思い立ってからの行動は早かった。
スマートフォンのアプリをひらいて近隣の温泉街を検索、本日、金曜日の夜から一名一泊でひっかかったたった一軒の旅館をタップしたときにはタクシーも駅前の降り場につこうとしていた。
ちょっと不安になって表示されていた電話番号にかけてみれば、「お夕飯は時間的にむずかしいですけれど、よければおにぎりでもお出ししますし、ゆっくりお越しくださいね」と電話口からやさしい声が響いた。やけになって金曜日の夜に乗り込む人間はわたしだけではないのかもしれない。
タクシーのおじちゃんに領収書もきっちり出してもらい、カレンダーのように筒状にされた忌まわしき色校正を映画監督のもつメガホンか野球選手がもつバットのようにかついで降りる。特急のチケットを購入して電車の座席に腰掛けたときには20時を少し過ぎていた。到着するのは21時前くらいだろうか。なんとかがまんしていたため息が、ここでやっともれた。
わたしだって知っていた。モニターでみる色と実際に紙に刷った色が異なることくらい。通販カタログの色校を会社のデスクで広げて、それでもうんざりした。
何が違ったかと言うと、オンデマンドでは色鮮やかなビビットなイメージだった紙面が、黄みがかってレトロな雰囲気を醸し出していたのだ。うちは食品を扱っているのでどうしても実物にできるだけ忠実な色を出してほしかった。そもそも、実物と見比べながら色を近づけてくれるいい会社が見つかりました! と、外注のデザイナーが嬉々として報告してくれた印刷会社の仕事だ。話がちがうではないか。
色校正を持ってきてくれた外注のデザイナーに眉をひそめ、ふたりで印刷工場に最初に出向いたのはおとといのことだ。工場というのは駅近にはどうしてもなく、駅からはタクシーに乗るしかなかった。
遠路はるばる工場までやって来たというのに、やはり色が出ない。なかでも緑色を出すのは難しいらしい。あと、意外にも白色。
そもそも、この工場に見本となる弊社の製品が置いてなかった。宅急便で送りましたよ、とデザイナーが小声でアピールする。ないんですか? と物腰やわらかな営業の男性に聞けば、本社にありますと笑う。バカなのか? 工場でチェックしないと意味ないのでは?
デザイナーもデータからいじってくれてなんとか近づけようとしてくれたけれど、印刷できる担当者が16時半までしかいないとハンカチで額をぬぐいながら営業が言う。そういうわけであさっても来ていただけますか、ということでわたしたちは今日も朝から向かった。
おとといの時点である程度色味は近づいていたので、わたしたちが来る前に出してくれている紙をみればいいと思っていたのが間違いだった。なんならわたしたちと同じタイミングで出社してくる工場の人たち。嫌な予感しかしなかったし、それは正しい予感だった。
ちっとも刷り上がって来ないことにイラつきながらも、取引先のデザイナーにそんなところを見せるわけにもいかない。1時間に1枚しか刷られないそれを2枚見たら、営業が焼肉弁当をふたつ持ってきた。食べてる間にがんばってくれるのかと思ったら、じゃあわたしたちもお昼に行ってきます、と。
もうだめですと上司に今日は帰社できそうにないことを伝えて夕方から入っていたミーティングをリスケしてもらい、こんな時間まで粘ったあげく、納得いかない色で校了した。もうあきらめた。妥協したのだ。
わたしは駅まで車で送ると言う営業の声かけを断ってタクシーを呼び、どうすればこのもやもやを払拭できるかとわしゃわしゃと頭をかいて、タクシーの中で思いついたのは、温泉に行って一晩ゆっくりすることだったのだ。
電車を降り、駅前のコンビニでビールとチューハイ、焼き鳥を買うことにした。だいたいイライラしながら大量に買っても全部は食べきれないということを、さすがにわたしももう知っていた。ただ、普段は吸わない煙草とライターも買った。なんだか、そんな気分だったのだ。
駅から歩ける距離にある旅館までの道のりは明るくはなかったが、ちらほらと観光客らしき姿があった。わたしのように気を張っているような人は当然、みられなかった。
