「ほめることって、あるんすか?」
 椅子に座ったままカウンター越しに目の前の金髪ツーブロックの男を、見上げる。
 ホワイト基調の清潔感あふれる、ともいえるし無機質、ともいえる歯科医院の受付。ちょうど予約が捌けたところで、ほかに患者の姿はない。
「……はい?」
 ランチ休憩をもらったあと、クーラーの効いた部屋はまぶたを落とそうとしてくるので、抗うことに必死だった。
 保険証・お金・領収書の受け渡しといった決まりきったフォーマットのなかでの受付業務を当然今日も想定していたわたしは、そのイレギュラーな問いかけに目も覚めたけど、マスクの下で顔が引き攣った。
「いや、歯医者さんは患者にほめること、あんのかなぁ、って」
 彼──さきほど読み上げた手元の書類に記載されている氏名からすれば諏訪洸太郎──のことばが聞き取れないとか、質問の意図が理解できなくて黙っていたわけではないので、リピートしていただかなくてもよかったのだが。
 一般的に歯医者というのは忌み嫌われており、歯にトラブルを抱えた人間が、もうどうにもならなくなって渋々やって来る場所だ。問題を放っておいた人間たちを、基本的にほめようがない。というわけで、彼の問いへの答えはノーだろう。
 しかし、この諏訪くんは虫歯がないのにクリーニングのためだけに、定期的にあらわれる希少な存在である。
 平日の会社員の退勤時間には少しはやい時間帯とか、お昼ちょっと前とか後とか。おそらく大学の休み時間とか空きコマとか帰り道に来ているのだと思われる。だから、土日には来ない。合理的な子だ。
 とはいっても、歯石がどうとか、歯茎がどうとか、煙草はどうとか、うんぬんかんぬん。やさしい声色だとしても歯科衛生士や医師が彼にかけることばも、忠告やアドバイスばかりであろう。
「……定期的に通われてて、えらいですね」
 領収書をカルトンの上にのせ、「また、二、三か月後に」笑っているということをアピールするために目を必要以上に細めれば、乾いた短い笑い声とともに、「どーも」角ばった指先が用紙をつまみ上げた。


 仕事が終わり、電車に乗る前に、このあたりでいちばん大きな本屋に寄った。
 エスカレーターの手前の壁に掛けられているフロアマップと、さきほど印刷した検索機の結果を見くらべたところ、目当ての三冊はすべて三階の同じエリアにあるようだった。
 介護関連の本の収集を依頼する母に、そんなのは本に頼らずとも、これからお世話になるプロに教えてもらったらいいじゃない、と反論したが、多少でも知識はないと対等な会話が成り立たないじゃない、と予習をゆずらず。だとしてもモノは増やさないで電子書籍でいいじゃない、とエコな提案にも母は紙を主張する、頑固者だった。

