実家、実家、実家、実家、一人暮らし(喫煙者)。——今日も外したかぁ。
 予定していたはちみつレモンサワーの追加注文を取り消し生ビールを選択すべく端末を操作する。「飲めんじゃん!」という男の声を無視して、スマホで時間を確認。この1杯で帰るか。

 大学三年生の冬、すでに三門市の小さな出版社に内々定をもらっていたし、とくにやることもなかった。単位もほとんど取り切ってしまっている模範的学生のわたしがやることは連日の合コンとアルバイトくらいだ。大学二年生の春にこっぴどい別れを経験してから、自暴自棄で行きずりの男の家になだれ込み見た本棚に並ぶ本の種類は、そのよく知らない男の中身を覗き見ているようで、くすぐったく、癖になった。以来、わたしは男の家に上がり込み、本棚をみることが趣味のようになっていた。そのためなら避妊具をつけたセックスくらいは閲覧料として支払えた。そうはいってもその回数は両手で数えられるくらいだと思う。生粋の遊び人でも、絶世の美女でもないわたしにそういうチャンスはあまりめぐってくるものではないのだ。
 今日ももちろんその趣味のために参加したという理由は大きいが、一応断っておくとわたしだって恋人や近い将来の結婚相手を探すということを諦めているわけではない。ただ、そういう出会いがないというだけだった。就職先や取引先にそんな相手がいればラッキーだろう。もはや大学生活は消化試合だった。
 さて、目の前に並んでいた男たちは実家暮らしであった。実家暮らしの男の家には上がり込めない。ひとり例外がいるが、わたしは煙草のにおいが好きではないので却下だ。趣味という意味でも真っ当な関係という意味でも、もう今日のわたしは猫をかぶる必要がなくなったことを示している。

 トイレに立つと、ふたつしかない個室の片方は扉が閉まっていたのでもう片方に迷いなく入る。嘔吐しているであろう音がとなりから聞こえて来るが、もしかしなくてもこいつは、わたしより少し前に席を立った実家暮らしの男その1だろう。便座から立ち上がりパンツをあげたところで、その1に声をかける男の声が聞こえた。ワンピースのスカートがちゃんとおりていることを確認して扉をあけると、煙草をくわえたひとり暮らしの男——たしか名前は諏訪——がいた。おたがいに、曖昧なよくわからない発声で遭遇についてリアクションし、会釈をした。
「そんなに飲んでましたっけ?」
「こいつ、狙いたい女がいるときこそ飲みすぎるんですよ。それがあんたのことだってことはここだけの話で」
 諏訪がしまっている扉の前からその1に声をかけ続けるが、扉は開かず、うめき声しか返ってこない。諏訪が片手で持っている水の入ったグラスは行き場所を失っている。
「そりゃ、わたしが見てないほうがよかったね」
「はなからあんたにその気がねーんだから関係ないだろうけどな」
「それもそうかぁ」
 このまま席に戻ってもよかったが、なんとなくそのまま少し距離を離して諏訪の横に居座る。かちゃ、と鍵が開けられる音がしたけれど、人が出て来る様子はない。
「ちょっと、悪いけど持ってろ」
 諏訪はくわえていた煙草をわたしに渡す。やだよ、と言うより先に諏訪が手を離そうとしてしまうので反射的に受け取ってしまった。トイレ内は火災報知器が作動するのでしかたがない。
 開いた扉の先では便器に顔をうずめている男がおり、諏訪は背中をさすってやっていた。面倒見のいい男なんだな、と思う。酔っ払っている様子のなかった今吐いている男がそういう状態であることを察してここまで来たのだろう。無骨そうに見えて意外と繊細な男。
「ねー、好きな本とかあるの」
「はぁ? 本? ……まー、推理小説は読む」
「そーなんだ」
 直接男に好きな本を尋ねるのはいつぶりだろうか。
 こちらを一瞥した諏訪はわたしの脈絡のない質問と、それに対する簡潔な相槌に不満があるようだったので、わたしの好きな推理小説作家を数人あげてみる。とくにそれに対してテンションを上げることも、うんちくを垂れることもない諏訪に、こちらも不満顔を返したくなるが諏訪はわたしに背を向けたままなので叶わない。もうわたしはぶりっこ体制を解いているとはいえ、なかなかに釣れない男だ。ここまで無関心をあらわにする男もめずらしい。まぁ、わたしがとんでもなくタイプでないのか、そもそも女に興味がないのに連れて来られたタイプか——いや、わたしが諏訪の煙草をよく思っていないことを察しているんだな。持たされたけど。
 持ち方がしっくり来ない右手の煙草を口元に運ぶ。くさい。恐る恐る息を吸い込むと、同時にむせた。はじめて煙草を吸う中学生みたいだ、ドラマや小説でしか見たり読んだりしたことないけど。
 げほげほと咳き込み続けるわたしを呆れた顔で諏訪が見る。
「いやっ、ちょっと、好奇心で うえ」
「やめとけ、やめとけ」
 諏訪はこちらへ寄って来てわたしの手から煙草を取り上げるとわたしの目を見てはっきりと言った。

