坂の上から見下ろしたトウモロコシ畑が、風に吹かれてゆらゆらしている。それを見ると、すべてまるっと飲みこまれてしまうようで、かんたんにはもう、そこから出られなくなって、捕まえられてしまうんじゃないかと思って、いつも少しだけ、怖い。
 
 わたしの家は、見晴らしのよい場所にある。道路から家まで続く坂は砂利道で、道を挟むようにして家畜用のトウモロコシが生い茂っている。家からいろんなものが見渡せる、と言いたいところだけど、見えるのはそれくらいだ。あとは、隣のお家。隣のお家といっても、うちの並びにあるわけじゃなくて、坂を下って走って一分くらいかかる場所にある。そこにはわたしの三つ下、小学校一年生の女の子と二歳の男の子がいる。その子たちのお父さんとお母さんと、お母さんのお父さん。要するに、その子たちのおじいちゃんが住んでいる。
 まるで、おじいちゃんがそこに住まわせてもらっているような言い方になったけど、あの子たちのお母さんはあの家で生まれ育っているのだから、つまり、おじいちゃんの家だ。だからあそこのお父さんは、婿養子、というらしい。おじいちゃんの奥さんはわたしが幼稚園のころに死んでしまったらしくて、いまいちよく覚えていない。
 そのおじいちゃんたちの家のすぐ横には、駄菓子屋さんがある。そこはいわゆる、わたしのイキツケ、というやつ。おじいちゃんは、そこを切り盛りしているおっちゃんでもある。だから、隣の家族のなかでわたしがいちばん親しくしているのは、おっちゃんだった。
 おっちゃんには孫がたくさんいる。あの子たちも孫だけど、おっちゃんにはおばさんのほかに娘が三人もいて、みんな結婚して子どもがいる。隣のおばさん以外の三人は、ここからは遠いところに住んでいるらしい。お盆の時期になると、その娘たちとその旦那さんと、子どもたちがわらわらとやって来る。ゲンミツに言うと、おっちゃんの孫のなかでもいちばん歳上らしい、わたしと同い年の男の子は、おととし二年生になってから、夏休みになるとすぐにひとりで来て、お盆に来たお母さんたちと一緒に帰るまでの、まるまる一か月くらい、滞在しているようだった。タクジショみたいなもんだよね、とお母さんが言っていた。
 その男の子と、はじめて顔を合わせたのは夏休みに入ってすぐの、七月の終わりのころだった。すでに数日分溜めてしまっていた絵日記を描き上げてから駄菓子屋に行ったら、レジ奥の小上がりの畳の上に、ちょこんと座って棒アイスを舐めている男の子がいた。同じアイスをちょっくら買いに来ただけのわたしの名前を呼んで、
「洸太郎、同い年だから。よかったら遊んでやって」
 おっちゃんは言ったけど、生まれも育ちも性別も違うわたしたちは、小さく頭を下げる以上のことをすることはなかった。
 なぜ大人は、子ども同士であるだけで仲よくできると勘違いするのだろうか。わたしのことを、シャコウテキじゃない、子どもらしくない、とお父さんがときどき言う。それのなにが悪いのかは、わからない。わたしにだって、仲よくする相手を選ぶ権利があるはずだ。でもこうやって、せっかくおっちゃんが紹介してくれた孫のひとりとまともに会話ができないのは、悪いことなのかもしれない。
 それから数日が経って、隣の家の駐車場の横にある庭に、うずくまっている小さな背中を見かけた。駄菓子屋で会った男の子だった。
 この子が外で駆け回ったり、田んぼにわざと落ちたりしているのを、見たことはなかった。都会の子だから、というより、年下の女の子と、やっといくらか言葉を喋るようになった男の子では、遊び相手にならないのだろう。おっちゃんとカブトムシくらいは獲りに行ってるかもしれないけど、放っておかれてちょっとかわいそうに思っていたわたしは、両手をぎゅっと握りこんで、その背中に声をかけた。
「なにしてるの」
 しゃわしゃわしゃわしゃわ、とセミが鳴いている声は聞こえるけど、男の子の声はわたしの耳に届いてこない。無視なんて、ひどいじゃないか。シャコウセイのないわたしが、せっかく会話をしようとしているのに。
 町をまるで牢獄のように取り囲んでいる山の向こう側に、もくもくとそびえ立つ積乱雲が見える。もうすぐ、雨が降るかもしれない。
 もういいや、と靴底をコンクリートに擦りつけて、家のほうへ身体を向けようとしたところで、
「お墓、つくってる」
「え? なんの」
 お墓といえば、死んだ人とか動物が入る場所だ。おっちゃんの家って、なにか飼ってたかな。犬も猫もいないはずだけど。おっちゃんの家からさらに三軒隣のお家の柴犬を思い浮かべながら、側溝を飛び越え、男の子に近づく。彼はスコップを片手に、土をいじっていた。
「……なめくじ」
「なめ、くじ」
 思わず、わたしは同じ言葉をくり返していた。彼はなめくじのお墓をつくっているらしい。なめくじのお墓。なめくじの、お墓?