 面出しされている売れ筋、もしくは売りたい書籍を通りすぎ、棚と棚のあいだの通路に入る。
 さっそく一冊発見し、引っこ抜く。もう一冊、は最上段か。指差し確認。あとで脚立を持ってこよう。ラストの一冊は、介護食のレシピ本。見当たらない。介護コーナーじゃなくて、料理コーナーか? でも、この棚だって書いてある──、棚をにらみつけながら後退していれば、靴の足先を踏んでしまった感覚に、「ご、ごめんなさい」振り返る。
 二度ほどスニーカーのつま先に向かって頭を下げるわたしに、同じ回数だけ「大丈夫ですよ」と答える声に視線を上げる。
 あ、やっぱり。昼間の歯医者の子。
 わたしは普段マスクをして接しているから、マスクのない今は、認知されていない顔だろう。こちらだけ顔がわかっていて、なんだか申し訳ないような、悪いことをしているような気持ちにもなって、もういちど頭を下げ、踵を返す。彼がいなくなるまでうろうろしておこう。
「あ、ちょっと」
 明らかにわたしを呼び止めようとする声に、目を閉じて細く息をはく。足を踏みつけておいて無視を決め込むのは人としてさすがにアウトだろう。
「はい」
「いや、その、……歯医者の、人ですよね」
 バレたか。と口に出しそうになって、代わりに「こんばんは」受付に座っているときの声色を再現する。もしかすると、今気がつかれたのではなく、もう少し前にロックオンされていたのかもしれないな、と、とくに確証はなく、なんとなく思う。
「なにして……って、本買いに来たんすよね……」
「そう。これだけ、見当たらなくて」
 自問自答の済んだ彼の胸元に本の所在が印字された紙を突き出して「このあたりのはずなんだけど」と、三行目を指差す。
 諏訪くんは眉根を寄せてから、右手でそれを取り上げて、「あ」左腕を持ち上げ、わたしに向かって伸ばす。「あぁ」
 諏訪くんの手元に握られている表紙はたしかにお昼、アマゾンでチェックした書籍の表紙とそっくりだ。タイトルも、やけにサブタイトルが長いので厳密に合っているかは不明だが、大きく書かれているところは合致している。
「俺は急がないんで、よかったら」
「いいんですか? 助かります」と、言ってから「やさしいんだね」ほめるのを忘れてたな、とまるでわたしの使命かのようにことばを付け足す。ほめてほしい、と頼まれたことはないのだが。
「これから、なにするんですか?」
 背伸びしたらぎりぎり届くかもしれないけど、おそらく指先をかすめて苛つく未来のみえている一冊も、諏訪くんに頼んで抜いてもらった。
「本をレジに持っていくよ」
「そうでしょうけど…… 」
 そういうことでは、ないだろうな。
 あまり派手な機会に恵まれたタイプの女ではなくとも、彼がなにを言いたいのかを、どうしたいのかを、察することはできた。
 手渡された書籍たちを両手で抱えて、「……いいよ」わたしよりうんと背の高い年下の男の子と視線を交わらせた。


 なにが? なんて無粋に聞き返されでもしたら、可動域の異常に狭いタイトスカートを破いてでも走り去ってやるところだったが、かくして色気のない赤提灯が吊るされた居酒屋のふたり席に、わたしと諏訪くんはいた。
 やはり彼は大学生であり、三門市立大学と彼の一人暮らしの家の中間地点に、わたしの勤める歯科医院はあるようだった。
 そのほかの基本事項として、彼はボーダーに隊員として所属しているらしい。わたしの同級生でボーダーに隊員として籍を置いていると聞いているのは、冬島くんくらいだろうか。その冬島くんとも成人式で会ったきりである。九年前かよ。そんなレベルなので、冬島くんの連絡先も知らない。
 まさか八つも歳が上だとは想定していなかったらしい諏訪くんのリアクション(「えっ、冬島のおっさんと同い年!?」)には、なんともいえない気持ちになった。冬島くんがおっさんなら、わたしは等しくおばさんである。
 おそらくは一般職員にも同級生は数名くらいいそうなものだが、共通の話題としては弱かった。
 だからといって、不愉快だとか、話すことがないとか、沈黙が苦痛だとか、そういったマイナスな感情は、なかった。
 記録を読み直さずとも、わたしは彼が特定の頻度でやって来る人間だと記憶していた。そして彼も、わざわざわたしに二度も自分から話しかけている。それで、じゅうぶんだったのだろう。
 それでも、「どうして?」そう、問いかけてみたくて小さく首を傾げれば、「ある、ない、で答えてくれたらいいところを、そもそも、愛想笑いで済ませばいいところを、そうしなかったから」と、ビールジョッキをテーブルの上で半回転させていた。


 待合室でいつも本を読んでいるな、ということも認識していたので、彼の住まうマンションの一室の壁一面を本棚が覆っていたことにも、これといって驚きはなかった。
 ラインナップからして推理小説好きなのだろう。わたしはエッセイを好むので、分厚い本というのはあまり持っていない。

 どちらからともなく店先で別れの挨拶をしたが、どちらも身体の方向を変えなかったので、じっとみつめあうかたちになった。まあ、そんなことも人生二十九年やっていれば、片手で足りる程度ではあるが、経験がないわけでもない。
 家に着くなり、「ちょっと煙草」と言ってポケットに入っているであろう煙草とライターとともにベランダに消えた彼は、十分経っても、二十分経っても、戻ってくる気配はなかった。
 ついでに、というていでテーブルの上から持ち上げた、ちらりと見えたスマートフォンのロック画面には、漫画やドラマでしか見たことのないような着信履歴が、連なっていた。これには思わず、声が出そうになった。