「意外とかわいいとこあるんだな」

 わたしが何か言い返す前に、ふたたび諏訪はわたしに背を向け、洗面所の蛇口をひねって煙草の火を消してしまったので少し高揚した頬の熱は、数杯の薄く甘ったるいはちみつレモンサワーのせいにすることができたかわからなかった。


 たしか合コンの冒頭に諏訪はわたしと同じ大学に通っていると言っていたが、この三年間大学内であの目立つ金髪と長身を見かけた記憶がないのだから、このまま卒業まで再会することはないだろうと踏んでいた。連絡先も尋ねず解散した、というか、みんながもういちど席にそろう前にわたしは家に帰ったからしかたがなかった。女の子の幹事に聞けば教えてくれたと思うけれど、さっさと帰ってしまった手前できなかったのだ。そういう、言い訳だったのかもしれない。
 だから、その数週間後ふと大学内の喫煙所を通りかかったときに、金髪頭の男と目があった気がして足を止めてしまった。諏訪がわたしに気がつくかどうかはわからなかったが、諏訪がこちらに向かって手招きをしていることが、わたしの顔を覚えていることを示していた。大きく腕を使って×をつくり、そちらへ向かわないことをアピールすると、面倒くさそうにくわえていた煙草を灰皿に押し付ける諏訪が確認できた。どうやらこちらに来るらしかった。
「よぉ、よくもあの日は置いて帰ってくれたなぁ」
「お金は置いて帰ったし勘弁して」
 次の講義の予定を尋ねる諏訪にもうない旨を伝えると、ちょっと付き合えよと構内のカフェに連れて行かれた。べつに、わたしたちに積もる話など何もない。共通の知人話もない。
 カウンターの前でカフェラテを頼むと、諏訪が間髪入れずにアイスコーヒーとケーキセットを頼んでまとめて会計した。お前が置いてった三千円は多すぎたからな、ということだった。意外とスマートで律儀な男。
「俺も好きだぜ」
 空いている席につくなり諏訪が言う。諏訪が好きだというのは、あの日わたしがトイレの前であげた作家のひとりのことであった。好きだぜ、の段階でいろいろと思案してしまった自分を脳内で叱責する。
「推理小説好きの人にはあれはちがうとか、文句言われるかと思った。もっとこう、殺伐とした雰囲気のが好きなのかと」
「荒っぽいことすんのは、ギャンブルとか防衛任務だけで十分っていうのもある」
「防衛任務?」
「覚えてねーのかい」
 ボーダー隊員だと言う諏訪の言葉を聞いて、たしかに言っていたような気がしてきた。そういえばわたしは諏訪の学部も知らない。いかにわたしがあの飲みの席で話を聞いていなかったのかがわかる。ボーダーで忙しくしているから大学にいる時間は限られているのだろう。これまで見かけたことがなかったことにも頷ける。
「ごめん」
 申し訳ない気持ちを飲み込むように、チョコレートケーキをフォークで口に運ぶ。
「あんだけキャラつくってる割には、ほとんど上の空だったもんなぁ。何がしたいんだか、はかりかねたぜ」
 痛いところをつかれて、曖昧に笑うと諏訪はチーズケーキを崩す。
 恋愛を放棄してはいないとは言い張っているが、偽りの自分を演じることに力を費やし、まじめに人の話も聞きやしないし、傷つかない予防線を四方八方に張り巡らせている。そりゃあ、傷つかないけど、生産性はないし、目の前の人がしっかりと見えなくなってしまっているのかもしれなかった。出会いがないわけじゃない、それをつぶしているのは、わたしだ。
 興味のない男の本棚に並ぶ本を想像して、家に押しかけ答え合わせをするのはたしかに楽しい。ただ、興味のある男にはあの日のように面と向かって尋ねればいいのだ。

 ついてる。と、諏訪は自分の口元を何度か指で叩き、わたしの口元にチョコがついていることを教える。トレイに乗っていた白いナプキンをとる余裕もなく、親指で拭うと、諏訪は目を細めて笑っていた。


 大学構内で諏訪とふたたびばったり出会うということはなかった。そんなに人生都合よくできちゃあ、いない。
 交換したメッセージアプリのアカウントを通じて諏訪から二度飲みの誘いを受けた。そのうち一度目を断り、二度目は承諾した。断ったのは気が乗らなかったのではなくシンプルに都合が悪かった。二度目はほら、よく言うだろう。三度誘ってだめだったら察して諦めろと。だから、都合をつけた。わたしよりも忙しい諏訪に諦められては困る、そう思った。三度を数えるにはもう一回チャンスはあったわけだが、誘われている側のわたしだってそれくらいには諏訪にまた会いたいと思っていたのだ。