「なめくじに塩を、かけたんだ。いとこが」
 二歳児になめくじに塩をかけると縮む、なんて知識はまだないだろう。犯人は明らかだ。わたしはこめかみに流れてくる汗を、腕で拭った。
「お塩かけたら、みるみる小さくなって溶けちゃうよね」
 ちら、とお尻を上げずに彼がわたしのほうを振り返った。わたしはちょっと、息の仕方を忘れそうになった。だって、彼の目の周りが擦ったように赤くて、泣いたあとのようだったから。まさか、なめくじのために涙を流したというのだろうか。おもしろいよね、と続けようとしていたけど、しっかり口を閉じることにした。
 またわたしに背中を向けた彼の手元を見れば、アイスキャンディーのアタリの棒にサインペンで、なめくじ、と書いてあった。そしてそれを、少し盛り上がった土の上に突き刺している。もったいない、アタリなのに。そこに、なめくじはいないのに。
 もしかして、彼はなめくじという生きものを、今まで見たことがなかったのかもしれない。都会には、いないんだろうか。はじめて遭遇したそれが跡形もなく消えていくところは、怖かったのかもしれない。
「嘘をつきません、弱いものを大切にします、助けます。って、毎朝言ってたんだ。幼稚園の、仏さまのところで」
「……へえ」
 待って、ぜんぜん意味がわからない。わたしの通っていた幼稚園には、仏さまはいない。都会の幼稚園には、いるというんだろうか。
 ここに、お父さんもお母さんもいなくて、友だちもいなくて、なめくじが死んじゃって、泣いて。かわいそうな男の子。都会の男の子というのは、みんなこんな感じなんだろうか。きっと、そうではないんだろうな、となんとなくの想像が、雨が降る前触れのように胸のなかでぐるぐるしていた。






 テレビでやっていたけど、海外のいろんな国には、サンバとかなんとか、当たり前のようにその国に住んでいる人みんなが踊れるダンスがあるらしい。それなら日本は盆踊りがそうなのかな、って思ったけど、なんとラジオ体操をダンスとして海外の人に紹介していた。たしかに学校の子たちみんなできるけど、でも、ラジオ体操は、だって、体操だよね?
 そんなラジオ体操へ参加しないといけない夏も、六年生で終わりだ。ラジオ体操に行くと押してもらえるスタンプカードは、中学校では夏休みの宿題と一緒に配られないらしい。ちょっと名残惜しい気もしたので、毎日がんばって起きていた。今日は、目覚まし時計が鳴る三十分も前に、ふと目が覚めた。ごりごり鳴り続けるアラームより早く起きれるなんて、どこかぼんやりと、これはなんだかおかしいなあ、と考えた。階段を降りて、縁側から坂の下を覗きこんだら、茶色の塊が坂の下でもぞもぞとしているのが見えた。
 あ、うそ、すごい。モーモーが脱走してる。
 お父さんを叩き起こして伝えようとしたけど、なんだかもったいなくて、わたしは急いで着替えて、ひとりでそっと家を出た。もちろん、我が家の牛を、追いかけるのだ。じーちゃんもばーちゃんも、とっくに畑仕事をしている時間だ。でも、どっちも目も耳も悪いし、気がついていないのかも。
 わたしが転がるように坂をくだったころには、すでに牛はおっちゃんの家の前を通過しようとしていた。ダッシュで牛の横に並んで、ふとおっちゃんの家の縁側に視線を向けたら、ぎょっとした顔で、男の子がこちらを見ていた。あ、一昨年、アタリの棒をなめくじの墓標にしていた子。名前は、ええと、なんだったっけ。
「牛、歩くの遅いからね、すぐ追いついたよ。でも、思ってたよりは早かったかもしれない。牛もあなどれないね」
 彼が驚いているのはそういうことではないな、とわかってはいたけど、都会の子になにを言ってもしかたがないかな、という諦めもあった。牛なんて、飼ったことないだろう。田舎の人間だからといって、牛が脱走することはそうあることでもないけど。実際、わたしもこんなことははじめてだった。
「白黒じゃないんだね」
 ぴょん、と縁側から飛び降りてサンダルをつっかけた彼がこちらへ寄ってきながら、まじまじと牛を観察している。ああ、白黒の牛は、乳用牛なんだよね。
「このまま散歩させてて、いいの」
 待て待て。これは散歩ではない。まさか、牛も犬と同じように散歩するものだと思っているのだろうか。それはそれで、ちょっと楽しそうではある。
「うーん。ラジオ体操には、間に合わなくなるかもしれない」
 しっかり首から下げていたラジオ体操のスタンプカードが、思い出したように風になびいている。