 本棚から一冊引っ張り出して、ぺらり、ぺらりとめくってみる。
 これを、彼はどれくらいの時間をかけて読むのだろうか。一巡目はさくっと読んで、何度も読み返して理解するのだろうか。
 それとも、最初から読み込むのだろうか。読み終わったら、だれかと感想を言い合いたいタイプだろうか。ひとりであれこれ検証を重ねるのだろうか。

 サッシにドアが擦れる音がして、ぱたんと本を閉じる。
 さっきまで彼について想像していたことを、尋ねればいいのだろうけれど、これからわたしもこの本を読んで、そのストーリーを共有するのもいいのだろうけれど、その時間はもうないのだと思う。
 こういうときの女の勘は、必要ないのに冴え渡っている。それこそ、わたしが探偵にでもなれるなら、いいのだが。
「彼女?」
「………まー、一応……」
「一応、ねぇ」
 馬鹿正直で、ため息も笑い声も出てきやしない。
 今日の昼から夜にいたる展開で、彼に恋人がいる、ということは、はっきり言って想定の範囲外だった。ほとんど三十年の経験は活かされなかったというわけだ。
 こうなったら人類全員、首から札を下げていてほしい。『恋人います』『既婚者です』。あとついでに、下車する予定の駅も記載しておいてくれ。電車の席が埋まっていたら、すぐに降りる人の前に立つから。
「長いの?」
「……高校、二年から」
「そしたら、卒業したら結婚?」
「……まぁ、この話はどうでもいいっすよ」
 当然、酔いは一気に冷めている。わたしは厄介なことに巻き込まれる趣味はないのだ。
 そこそこの量摂取したアルコールがそう簡単に分解されることはない。わたしはモンゴロイドだから。基本的にアジア人以外は酔っ払うということがないというから、人体は不思議である。
 それこそ、こんな話はどうでもいいのだが、おまえのそれはどうでもいいわけがないだろ。
「……うまくいってないんですよ」
 突っ立ったまま、閉じた本をまた開いて、「そういうの、聞き飽きたわぁ」ぱらぱらと、しつこくめくる。「なんだかんだ、みんな彼女のこと、すきだもの」
 不届き者は、俺はちがうと言わんばかりに、大袈裟な動きでセミダブルのベッドに腰を下ろす。
「会えば不機嫌、帰ろうとすればやっぱり不機嫌。自分の要求があるときだけ連絡を寄越す。───もう終わってるでしょ。どうしろっていうんですかね」
 どうしたらいいかと当たり散らかしたいのは、こっちなんだけどな。
 背幅の広い本を棚に戻して、彼のとなりに陣取る。腕を伸ばした先、整髪剤で固められた髪の毛がちくりと手のひらをさす。「よしよし」なでるたびに折れ曲がろうとして、やっぱり形状を保ち続ける髪の先が憎らしい。
「えらいねえ。ワガママガールの相手は、大変だね? がんばってるね?」
「…………やめろ」
 子ども相手の口調に腹を立てたのか、それともお触りは厳禁だったのか、怒気をはらんだ低い声とともに手首をつかまれる。
 だから、怒りたいのはこっちなんだってば。
 たぶらかしてもいい女だと思われたとか、隙のある女だと思われたとか。何度も自分に言い聞かせたり、友人知人に宣言したりしていたくせに、たった数時間のあいだに浮かれた長い未来を思い描いてしまった自分の諦めの悪さとか。おもに、迂闊な自分に対して、だ。それでも、わたしだって八つ当たりするしかない。
「こんなことして、たのしいの?」
 突き放そうと思えばできたのに、わたしは引かれた腕の衝撃のせいにして、「たのしくないです」と、彼の泣いているような声を、まぶたを落としてつくった暗闇のなかで聞いた。



 一軒家ではなくマンションへうつるため、本は極限まで減らそうと、手放した。それなのに書籍を増やす母には、わたしの意図を汲んでほしかったものである。
 母の母、要するにわたしのおばあちゃんの介護を手伝うために一家で引越すことは、去年から決まっていた。親離れしていないわけじゃない。子離れをしていないわけでもない。ただ、わたしも着いていける状況だった、というだけだ。
 でも、あの場所に手放したくないなにかを遺すことのできなかった自分にも、おそろしくがっかりしていた。身軽なのは、なにもないからだ。

