ランク戦夜の部が終わり数時間経過した本部には人気がすっかりなくなっていた。
足を踏み入れたエレベーターのボタンを人差し指の第二関節で小突けば遺薫が鼻をかすめる。ポケットから煙草を取り出しソフトケースを人差し指と中指で弾き一本取り出して口に咥えると無機質な音を立てて扉が開いた。喫煙ブースに続く廊下を咥え煙草で進みながらふわりと香るエレベーター内と同様の残香とブース内の人影に釣られて口角が上がった。
「いると思ったぜ、ちゃん」
煙草を一吸いした直後だった彼女は声を発することなく片手を上げてひとまず挨拶代わりとし、俺を察知して開いた自動ドアが閉まる前に「なぜわかった、洸太郎くん」と、同じ土俵に乗って来た。
「おめーの通ったあとはにおいでわかんだよ」
「えー。犬なの?
実在していそうなその名称にひとしきり笑い声を響かせてから、煙草のにおいかと彼女が確認するのでかぶりを振る。彼女の煙草の銘柄はアメスピのメンソールだが、大多数の人に敬遠されそうな類の香りではない。
彼女のまとう香りは煌めくようなものではない。薔薇のような華やかさや、新緑のような爽やかさもない。消去法は可能だが、彼女の香りを言語化することはできない。——などと説明する男は少々気味が悪いと想像できるため説明は控えてライターの石をまわした。
「でもランク戦中に見つけられないということは、換装体だとわからないのか」
「だな。アレになっちまうと無臭だ」
「じゃあ、遠征行ってはぐれても見つけてもらえないね」
突然のたとえ話は長期遠征選抜試験のアナウンスがあったからだと推察できる。口から煙草を離し、まださほど長くなっていない灰を落とすべく執拗に灰皿を叩いた。
「そもそも俺は遠征行くつもりねーし」
「そーなん」
「は」
「どちらでも構わないと言われたよ」
彼女自身の意思ではなく第三者の意向が突如として介入してきたが、もちろんその人物は迅に決まっていた。試験に参加するかどうかすら迷っていた彼女はわざわざ迅を捕まえて尋ねてみたのだと言った。
その回答はいずれにしても自分はキーマンではないということを示すのだから気楽だと笑っているが、そのわりには彼女の表情は明るくない。当然だ。長い付き合いの俺にはその行動は悪手であったことがわかる。
「どちらにしても死ぬのかもね!」
なんで迅はこいつに余計なことを考える余地を与えたんだ。
彼女は元来ネガティブ思考の人間だ。せめてどちらかの選択肢を提示してやってくれ。心配事の9割は起こらないのだと、同タイトルの実用書を手渡してやったこともあるが気質というのは本一冊ではそうそう簡単には変えられない。
「少なくとも緊急脱出付の居残り組にそれはないだろ。ま、遠征組も3キロ以内は戻れるが」
「こっちに残ったって本部がやられたら終わりだし、三門市を出ざるを得なかったら? それに、」
煙草を口元でくゆらせながら彼女の右頬をつまめば、彼女は飼い犬に噛まれたと騒ぎながら俺の頬を狙うので離してやる。
鼻の効く利口な犬として彼女をどこまでも見失うことなく追いかけ、彼女のどうしようもない思考を一つひとつ否定し、肯定し、地に足がついていることをわからせてやりたいと。そして、ひとりで突っ立っているわけではないと頭をなで手を握り抱き寄せたいと。そんな思いに類似するのは親心。老婆心。それとも。
「そういう話、他のやつにすんじゃねーぞ」
「もちろん。かわいい後輩たちに無駄な不安を仰いだりしないよぉ」
「……いや、そういうことじゃねーんだな」
そうは思ったが今日のところはまあいいか、と煙草を灰皿に押し付ける。
じゃあなと一・二歩扉へ向かって歩けば「すわんわん」と、冒頭の犬を引っ張って来て呼び止める彼女。文句を吐いてやろうと振り向けば、花のように頷いてから彼女は言う。
「わかってるよ」
ゆらゆらと立ち昇る煙に混じった馥郁とした香りが、俺を逃してくれない。