「じーちゃん、呼んでくる」
 くるりと身を翻した彼は、家の中に小走りで消えていった。あ、そりゃそうだ。うちのじーちゃんじゃなくて、おっちゃんのほうね。

 おっちゃんに牛を託し、ラジオ体操をした帰りに駄菓子屋に寄った。アイスを買おうとしたら、タダでくれた。むしろ、お礼をしないといけないのは、こっちなのに。そこはうちの家族から、なにかするだろうけども。
 そしてやっぱり、あの男の子が畳の上に座っていた。さっきの今なので、なにか話したほうがいいかな、と考えているうちに、彼とぱちりと視線があった。
 おーい、とおっちゃんが呼ぶ声に振り返れば、おっちゃんの手には、わたしが持っているのと同じものが握られていた。ふむ、彼とお食べよ、ということか。いただいた手前、わたしに拒否をする権利はなさそうだった。
「去年の夏は、いたっけ。いなかったよね」
 サンダルを脱いで畳の上にあがり、座布団にお尻をつける。ちゃぶ台を挟んで、男の子と向かい合って座ろうと思ったけど、おんぼろテレビに背中を向けることになってしまうので、彼の隣に陣取った。
 右手に持っていたほうのアイスを彼に差し出せば、ありがとう、とまったく有り難くなさそうなお礼が聞こえた。
「去年はみんなでお盆に旅行したから、こっちには来なかったんだ」
「へー。そういえば、おっちゃんからお土産もらったかも」
 テレビでは、朝の情報番組が流れている。血液型占い、まだかな。
 全国のお天気が表示されてから、わたしたちの町の詳細な予報に切り替わった。うん、今週はずっと晴れだ。水不足にならないといいけど。
「ねえ、どこに住んでるの」
「ミカド」
 都道府県ではないどこかの市だか区だか郡だかを言われても、わからない。だけど、彼にとってはミカドが世界の中心なのだろうから、しかたがない。わたしにとってのそれが、ここであるように。
 大口を開けて笑っている坊主頭の男の子が描かれている、水色のパッケージのギザギザ部分を前後に引っ張る。まっすぐに切れなくて、三角形の切れ端ができた。横目でわたしを見ていた彼は、自分が取り出していたそれを、わたしに寄越した。わたしは、ありがとう、と言って開封に失敗したほうを、彼に託した。わたしのありがとうは、有難そうだっただろうか。
「あの牛がこれからどうなるか、わかる?」
「え? うーん、牛乳になる、とか」
 牛が液体になるわけではないんだけど、さすがにそれくらいは理解しているだろうか。キョーヨーが足りないんじゃないだろうか。
 彼が開き直したパッケージから、無事にアイスを取り出したのを確認して、わたしはひと口かじった。
「うちのは食べる用だから。あのまま出荷するんだよ」
 嫌がらせとか、からかいとか。そういうよくない気持ちが、しっかりあった。わたしは彼に、生きものがどういった一生をわたしたち人間と関わりながら送るのかを、聞かれてもいないのにひと口アイスをかじるたびに、話して聞かせた。
 わたしも殺すところは見たことがない。だけど、あの牛はもうすぐ出荷予定日だったはずだ。あの子はそれを察して、逃げたんじゃないかと思った。それくらいには牛とだって、意思疎通ができる。昔はニワトリを子どもにしめさせることで、ショクイクをしていた。羽根をむしったりして。それもわたしは、したことないけど。
「わたし、幼稚園のころ、うちのモーモーはペットだと思ってたんだよ。名前を勝手につけて呼んでた。でも、ある朝いなくなってた」
 彼は、しゃくしゃくと薄いブルーのかたまりをかじっている。わたしの声は聞こえてはいると思う。でも、わたしが言葉のキャッチボールではなく、一方的なドッチボールをしていると感じているのだろう。だから、なにも言わないのだ。なめくじの墓をつくっていたころより、彼は精神的に大人になったんだろうか。もっと驚いたり悲しんだりしてみせてくれると思っていたのに。なんだか、がっかりだ。
「それから、どんな牛が来ても名前をつけるのはやめたし。家族みんな、牛のことは番号でしか呼ばないんだよね」
 あ、〝モーモー〟は名前じゃないのかな、と自分で言っておいて思った。でも、猫をニャンニャンとか呼ぶのと、一緒のはずだ。
 四分の一くらい残っていたアイスを、大きく口を開けてまるっと頬張る。キーン、と奥歯が染みるような痛みを感じて、棒を口から引っこ抜いた。
「あっ、当たりだ」
