店内にいる客のほとんどが煙草を口に挟んでいる。この店は全席喫煙可の店で、私も諏訪も、その点をよく気に入っていた。
 ベーコンとほうれん草のクリームパスタがテーブルに運ばれてくると、諏訪は言葉もろくに発さずにあっというまに完食してしまった。店内の掛け時計は午後4時前をさしていたが、目の前に座っている彼は、まだ一食もご飯を食べていなかったのだそうだ。
「吸わねえの?」
 そう尋ねながら彼は濃い色のジーンズのポケットからジッポとピースを無造作に取りだして煙草に火をつけた。ちなみに、ジッポは私がプレゼントしたものではないし、ピースを吸う大学生を諏訪の他には知らない。
「今はいい」
 ふうん、と煙を吐き出すように相槌を打つと今度は本当に煙を吐いた。私は諏訪の食事が終わりそうな頃合いをみはからって注文したアイスコーヒーのストローを咥えて一口すすった。
「そういえば、彼氏はどうなったんだよ」
「……別れた」
「あっそ」
「自分から話をふっといて『あっそ』とは何よ」
 諏訪が言った“彼氏”というのは、今年の成人式で昔実家があった場所に帰省したときに出会って付き合い、そしてついこの間別れた男のことで、いわゆる遠距離恋愛だった。数ヶ月前に「おめーに遠距離なんぞ無理に決まってんだろ」とため息を吐いたのは今目の前にいる彼だったことを思い出して、とたんに居心地が悪くなって窓の外に目をやった。
 迅にもため息をつかれた。「なにも、そっちを選ばなくても」と。では、そっちではない、こっちがあるのだな、と考え至ったが、それ以上迅には尋ねなかった。
 闘う私を知らない男の人と喋りたかった。露骨な同情や過剰な賞賛をくれない男の人と触れ合いたかった。かわいい女の子でいられる時間がかがやいて見えた。ただ、それだけなのだ。現実から離れられる時間。それが今回たまたま男女関係にあらわれただけで、逃げ場を求めていただけなのかもしれないと、今は思う。結局、全力で寄りかかれない場所なんて、理解をし合えない環境なんて、あってもなくても、たいして変わらないのだ。そんな場所は、ないのとおんなじだった。
 あの日、今日と同じように私の目の前で煙草をふかしていた諏訪の目が「おめーのことなんてまるっと理解してんだからな」。そう訴えているように見えた私は、一体諏訪に何を求めているのだろう。何を求められているのだろう。諏訪の描こうとしているものが、私には目を凝らしても見えないし、そもそも私は見るつもりがないのかもしれない。


 あ、やばい。と思った時にはすでに遅くて、左腕が吹っ飛んでいた。反射的にシールドをはって体勢を整えようとしたけど間に合わず、心臓部にも食らった。
 ぼんやりと天井を仰ぐ。
 下からの突き上げをひしひしと感じる。さきほど私をおとした少年の年齢と自分の年齢との差を指折り数えてみると、ぐう、と、痛むわけのない心臓が痛んだ。
「よお。個人戦してたろ。めずらしいな」
「まあ……うん」
 本部ラウンジでパソコンを広げてレポートを書いている私の目の前の席に、承諾も取らずに諏訪が腰をおろした。両手に持っていたアイスコーヒーのひとつを私のほうに押しやる。
「ありがとう」
「おー」
 諏訪はポケットから手を出さず、体を前のめりにしてストローでちろちろとコーヒーを吸った。行儀が悪いなあ。とは思ったけど、おごってもらった手前、今日のところは黙っておくことにする。
「換装体っつーのがあって、よかったなと思うよ」
「何をいまさら」
「だってもし、お前が腕もなくぼろぼろになって帰ってきたら、耐えらんねーからな」
「まあ、そうだね?」
 発言の意図がわからなくて間の抜けた相槌しか打ちようがない。
「助けられなかったことを、すんげー悔やむと思う」
「……そうね?」
 諏訪がそういった状態になって私の目の前に現れたら「どうして誰も助けてくれなかったの」と、自分ではないだれかを責めるだろう。「どうしてそんな危険なことをしたの」と、諏訪を責めるだろう。私は自分が助ける側にまわれるとは思えない。
「だからなんつーか、助けてと言える距離にいるときには、ちゃんと言っといてくれ」
「はあ」
「なんかよくわからんけどしんどい、とかな」
 この人は私のことを心配してくれているのだ。
 けっしてもともと察しのいい人ではないけれど、それを自覚しているからこそ取りこぼさないように人をよく観察しているのだ。私のここ最近の、自分でもはっきりとした原因を把握できていない不安定さもどこからか滲み出ていたのだろう。
「うん、ありがとう。みんなにも諏訪を頼れと言っとくわ」
「だから、うーん、そうじゃなくてよ……」
 そう、だからこそ私は諏訪を頼れない。みんなに不器用な愛を渡す人。自分にだけその気持ちが向けばいいのに、と、考えたことがないといえばうそになる。その思いが強いか弱いかという問題はさておき、考えたことはあるけど、そこが諏訪のよさなのだから、それがなくなったら意味がないよな。と、帰結したのだった。それなら私は、そんな諏訪を陰ながら支えられればいいと思った。でも、それを果たして諏訪が求めているのかどうかは、わからなかった。
「他の奴はさ、もちろん俺でもいいけど、別に他のだれかが助けてくれたらそれで全然いい。でも、おまえのことは俺が助けたい。そりゃ、それがかなわないときもあるかもしんねーけど……」
「……それじゃ、よくわかんない」
 からん、とアイスコーヒーの氷が音を立てる。手にまとわりつく水滴を感じながら、ストローで吸い上げて言葉の続きを待つけれど、諏訪は口を一文字に結んで考え込んでしまった。
 いつになく真剣な表情の諏訪の目から伝わるものはもちろんあったけど、ちゃんと言葉にしてくれなくては、堂々と独り占めできないじゃない。みんなの諏訪さんを。


