膝を折って屈み、洗い場の下に押し込まれているコンテナケースを両手で思いっきり引っ張る。いちばん奥までざっと確認したけれど、マス目にきっちりと収まっているすべて瓶の栓は抜けていて、中身が空っぽであることを示していた。冷蔵庫の透明な扉からは、瓶が一本しか見えない。
 ド平日の水曜日。お客さま自体はさほど多くはないのだけれど、やたらとビールの出が激しかった。春なのか冬の終わりなのかよくわからない肌寒さがだらだらと続いていたところで、待ってましたと言わんばかりの最高気温二十度台。いつもはウイスキー派の常連たちも、ここぞとばかりにビールを求めていた。
 閉店時間まで、残り二時間。次に酒屋さんが来るのは、金曜日。腕でバツ印をつくって、団体客を相手にしながら奥のテーブルからこちらを伺っていたママに向ける。ママは数秒の思案ののち、人差し指を出入り口に向かって指差したあと、左を指し直す。「隣のスナックのママちゃんに、ビールを借りてきてください」の、意である。バツをつくっていた腕をマルに変えて、わたしはカウンターを軽快に飛び出した。

 扉を引くとリリリンと鈴の音が響いたはずだけれど、音量調節がうまくいっているとは言えない有線から流れる音楽に飲み込まれる。視界に入ったのは、四人。出入り口から奥に続いているカウンターの中にママちゃんがいて、白髪のおじいちゃんふたり、そして、くすんだ金髪のツーブロが、ママちゃんに向き合うようにカウンターの席に座っている。
 おじいちゃんたちと大声で会話を続けている恰幅のよいママちゃんは、決してわたしのことを嫌っているわけではない。耳が遠いのだ。開閉音がしてもわたしに気がつかないママちゃんより先に、奥で仰け反った三白眼がこちらをみとめて、ママちゃんに合図をする。
 やっとわたしを視界に入れたと思ったら、わたしたちの間には川でも流れているのか? と疑うほど両手を大袈裟なくらいに振ってくれるママちゃんに、
「ビールを恵んでください!」
「持ってけ泥棒!」
「いつもありがとうございます! あとでママを寄越します!」
 叫んで、わたしは店内を進み、さきほどまでこちらを一瞥していた男に声をかける。
 よお、と息を吐くように答えて手元で短くなっていた煙草を灰皿にぐりぐりと押しつけているのは、うちの店の斜向かいにある煙草屋の諏訪さんだ。
「なんでこっちにいるんですか」
「おめーんとこは暴力団員お断りだろ」
「諏訪さんはちがうじゃん。それに、ここだってお断りだよ」
 レジに貼ってあるステッカーを顎でさす。肩をすくめた諏訪さんは、
「そっちはいっつも大盛況だから行きにきーんだわ」
「そういうこと言ったら、ママちゃん拗ねちゃうからやめて」
 人差し指をくちびるに当てて、眇める。まあ、どうせ聞こえちゃいないだろうけれど。
「あ、てか、聞きました? 先々週の園田競馬の話」
「……ああ、花がやらかしたやつな」
 諏訪さんがさして興味なさそうに、ビアタンを口に運んで、喉が上下した。
 さて、地方競馬での八百長はめずらしいことではない。なんなら常であると言ってもいい。というわけで、右翼の金庫番の男である花ちゃんは、二千万を金庫から拝借し、根回しを済ませてそれを単勝に全額突っ込んだ。しかし、想定外なことに裏社会のご重鎮が駆け込みでやって来てしまい、全額スったという。オーナーの友人であるお客さまから、昨日聞きたてほやほやの話だ。その後の花ちゃんの行方を知るものはいない──と言いたいところだが、なんだかんだ諏訪さんは、顛末まで知っているのではないかと思う。