 いまやコンビニより多い歯科医院に、土地を変えても再就職の叶ったわたしは家路につく地下鉄のホームで、黒電話の着信音が鳴り響くのを聞いていた。
 蒸すような暑さのなか、騒々しい音に、整列している社会人たちはわたしを含めみな、不快な表情を浮かべている。
 そのうちに、先頭から二番目に並んでいる自分のトートバッグの中が音源であることに気がつく。なんてことだろう。いざというときのため、マナーモードにしていなかった。緊急時を本当の意味で想定できていないのなら、意味がないことだった。
 とりあえず消音した画面には080からはじまる数字が羅列してあって、電話帳には登録されていないことを示している。ヘルパーさんの電話番号は登録しているが、もしかすると今日は担当がちがうのかもしれない。さっきまで不在だった危機感を、はじめから持っていたように装うかのように、通話ボタンをタップする。
「……はい」
『……あ、……こんばんは』
「……」
『……』
 左側から店内の明かりが彼を、それは同時にわたしのことも照らしていて、火照った熱が嫌というほど見えて、そして見られていた。
 そこだけを切り取ればロマンチックな一夜。その光景がまず思い返されるのは、そうであってほしかったからなのだろうか。
 電話口で次のことばを探している男は、あの夜、さようならも言わずにパンプスに足を突っ込んでドアを開けたわたしを、追っては来なかった。それが正解だ。それなのに。
『出てくれると、思わなくて』
「じゃあ、切ってもいい?」
『できれば、切らないで』
「……なに? 謝りたいとかなら、結構だよ」
 謝るべきは、わたしもだろうか。
 生年月日や住所といった個人情報が彼の存在を、たとえば大学構内ですれちがっただけの、同じ学舎にいる学生以上に安心安全、とラベリングしたわけではなかった。
 もちろんその要素も背中を押したのかもしれないが、結局は、わたしがあの場を離れるから、あの夜どんな風になろうと、どっちに転がろうと、どうだってよかったのである。
 わたしだけが、わたしたちははじまらない、はじめようがない、続きようがないことを知っていた。
 そもそも彼も気まずいなら歯医者を替えてしまえばよかったのだから。あ、やっぱりわたしは謝らなくてもいいかもしれない。
『……今日、俺、誕生日なんですよ』
「……やっぱり謝れ」
 電話口でハッピーバースデートゥーユーでも歌ってもらいたかったのか。甘えたさんにはほとほと呆れる。
 わたしのため息の向こう側で、ほんのひと月前にわたしも現地で聞いたばかりのアナウンス音、そして、到着便のご案内を申し上げます───と、三門市からいちばん近い空港の名称が漏れ聞こえて、「空港?」
「誕生日にご旅行とは、いいですねえ」
『どこだと思います?』
「は? 知らんけど……」
 わたしもこの期に及んで愚かなのか、この状況からすればもっともなのかもしれないが、「………………まさかね」
 そのまさか、彼が紡いだ空港の名称は背後の反対車線を走る地下鉄の終点であった。
『歯医者で濁されたんで、冬島さんルートで連絡先含め、聞きました』
 元職場が元社員の個人情報を守りぬくのは当然のことながら感謝したいが、濁したというのは、わたしの電話番号を虫食いで教えたとかではなく、わたしの所在についてだろう。退職したことは教えられたとしても、今どこにいるかなど、知っていても教えられるはずもない。
『もし、チャンスがあるなら、迎えに来てくれないですか』
 連絡がつかなかったら、どうするつもりだったのだろう。まあ、観光したり食事を楽しんだり、できるだろうけど。諏訪くんはひとりで飲みに行ったら、店員さん、常連さん、男女問わず、かわいがられそうなタイプだもの。わたしが、そうしたくなったように。
「…………わたし、浮気相手になる趣味はないんだよ」
『わかってます』
 チャンスって、なんのだよ。わかってるって、なにをだよ。───なんて、明確なことばを催促はしない。相手から発せられることばに依存しない年上の余裕をみせたい、というわけではない。
『だから、来たんですよ』
 聞かなくったって彼の馬鹿げた行動がそのほとんどを示してしまっていると、頬を叩く髪の毛がわたしを囃し立てる。
 滑り込んできた電車の風を受けて、フレアスカートがふくらはぎにまとわりつく。振り払うようにして上げた右脚を半歩後ろにおろせば、ヒールと床が軽い音を打ち鳴らした。