 作戦室に向かう道すがら、前からこちらに歩いてくる迅にねぎらいの言葉をかけた。それに応える迅も、私も足を止めずすれ違ったが、「ストップストップ、ちょっと待った!」と、迅が私を呼び止めたので振り返った。
「確定した未来じゃないし、おぼろげだからこそあえてアドバイスしときたいことがあるんですけど、いいですか?」
「オーケー、どうぞ」
「おれは、狙撃手に向いてると思いますよ!」
 じゃ! と、片手をあげて去る迅の背中を見送りながら頭をかく。ーーやはり今は私のボーダー隊員人生の分岐点なのだろうか。

 大講義室から風間がほかの学生に紛れながら退出しようとしているのを見つけたけれど、少し私からは距離があった。風間の身長は周囲の学生より圧倒的に低いので一度見失うと追いかけるのはむずかしい。というわけで名前を叫ぶことで足を止めてもらった。カツカレーをご提供する代わりに進路相談に乗ってほしい旨を伝えると、風間は少し、でも確実に口元をゆるませたので、食堂へと移動した。
「狙撃手に転向か」
 ちょうどお昼時の食堂は混雑していたので席を取ってしばらく列が退くのを待つことにしようと提案し、話を切り出した。風間はとくに驚いた様子を見せなかった。
「諏訪には話したのか」
「いや、とくには」
「彼氏が彼女の今後の身の振り方を相談されないというのはいかがなものなのだろうか」
「待って。付き合ってないから」
「そうだったのか? しょうがない……いや、しょうもない男だな」
 とくに私と諏訪の関係は進展も後退もしていなかった。諏訪は結局、私に何も言わなかったからだ。あのまま私が情報を補完して恋人気取りでもしておけばよかったのだろうか。いや、どう考えてもあそこで一歩踏み込んでこなかった諏訪が悪い。というよりも、諏訪は踏み込まない程度の関係性を望んでいたということではないか。正解は不明だけれど、今の関係が不正解だとも思わなかった。
「ただ、お前の悩みの根本はどこだ? 闘うということに疲れているんじゃないのかと正直思っていた」
「わからない。成長が止まっている自分にいらいらして、ひとりですねているだけかも。それならば心機一転と思って」
「自分のことはよく理解できていないようだが、俯瞰的に多角的に物事をみることができるのがお前の長所だ。もしそれが前に出て闘うことで100パーセント活かされていないと感じているのであれば転向には賛成する」
 ためらうことなく風間の口から出てきた私の”長所”が、こそばゆい。その長所はそれこそ風間にあるものだろう、とほめ返したい気持ちをぐっと抑える。
「語弊がないように言っておくが、お前が現場における直接的な戦闘において足手まといになっている、というネガティブな理由ではない。現にこれまで一緒についた防衛任務で俺の足を引っ張ったことはないからな」
 言葉を発しなかった私が余計なことを考えているのだと思ったのだろうか、風間は私が口を開く前にさらに言葉をつないだ。
「風間も気をつかえるんだ」
「素直に受け取ってくれ」
 不服そうな風間が腕を組んでいまだ連なる列に目をやったのを見て、次の行動をお知らせする。
「じゃ、本部に寺島と諏訪迎えに行って、玉狛で木崎のカツカレー食べよー!」
「おい。お前がおごるんじゃないのか」
「食べれればいいでしょ? もうみんなに連絡済みだから」
 ポケットから取り出したスマホの画面を風間の目の前に差し出すと、呆れた顔をして席を立った。


 あの日、迅がおぼろげに視た私の未来のひとつはきっと、通信室で私が死ぬところだったのだろう。それをかろうじて回避できたのは、多分、迅のおかげだ。どれほど神に近い能力をもっていても、わざわざ助言をした相手を切り捨てられるほど迅は人を捨ててはいない。
 結局あの日から数ヶ月後、私は狙撃手ではなくオペレーターに転向した。いろんな人にもらったのだ、わたしの価値を認めてくれる言葉を。その言葉に恥じることのない動きができそうな場所を、私は選んだだけだ。