 夜、おもに合コン用として用意していた趣味でないワンピースではなくボーダーのカットソー(諏訪が所属する団体にかけたわけでは決してない)と薄い青のジーンズに赤いフラットシューズというラフな服装、そしてコンタクトではなく細い丸フレームのメガネを合わせた。およそデート向き(そもそもこれはデートなのかはこの際置いておく)とはいえないコーディネートで指定された居酒屋へ向かうとすでに店の前に諏訪はいた。5分前行動。いや、わたしが5分前についたのだから、諏訪はそれ以上前行動か。模範的な男。
 挨拶もそこそこに暖簾をくぐるとしっかり予約をしていたらしい、諏訪が名乗るとカウンター席に通された。奥に座敷もあったが、わたしもカウンター席を好むので意見が合ったようだ。
 諏訪は生ビールでいいのか、と尋ねるので二度頷く。要するにわたしは諏訪の前で猫をかぶるのはもうとっくに諦めている。諏訪もそれは承知だろう。
 運ばれて来たジョッキを持ち上げる前に諏訪がそれは伊達か、と尋ねる。メガネのことだと察し、ばりばりの度入りだと答えながら乾杯をうながす。別に今日はバイトも大学もなかったのですこぶる元気だったが、お疲れ、とご発声し、長く一口目を味わう。
 突き出しは冷奴だったがわたしはどうしても揚げ出し豆腐が食べたかった。メニューと睨めっこしていた顔を上げ、諏訪にそう懇願すると目を細めわたしの意見を尊重する。諏訪はスピードメニューもそこそこに、もう焼き鳥にしか目がいっていない様子だったので、適当にチャンジャと枝豆といっしょに頼んでしまい、それからそれぞれの串をタレか塩かどちらにするのかを話し合った。
 食べ物の好き嫌いはとくにないと言った諏訪に同意すると、親の教育がよかったなと、おたがいの家庭環境について話が及んだ。諏訪は一人っ子だと言ったがとてもではないが信じられない。絶対に妹か弟がいるだろうと踏んでいた。それをそのまま伝えると、よく言われるのだと満足気にジョッキを口に運ぶ。兄弟が関係していないというのなら、きっと諏訪の性質は小中高生の時間やボーダーという組織のなかで身についた、身につけざるを得なかった、花開いたものなのだろうと思った。想像するには情報が足らないその組織内での諏訪の立ち位置を空想し、思わず顔がゆるむ。なにを笑っているのかと諏訪が訝しげにみるので、なんでもないのだとわたしもジョッキを持ち上げた。

 五、六杯分のビールを腹におさめただろうか。このあと熱燗を注文したい気分だったが、わたしは明日朝からバイトが入っていた。そう、だからほんとうは再会するのは今日でないほうがよかったのだ。そろそろ帰る旨伝え、お手洗いに立つ。手を洗いながらふと鏡に目をやると、いやにわたしの口元は緩んでいた。アルコールだけのせいではないのだろう、諏訪がとなりでからからと笑っていたあの空間がひどく居心地がよかったのだ。なんだか小っ恥ずかしかったので掃除担当のスタッフには悪いがぱっぱと濡れた手で鏡に向かって水を払った。
 席へ戻ろうとするとすでに諏訪は伝票を店員に渡してしまいカードで支払いを済ませてしまっていて、控えとカードがトレイに乗せられカウンター越しに返却されているところだった。男に奢られることなどはじめてのことではないが、その光景をみてしまいどきりとする。諏訪のとなりに戻りお礼を言うか、半分払うと申し出るか一瞬迷ったところ、奢らせてくれと頼まれたので、わたしができる精一杯の笑顔でお礼を言った。
 いくらか陽気なふたりは、次は水族館(な)(ね)。と、なぜだか話の流れで行こうとなった場所への約束を交わし、真反対の方向へ歩みを進めて別れた。諏訪がそれをちゃんと翌朝にも覚えているかはわからないし、なんにせよどこまで本気なのかということはさらにわからないことだった。水族館などは恋人と行くべき場所ではないのか。
 丁度自宅のオートロックを解除したところでスマホがメッセージの通知音を鳴らす。マナーモードにするのを忘れていた。ポケットに手を突っ込みちらとみると諏訪からであった。
『今日はありがとな。もっと一緒にいたかったけど、無事帰ったか? 嫌じゃなければ、また水族館の日程決めよう。おやすみ』。
 手から滑り落ちそうになった端末を必死に握り直して再度ポケットにしまい、部屋の鍵を開けた。


 Q:彼氏が喫煙者です。やめてと言っても隠れて吸います。禁煙させるにはどうしたらいいですか?
 A:喫煙習慣をやめるのはとても難しいことです。あなたにとってそれが譲れないことなのであれば喫煙者を選ばない、というのがいちばんです。

 アルバイト先の本屋に入荷してきた恋愛指南書の類をぺらぺらとめくり目に止まった質問と回答。
 ——いやだから、喫煙者をすきになった場合はどうすればいいのか。そりゃ、婚活ならばそういうことも可能だろうが一般的な恋愛は事故だ。時間も場所も人も選べない。

 著者のコメントは続く。

 あなたの前で煙草を吸わないのであればそれはあなたのことを思ってのこと。彼としてもかなり譲歩していますし、努力されていますよ。そこを信頼してみてもいいのではないでしょうか?

 ——ん?
 そういえば、と昨晩のことを巻き戻しのようにしてそのシーンを探してみるが、見つからないのだった。