 アタリ! と書いてある棒を天井にかざす。そしてそのまま、隣の彼の目の前におろした。だって、最初は彼のものだったのだ。
「はい、あげる」
「おれはいいよ」
 手で払いのけられたついでのように、小さな声で呼ばれたわたしの名前に、口元が引きつる。おまえがもらえよ、と彼は言っている。二年も前に、きっといちどだけしか聞いていないわたしの名前を覚えているなんて。ずいぶんと記憶力がいいんだなあ。
 あなたの名前はなんだったっけ、と失礼を自覚しつつも遠慮なく聞いたら、短く返事があった。わたしは意識して、その名前を呼ぶ。
「これは、こーたろーにあげる。今度はちゃんと、交換しなよね」

 



 店の奥に引っこんでいたおっちゃんを、くくりつけられている風鈴をバカみたいに鳴らして呼び戻す。
 駄菓子屋が煙草屋に姿を変えたのは、去年の冬、中学一年生の終業式の前後あたりだ。昔から煙草も売っていたけど、このへんの子どもは減っていく一方なので、お菓子は切ったのである。おっちゃんの老後の趣味くらいの、売り上げ度外視の店だったとはいえ、それでもやっていけないくらいだったのだろう。中学生になったわたしも、こんなに近くにあるというのに、頻繁には足を運ばなくなっていた。原因はわたしにもあるかもしれないのに、無責任にさみしかった。
 煙草屋だけどジュースやコーヒーの缶も売っているので、オレンジジュースをひとつ買う。そして、まるでスパイの取り引きみたいにして、一本、煙草も受け取った。ついでに、おっちゃんがたまーに行っているらしいスナックの店名が印刷された、使い捨てライターも拝借した。うちにも同じものがある。
 冷蔵庫から取り出されたばかりの缶は、少し歩いているあいだにびしょびしょになる。貴重な煙草を濡らしてダメにしてしまわないうちに、ポケットに仕舞う。目的地に着いてから飲もうと思っていたけど、さっさとプルタブを引いてしまうことにした。
 
「なにしてんの」
 聞き慣れない声に振り返れば、白いシャツにスラックスにサンダル、それにラムネの瓶を持っている男子がいた。
 親族の集まりのあれやこれやを手伝わされるのが嫌で、めったに人が来ないことを知っている、川辺の錆びたベンチの上に避難していた。ちょうど木々が陰をつくってくれている、特等席である。こんなところに、同世代の男子? 誰?
「……ああ、洸太郎? びっくりした。わかんなかった。ほんと、びっくりした」
 ひさしぶり、とか言ってくれたら、もうちょっと顔と名前は早く一致したんじゃなかろうか、と思う。まるでこのへんに住んでいる同級生のように装われては、二年ぶりの再会とは思わない。
 小学生のころは、ぽいっと田舎に預けられていた洸太郎なわけだが、さすがに中学生ともなると、ひとりで過ごせるのだろう。部活もしているのかもしれない。
 そう、二年のあいだに顔立ちも髪型も身長も、声も。なにもかも変わっている。洸太郎は、なぜわたしに気がつけたのだろうか。このあたりに、わたしくらいの年齢の子どもが少ないからだろうか。それとも、田舎者のわたしはこの小さな町のように、ぜんぜん、なんにも、変わっていないんだろうか。
「そんなビビんなくても。で、なにしてんの」
「煙草というものを吸ってるんだよ」 
「それはそうだろうね」 
 中学生になり、くわえるのはアイスではなく煙草になったわけである。いや、まだアイスのほうが頻度高いわ。アイスなら最近はもっぱら、ジャイアントコーンだけど。
 煙を吐き出しているわたしの隣に腰をおろした洸太郎は、法事で来たと言った。おっちゃんの奥さんの何回目かのあれだと思われる。いや、ひいじーちゃん、ひいばーちゃんとかかもしれないけど。もはや法事へ出席することに意味があるので、誰のそれなんだかわたしもよくわからず、親戚の家をまわることが多々ある。
「来年、受験生だよね」
「おー」
「勉強、できるの?」
「できると思ったのか」
「できたとしても、できると答える人のほうが少ないとは思う」
「そっちはどーなの」
「がんばってるつもりだけどね」
 県内のいちばん偏差値の高い公立高校が、第一志望だ。私立にやる金はないとはっきりとお父さんから言われている。それを知っている担任は、レベルを落としたほうがいいのでは、とわたしより真剣にわたしの進路を悩んでいる今日このごろだ。
「小学二年のとき、はじめてこっちにひとりで来たんだけど。自由研究のために、じーちゃんが蚕を用意してくれたんだ」
