今日から、銭湯の浴槽には稲みたいに長細い菖蒲が浮かべられていた。
 防衛任務およびカレンダー通りの祝日など存在しない通常業務をこなして、夜。どうして男四人と女ひとりで銭湯へ行こう、という話になったのか。混浴じゃないのだから、わたしはその間ひとりになってしまうのに。そこに対して気遣いをするような間柄であったら、そもそもわたしはここにいないのだろうとは思う。
 この遠慮のない同い年たちと過ごす時間は、波がなく、ぬるいお湯から出たくないように、居心地がいい。同時に、そこから一歩踏み出してしまったときの、寒暖差にも怯える。
「風間が、お祓いだつって菖蒲振り回してよー。クソうざかったわ」
「つきものが取れた顔してるぞ。よかったな」
 助手席にこじんまりと座っている風間が、諏訪の文句を一蹴する。毎度のことながら、わたしの両隣にいる、横に膨らみすぎている男と、全体的に成長しすぎている男のどちらかを、助手席に座らせてほしい。
 車窓をぼんやりと追いかけているであろう風間は、あの夜にその席で行われたことを、知らないのだと思う。後部座席の男たちも。わたしたちだけが知っている。でも、当事者のひとりが知らないふりを決め込んでいるから、その事実をわたしも一生懸命に修正液を振って、ぐりぐりとなかったことに、あの夜の前に戻そうとした。それらしく誤魔化せている気もするけれど、一度つけた色に白を重ねても、その白がいやに際立つだけらしい。
 諏訪とわたしがわざわざ予定を合わせてふたりで出かけることなど、変わらずない。たまに、電話はある。わたしが懲りずに男のところへ行ったり、自棄を起こしたりすることを警戒しているのかもしれない。諏訪は、いつもそんな話をしないけれど。それくらいしか、諏訪がわたしに電話を寄越す理由が見当たらないくらい、中身のない会話しか端末越しに交わされない。
 シェイクでいいんだろ、とわたしに問いかける諏訪と、バックミラー越しに視線が混じる。わたしは視線をサイドミラーに動かしながら、チョコのね、と情報を付け足す。教官みたいなスムーズな動作で左折して、マックの注文ブースの横に真っ直ぐに停車する。
 諏訪の心配をよそに、もうわたしはあの男に連絡をしたり、唇や身体を重ねたりすることを、求めていなかった。
 だから、もう一度キスして。そう頼んだら、あの夜は動き出すのだろうか。