旅館の前に喫煙所があったので、ビニール袋から箱と火を取り出そうとするが片手をふさいでいる筒がじゃまで、思い切りぶん投げようかとしたけれど思いとどまってアスファルトに転がした。
わたしは工場の人たちに感謝していないわけではない。営業もわたしをなめていたかもしれないけど、文句ひとつ言わず付き合ってくれたこれを、そんなに粗末に扱うことはできなかった。だから、ライターで火をつけて燃やすのも、やめた。
「さん?」
箱の内側の銀の紙を切ったところで、名前を呼ばれた。喫煙所にわたし以外の人影はないので、この名前はたしかにわたしのことを指しているのだろう。
おそるおそる声がしたほうをふりむく。浴衣姿にかかとを踏んづけたスニーカーを履いて、煙草をくわえた金髪の男の人。
「……諏訪くん?」
ワックスで整えられた髪型しかみたことがなかったので自信が半減くらいしたが、思い当たる人物は大学の後輩である諏訪くんしかいなかった。
めちゃくちゃ久しぶりっすね、と言って彼は煙草に火をつけるので、正解だったことがわかる。ひとつだけある街灯に照らされる諏訪くんの顔はほんのり赤くて、温泉から出たばかりか、アルコールがはいっているのだろう。
「吸う人でしたっけ?」
まだ一本も引っ張り出されていない手元のそれに、視線をおとす。いたずらがみつかったときのようになんだか居心地悪い。
慣れない手つきで一本つまみあげてくわえたのを合図に諏訪くんが寄ってきて、もういちどライターをまわした。煙草をちかづけて、深く息を吸い込むと、煙草に火がうつった。ふー、と吐き出すと煙がすうっと伸びてゆく。すぐとなりからも、同じように白が伸びていった。
「今、四年生?」
片方の手の指を折り数えてそう問いかければ、肯定の返事がある。それから諏訪くんは、ボーダーの同級生四人で来ている、と同伴者がいることをわたしに教えた。
そうなると今度はもちろんわたしの番で、
「彼氏と来たんすか?」
「いや……」
諏訪くんの言った彼氏、というのは漠然とした人物像ではなく、わたしが大学時代に付き合っていた男を明確に思い描いて言ったのだと、なんとなくわかる。別れたことを知ってか知らずか、おそらく知らなかったのだろうから、元カレと諏訪くんも連絡をとってはいないのだ。
諏訪くんとは当時の彼氏をシェルター前で待っていたときにはじめて会って、たまに麻雀いっしょに打ってる一年だと紹介されたのだった。それから何度か会話をしたり、一回だけ複数人で飲みに行ったこともあった。連絡先も知らない、大学の後輩。大学生らしい、その場の流れで同じ時間をすごしたことがあるだけの、通りすがりの関係だ。
「ひとりがいいからひとりで来たんだとは思いますけど、遊びに来てくれてもいいっすよ」
部屋の番号であろう数字をふたつ述べた諏訪くんをちらと横目でみる。
社交辞令だと思った。でも、遊びに来るなよ、ということではない。わざわざ部屋まで教えたのだから。ほんとうに気が向いたら来てくれていい。誘い方といい、どこまでもわたしの意思を尊重したそれ。諏訪くんがわたしに来てほしいと思っているのかどうかは、読めなかった。
「……諏訪くんとふたりなら、考えたかな」
「それはていよく断ろうとしてます?」
「どうとでも受け取ってよ」
いちど寄りかかってしまったらそのまま沈みそうで怖いのだ。気をゆるめるためにこんなところまでやって来たのに、結局ゆるめないことに必死になっているなんて、ばかばかしい。
まだ灰皿に投げ入れるにははやい長さの煙草を網目に落とす。じゅっ、としぼむような音がなるのを聞いてから、かがんで転がしていたブツを拾い上げた。
「とりあえずチェックインして温泉入ってくるわ」
「……じゃ、上がるころまた喫煙所来ます」
「もう吸わないよ」
「やっぱ断ってんじゃねーか!」
あはは、と笑えばしずかな薄暗い周辺によく響いた。
指先でつまんでいた煙草の箱を諏訪くんに突きつけると、諏訪くんはだまって受け取った。自分の手に同じ煙草の銘柄の箱がふたつ重なったその意味を、深読みしてくれたっていい。煙草を吸おうかとしたときにふとよぎったのは、君が吸っていた銘柄だったなんて。
そういえば諏訪くんの隊服は緑色だったのではなかったか、なんてことを思い出していた。