 そう言うと、洸太郎はラムネに口をつけた。ビー玉とガラスがぶつかって、からん、と音を立てる。
「蚕のこと知らなかったから辞典で調べた。桑を食べて、繭になって、蛾になる、って。そんで、じーちゃんと毎朝、桑の葉取りに行って毎日食べさせた」
 なんだか、少し楽しそうに洸太郎が話すので、まったく脈絡のない思い出話に、黙って煙草をふかしながら耳を傾ける。
「きれいな繭になったよ。そしたらさ、じーちゃんが、鍋に水を張って沸かしはじめてさ。なにしてんだろ、って思ってたら、繭、全部鍋に入れられた。俺は蛾をゴールにしてたけど、じーちゃんは繭から糸を取らせたかったんだよ」
「それはそれは。貴重な体験だったね」
 小学校低学年の洸太郎は、茹で上げられたサナギを見て泣いただろうな、と根拠のある想像をしながら、缶に少しだけ残っていた液体を飲みこんだ。とっくにぬるくなっていて、甘味だけが嫌に喉に貼りついた。
「このへんに、桑の葉取りに来たなーって、思い出した」
「ふーん」
「餌やってた時間は、間違いじゃないはずだよ。どっちの結果になってもさ」
「……なるほど。なんの話かよくわからん。けど、なんかありがとう」
 ほんとうになにを言われているのかわからなかったけど、どうやらわたしは励まされているのだ、ということは理解した。勉強ができなくても、回りくどい詩的表現はできるんだな。
「ところで、そのサナギちゃんたちにもお墓つくってあげたの?」
「サナギちゃんたちにつくったのが、第一号」
 あはは、とわたしが笑えば、洸太郎も笑った。大きな声で愉快であることを示す洸太郎の声を、はじめて聞いた。思春期の男子らしくない。むしろ、今があのころのあるべき姿のようだった。





 梅雨時期に、煙草屋が閉店した。おっちゃんが入院したのだ。わたしがもし、今社会人だったなら、あの煙草屋を継いであげたのにな、と不毛なことを考えた。そしてすぐ、あんな店を継いだとて先がなさすぎて、無理だな、と結論を出した。それにわたしは、このクソ田舎から脱出したいのである。継ぐわけがない。土下座されても無理だ。大学生活をはじめるときには、わたしはここから逃げているだろう。いや、違う。わたしは、大学進学とともに、この町から出ました! 引き寄せの法則は、断定、言い切り文章で行われる。ここは、確定事項としておきたい。
 
 特別講義が終わった金曜日のお昼過ぎ。高校の最寄駅にある、そこそこ大きな病院の前まで来た。夏休みなのに、サマースクールなんていって午前中は授業がある。それはもはや、夏休みではないと思う。
「暑いな」
 年季の入った出入り口の前で突っ立っていたわたしは声をかけられて数秒、その姿を確認してやっと、記憶が数年前に繋がった。犯人の顔写真が時間経過とともにこう変化しただろう、みたいなシミュレーションのやつを脳内でやって、洸太郎に行き着くのだ。それなのに、よくもまあ、この人は瞬時に気がつくな、と思う。いよいよ身長差は顕著なものになっていて、わたしはいつの間にか隣に立っているTシャツ、短パン、スニーカーでリュックサックを背負っている男子を見上げていた。
「えっと、あの……。あなたのおじいちゃんのお見舞いに行こうと思ったんだけど。でも、なんかほら、親族でも友だちでもないし」
 自分が病気を抱えているわけではないことを、とりあえず説明したかった。でも、自分の祖父の見舞いに、近所の子どもがやって来るのだ、という田舎の距離感のバグに、洸太郎は戸惑うのではないかと思った。並び立てた言葉とわたしの思考は違わず、たしかになんだかおかしさを感じていた。だからこそ、わたしは通学のたびに病院を視界に入れながらも、院内に入るのをこの数か月のあいだ、躊躇っていたのだ。
「行くぞ」
「え、あ、うん」
 手を引かれたわけではなかったけど、洸太郎の背中は、つべこべ言わずについてこい、と語っていたので、わたしはそれに大人しく従うことにした。ついにわたしは、完璧な言い訳を手に入れたのだ。

 洸太郎が飛車角落ちで将棋を指しているのを見て、できないんだな、と思った。だから、できないんだね、と言ったら、なんとかできてんだろ、と反論してきた。ちょっと代わりなさいよ、と一年くらいぶりに、おっちゃんと将棋をした。たまに店の畳の上に将棋盤をおいて、向かい合っていたのだ。あと、うちのじーちゃんとも昔っからやっている。ハンデなどわたしには、不要なのである。