 ちなみに、なぜ花ちゃんなどというファンシーな名で通っているのかというと、かつて傘の柄に花火とパチンコ玉を詰めて銃を製作、当然うまくいくわけがなく、爆発。その事故で親指をなくしているから。花火の花ちゃん、というわけだ。そんなお茶目さが許されている彼ならば、もう一、二本の指は失っているかもしれないけれど、命は取られていないと思いたい。
 カウンターを通り過ぎて、勝手口のすぐ側に置かれていた、半分程度瓶が突き刺さっているケースに手をかける。
「……ねえ、諏訪さん」
「わーってるよ」
 ほんとうにわかっていたらしい。諏訪さんの顔色を伺うために振り返って視線があったときには、すでに諏訪さんは火のついていない煙草をくわえたまま、回転椅子から立ち上がろうとしていたのだから。
 当然、何十年も夫婦をやってきたわけではないし、頻繁に会う仲でもないし。それでも、出会ったころからお互いに遠慮がない。諏訪さんがそういった雰囲気──多少の無礼に目をつむったり、むしろそれを居心地よく思ってくれたり、適度に他人に興味をもたなかったり、自己を表現することを重要視していなかったり──を、もっているからなのだろう。だからこそ、彼にはたくさんの人や情報が、彼が望むか望まぬかは別として、集まるのだ。
「すぐ戻る!」
 諏訪さんが声を張って告げて、わたしの代わりにケースを持ち上げる。巻き上げられたシャツの袖から覗くうっすらと入る腕の筋に、その重さを思った。
 ヒールの音を響かせながら小走りで扉を押し開けて、諏訪さんが外に出るのを待って手を離す。ぶわっと吹いた風にめくられそうになったスカートの裾を右手で押さえた。
「あんま変な話、外ですんのやめとけ」
「さっきのお客さんたちはカタギでしょ」
「おもしろ半分に首突っ込むな、つってんだよ」
「はいはい、心得てますって」
 お隣から徒歩十秒の自店の扉をわたしが引けば、先に入っていく諏訪さんの背中を追う。運んできたものを置くためにカウンターの隅で前屈みになった諏訪さんの背後に立って、そのつむじを見下げた。
 麻雀とか、ポーカーとか、野球賭博とか。いろんな賭けごとにはたまに顔を出してはいるけど、べつに、好き好んで争いごとに首なんて突っ込みたくはない。花ちゃんとはわたしも一回お店で会ったことがあるんだから、共通の認識のある人物に関する世間話にカウントされたいところだ。
 勢いよく立ち上がろうとした諏訪さんがわたしの気配を察知して、
「距離感バグってんのかよ」
 中腰で止まってこちらを振り向いた。
 覇気なんて微塵も感じられない瞳を、黙って見つめる。目は口ほどに物を言うと言うけれど、諏訪さんのそれは、いつもいまいち掴みどころがない。時間や努力を明確に重ねれば、機微を読み取ることができるようになるのだろうか。
 その場を動こうとしないわたしを、怪訝な表情で見上げる諏訪さんの口元であそぶ煙草を引っこ抜いて、自分のくちびるに挟む。
「返してほしけりゃ、あとでこっちに来るこった」
「なんで恩を仇で返されねーといけねーんだよ」
 おかしいだろ、と人差し指と親指がわたしの頬をつねる。指のささくれが、皮膚にチリっと余韻を残す。条件反射的に一歩後ろに足を引いたわたしとカウンターの隙間を、諏訪さんはするりと蛇のように抜けていった。
 煙草屋が、煙草の一本なんてちっとも惜しくないことくらいわかっている。だけど、それでも、諏訪さんは数十分だか数時間後に、またそこの扉を開けて、閉めるだろう。必死に彼の感情を追いかけ回したり引っかきまわしたりせずとも、そういう風にできている。
 夜に溶けきれもしなければ、陽に照らされもしないこんな関係を、いつまで愛で続けられるのだろうか。それだけは、彼も知らないことであればよいと思うのだ。