 おっちゃんの病室からふたりで出て、同じ電車に乗った。がらがらの座席に洸太郎が腰をおろすのを横目に、わたしはドアの横の丸いボタンを押しこんで、扉を閉めた。開きっぱなしでは、暑くてしかたがない。それからわたしも洸太郎の横に座ったけど、まさかあの畳の上とかベンチ以外の場所で、ふたりで横に並んだりすることがあるなんて。
 新幹線と電車を乗り継いで、洸太郎はひとりで病院まで来たらしい。洸太郎の家からここまでは、そうやって来るんだ、と今更知った。小学生のころまでは、直行便の飛行機もあったらしいが、利用者が少なくてなくなったらしい。
 ここからわたしとおっちゃんの家の最寄駅まで電車で戻ったとて、駅から家までの交通手段は、車に頼らざるを得ない。歩いたらたぶん、二時間はかかる。バスは使えない。うちの近所はルートに設定されていないからだ。
 お迎えは何時なのか、と尋ねれば、おばさんの仕事終わり、十八時ごろだと言った。腕時計を確認すれば、現在十六時。駅に着くのはざっくり三十分後。あの駅前に時間を潰せる場所は、あっただろうか。いや、ないことをわたしはよく知っている。
「制服、かわいいな」
「え? ああ、うん、そうでしょ。制服は、かわいいと思う」
 わたしのことをかわいいと評したのかと思って、リアクションを間違えそうになった。危ない。中学はセーラー服にスニーカーだったので、ブレザーとローファーの組み合わせは、いまだに新鮮な気持ちだ。
「第一志望、受かったんだな」
「あ、うん。……よくわかったね」
 電車がゆっくりと動きはじめて、とん、と洸太郎の腕がわたしの肩にぶつかった。反射的に片腕をもういっぽうの手で引き寄せる。
「いちばん賢い公立つってたろ」
「言ったっけ。忘れた」
「どこのことなんだろうな、ってあのあとネットで調べたから、制服も覚えてた」
 へえ、と間抜けな相槌をうちつつ、インターネットというのはおそろしいな、となんだか真剣に思う。そのうち、他人がなにを考えてるのかを尋ねても、答えてくれるようになってしまうかもしれない。
 ふらふらと両足をゆらしてみる。先月くらいに帰り道に原付で転けたときについた、左膝の痕が憎く、情けない。
「あ、そうだ。駅から原付で家まで送ったげようか」
「は? いや、うーん。いいのか?」
「いいよ。迎えはいらないよって、連絡しといて」
「おー。安全運転で頼むわ」
「原付二ケツのうえに、あなたはノーヘルで、安全なわけないじゃんか」
 バカなことをぬかすな、と笑えば、洸太郎も同じように声を上げた。
 男子を後ろに乗せたことはないな、と考えてから、むしろわたしが後ろに乗ることに憧れてたんだけどな、と腕を組む。ふたり乗りをする時点で交通違反はしているにしても、さすがに無免許運転させるのはまずいな。
 わたしよりひとまわりくらい太そうな腕がお腹にまわされる感覚を想像して、ちょっといい人ぶりすぎただろうか、と少しだけすでに後悔していた。





 洸太郎とお見舞いに行ってから、数か月後に、おっちゃんは亡くなった。あれから三回、ひとりでもお見舞いに行った。
 二回目の帰り道に、あ、洸太郎の連絡先を聞いておいて、おっちゃんとのやりとりを教えてあげればよかった、と気がついた。おっちゃんかおばさんに洸太郎の連絡先を聞いてみようかな、と訪ねた三回目。楽しいことだけを伝えられそうにないおっちゃんの姿を見て、聞くのはやめた。

 ちらちらと雪が降っていて、おっちゃんの家の前にはいくつか傘の花が咲いていた。駐車場と路上に停車している自動車のボンネットにも、粉砂糖のように雪がかかっていた。
 近所の人がみんな集まるので、お見舞いとは違って、わたしもなに食わぬ顔で参列することができた。通夜からもちろん、洸太郎も来ていた。こんなに短いスパンで顔を合わせるのははじめてなのに、学ラン姿の洸太郎は今度こそ、ひさしぶり、とわたしに向かって小さく笑った。
 どちらからともなく、ちょっと歩こうか、と家を抜け出してだだっ広い道を歩くことにした。トンネルを抜けたところで、制服のスカートのポケットから煙草の入った箱を取り出して、火をつける。
「習慣化してんのか」
「いやいや。おっちゃんが入院してからは吸ってなかったよ。買えるわけないし」
 これは今日のために、昨日、友だちのお兄ちゃんに買ってもらったのだった。まあ、お兄ちゃんもギリまだ未成年だけど。
「おっちゃんとね、煙草を黙ってふかしてる時間が、結構好きだったんだよ」
 寒くて、煙を吐き出す唇が震える。
「わたしに悲しむ資格は、あるかな。一丁前に感傷に、浸りながらさ」
「あんだろ。なんなら俺より、じーちゃんとなんでもねー時間、過ごしてたんじゃねーの」
 どれだけ多くの時間を近くで共有したかは関係ない。血のつながりとは、どれほど濃いもので、離れられないものなのだろうか。ただそれがあるというだけで、洸太郎はわたしより深い喪失感を覚えているのだと、手に取るようにわかる。
「ねえ、何本食べたと思う」
「……は?」
 話の流れ的に、わたしが何本煙草を食べたでしょうか、と問うていると思ったであろう洸太郎は、もうほとんど化けものを見るかのようにわたしに視線をくれた。
「とりあえず二十本くらい買って、クラスの子たちに手伝ってもらった。だから、わたしが一気に食べたのは五本くらいだったけど、それでもお腹下した」
 わたしは煙草を入れていなかったほうのポケットから、細い木の棒を取り出した。
「これ、棺に入れてもいいかな」
 アタリが印字されている棒が出るまで、ひたすらアイスを食べ続けた。もはや、悲しいとかさみしいとかいう感情は忘れて、わたしのお小遣いが底を尽きないことだけを願っていた。
 どうしてだか、わたしはおっちゃんが亡くなったと聞いたときに、アタリの棒をおっちゃんのそばに置かなくてはいけない、と思ったのだった。
 さすがに、火葬場まではついて行かれないから。そう言って洸太郎に、この棒の行き先を託す。
「預かるわ。俺も入れるつもりだから、いいだろ」
 なにを? と、洸太郎の動きを追えば、ズボンのポケットから、薄い茶色の棒を取り出していた。色褪せていて、どうやらこっちはわたしのように直近で手に入れたアタリではないようだった。
 なんで入れようと思ったの、と聞こうとしたけど、わたしが逆にそう尋ねられても、相手を納得させられるような回答は用意できない。洸太郎もそう思っているのだろう。わたしたちは顔を見合わせて、キンと冷えた空気のなかに、白い息を吐き出していた。
「煙草、くれ」
「あ、うん。いいよ」
 手元の棒を洸太郎に渡して、空いた手をポケットに入れる。煙草の箱の端の尖った部分が、手のひらにちくりと刺さった。
 次は、いつ会えるの?
 はじめて問いかけたくなった言葉を発する代わりに、煙草をくわえ直して、大きく息を吸いこんだ。




 晩ごはんを食べながら見ていたテレビは、ずっと飽きずに建物の残骸を映していた。なんなんだこれは、と味噌汁をすすりながらテロップを確認すれば、三門市上空からの映像、と書かれていた。それを認識した瞬間、器から手が離れそうになっていた。
 三門市というのは、洸太郎が暮らしている街ではなかっただろうか。
 不確かな記憶のふりをして、ほとんど確信していた。大学の志望校を調べるときに、わたしは三門市の位置も同時に調べていた。わたしが志望している大学と、三門市の距離を検索したのだ。
 今、父や母に聞いても、さすがに隣人の姉妹家族のことは、わからないだろう。もしかしたらわかるかもしれないのが、田舎の情報網だけども。
 隣の家まで今から駆け降りて、聞いてみようか。でも、わたしと洸太郎がそれなりに会話をしたことがあるということを、隣の家の人たちはおっちゃんを除いて、知らないと思う。
 口に入れた煮物の味がしなかったのは、お母さんの料理が下手だから、だけではない。

「洸太郎くんが住んでいるのは、三門市ではなかったですか」
 次の日、今にもなにかを吐き出してしまいそうな気持ちの悪さを抱えたまま学校へ行って、教室でも話題になっていた三門市の話にはもちろんわたしが知っていること以上の情報はなく、下校の時間になり、原付で家の前の砂利道をのぼろうとハンドルを右に切った。だけどわたしは、そこで足をついた。方向転換して、隣の家まで原付を押して歩き、覚悟を決めて玄関のインターホンを鳴らしていた。
 引き戸を引いたおばさんは目を丸くしてから、なにかを察したように表情を変えて、わたしの問いかけを肯定した。まだ、妹とも連絡が取れないのだ、とおばさんは左手をぎゅっと、片方の手で握り締めていた。いつもより、少し顔色が悪く見えるのは、室内の電気がおばさんの背後から照っているから、だけではないのだろう。
 なんと言えばよいか、わからなかった。無事だといいですね。きっと大丈夫ですよ。心配ですね。いくつか候補はあがってきたけど、どれも適切だとは思えなかった。その代わりに、やけに冷静に、洸太郎のお母さんは、おばさんの妹さんだったんだなあ、おばさんって長女なのかなあ、なんて、少なくとも今には、全然関係ないことを考えていた。
 連絡がついたら教えるね、とおばさんは、わたしを抱きしめ、二度、背中を叩いた。あまり他人に、なんなら家族にもそういったスキンシップをとられた記憶が新しくなかったので、お腹からぐうっとなにかが上がってくるような気配を感じた。でもそれは、さっきまで抱えていたそれとは、少し違っていた。
 家に戻って、自室のベッドに制服のまま寝転んで、携帯で三門市の状況について検索した。新幹線も飛行機も、今は三門市あたりまで動いていないようだった。高速道路も封鎖されている。
 わたしは洸太郎が三門市にいることは知っていても、家の住所など知らなかった。知っていたとしても、それはせめて一年に一度、年賀状を出す程度の用途だろう。心配して押しかけるような間柄ではない。なにせ洸太郎のお母さんの姉ですら、ここで連絡だけを待っているのだから。  

 次の日の朝。どこか現実味のない浮遊感が、わたしの身体から離れなかった。目覚ましが鳴る前に起きて、やったこともないのにストレッチをして、着替えて、朝ごはんを食べて、原付に乗った。
 隣の家のおじさんとおばさんが仕事へ出たのと、小学生の男の子と中学生の女の子が登校して行ったのを確認して、まだ取り壊されていない、かつての店先に座った。学校へ行く気にはなれなかったのだ。ポケットから引っ張り出した、おっちゃんの通夜以来保管していた煙草は、何本か湿気ていて火がつくものを探すのに手間取った。探し当てた一本をふかしながら、薄汚れた石畳に手をついたら蜘蛛の巣がひっかかったけど、払いのけることもせずぼんやりと、おそろしくきれいな空と雲をながめていた。
 おっちゃん、さみしいからって、さすがにまだ、孫連れてったらダメだからね。奥さんもそっちにいるんでしょう。
 いつまでもそこにじっとしてもいられなくて、わたしはコンクリートに煙草の火元をぐりぐりと押しつけてから、裏道に停めていた原付にまたがった。あてもなくふらふらと、制服姿のまま原付を転がし続けたかったけど、補導される危険性がそれを拒むことに気がついて、市内からまた町へと戻る。補装されていない道を、パンクする可能性を無視しながら進んだ。
 相変わらず人気のない川沿いを走りながら、切れこみのある葉っぱが桑の葉だ、と洸太郎が言っていたっけ、と思い出した。一緒に過ごしたトータルの時間なんて、二十四時間にすら満たない。それでも、思い出は、あるのだ。わたしは桑の葉を探してみることにした。でも、どれが桑の葉なのかは見せてもらわなかったので、正解かどうかがわからない。もしかしたら落葉樹で、葉を落としているかもしれない。なんで洸太郎が知っているのに、田舎育ちのわたしが知らないんだろう。悔しい。
 ぷかぷかと水にそれらしき葉っぱを浮かべたり、ベンチに座って煙草を吸ったり、電波のいまいち入らない携帯をいじったり、車のエンジン音がするたび茂みに身を隠したりしているあいだに、もう空は茜に色づいている。
「見つけた」
 ざあっと風が吹いて、河川敷に座りこんでいたわたしの手元の煙草から、灰が乱暴に飛んだ。
「母親が、どうせ休校だし落ち着くまでこっちに世話になれって言うからよ。なんか、疎開みてーだよな」
 声はわたしの頭上から降って来て、それはまるで雪のように繊細で、でもはっきりとあたたかい温度をもっている。
「親父に車出してもらって、下道で来たんだよ。思ったよりはかかんなかったけど、さすがに遠いな」
 おもに左耳の鼓膜が、男の声を拾っている。なんとか言えよ、とでもいうように、指先に挟んでいた煙草が、角ばった指につまみ上げられた。斜め後ろに男が座った気配がして、視界の端にスニーカーのつま先が映りこむ。
「高校行ったら、今日来てないとか言われるし。探したんだぜ」
 男が吸いこんで、吐き出したであろう煙が流れて、鼻先をかすめる。
「いや、嘘ついた。連れてってくれって俺が頼んだのが、母親の提案より先だ。またアイス食いまくって腹壊す前に止めに来ねーと、って」
 ひとりで喋り続けていた男は、息をのむように言葉を切った。
 水面がゆれるたび、光がちらちらときらめいている。じわりじわりとにじんでいく眼界と小刻みに震える肩を、自分ではどうすることもできなくて、わたしは膝と膝のあいだに顔を落とした。