 病室の扉を慎重にノックする音に「はい」と返事をする。扉の向こうには想像していたより健康そうな諏訪がいた。
「大丈夫……じゃ、ないよな」
「痛み止め効いてるから、まぁ、平気だよ」
 さすがに病室には煙草をくわえて来なかった諏訪の口元は少しさみしそうだった。遠慮がちに私のほうへ寄って来た諏訪はベッドの横に設置されているソファには腰掛けず、立ったままだ。
「いろいろ寺島から聞いたよ。諏訪を助けられる人材がいて、本当によかった」
「だから、お前は……なんで、」
 諏訪は私の状態をすでに誰かから聞いていただろうか。聞かずに来たのだろうか。人に尋ねる時間も惜しんで、ここまで自分の足で来てくれたのなら、そのほうがうれしいなと思った。
 通信室で意識を失う直前に浮かんだのはあなたの顔だと、意識を失う直前に呟いた言葉はあなたへ向けて発したのだと教えたら、諏訪はよろこぶだろうか。悲しむだろうか。悔いるだろうか。
「……なあ、俺、お前のことがすきだ。すきなんだよ」
 じっと私の左腕があったはずの場所を睨みつけて、枯れた声で絞り出すように、諏訪は言った。



 これといって私の日常生活に変化はなかった。
 ボーダー内でも上層部やA級隊員をのぞいて、C級隊員をはじめ、私と近い関係にない人間は私が左腕を失ったことを知らなかったし、大学の友人もそれに気がつかなかった。私が普段の生活を換装体で送っていたからだった。当然ずっとこのままでいられるわけがないことはわかっているけれど、私は三門市で過ごす日常であまり悲観的になることはない。おそらく、この終わりが見えない闘いに終わりがあるとするのなら、その時には欠損のある人間に対してこういった技術が応用されることもあるだろう。今の私のよき理解者だといえる那須ちゃんの研究もきっとその一環にちがいない。
 ボーダー基地内の通信室に私の職場はあったし、大学の定期試験も他の学生とともに受けた。ただ、中央オペレーターでの基礎訓練後にどこかの隊に所属したい、という希望は叶いそうになかった。上層部がそれを望まなかった。私が先日の大規模侵攻において左腕を欠損したことを隊員や一般市民のメンタルを考慮して知られたくないのだ。『死者が出た』という文字を読むより、左腕のない人間を目の当たりにするほうが人間、恐怖を覚えるものだろう。いくら私が基地内を換装体で過ごそうとも、その化けの皮が剥がされてしまうきっかけがいつどこに転がっているかはわからないから、しかたがない。
 私以外のその他大勢を優先するような意思決定をする上層部がいることをよく理解してもなお、私はボーダーを辞める選択をしなかった。どこからどこまでの記憶を、どのように封印されたり改ざんされたりするかがわからない以上、これまでの21年間の一部の記憶が変わってしまうことを恐れた。そして、何よりも諏訪と、そしてみんなとすべてを共有できなくなることを恐怖に感じた。
 諏訪は、辞めてしまえと言った。風間は、お前の意思を尊重すると言った。木崎はできる限りのフォローをしたいと言った。寺島はトリガーを持ち運びしやすいよう首から下げられるようにしてくれた。迅は私の前に姿を見せなかったけれど、そのすべてが少しの曇りもなく、私のことを思って選んだ言動だということを、私はよく理解していた。



 かちゃ、という音がして玄関のほうを見る。誰がそこから入ってくるのかはわかっていたけれど、だからこそそれを毎度確かめずにはいられない。
「おかえり」
「おー、って、おい、だから包丁持つなって。ってか換装といてねーし!」
「あ、忘れてた」
 今は換装しているので両腕だが、私が片腕で包丁を扱うのが気に入らないらしい諏訪は手を使わず靴を脱ぎ、上着を廊下に放り投げ私を押しのけてキッチンに立った。
 変化といえば、これだった。
 当然のように「おかえり」と言って出迎えたが、私と諏訪は一緒に暮らしているわけではない。ただ、退院以来定期的に諏訪は合鍵を使って私の部屋を訪れる。もともとバカではない諏訪の家事力は飛躍的に向上し、私があれこれ教える必要はすぐになくなった。やれたのに、やらなかっただけなのだ。
 あえてハンデを負った女をこれから選ぶというのは、正直馬鹿げていると思った。それでは諏訪のためにならないと思った。私は諏訪に、せめて日常において普通のしあわせを感じて欲しいと思った。私の世話を焼き、スキンシップをとることが同情なら、いらなかった。そうは思っても私は諏訪の行動を断ることはできない。うれしいからだ。安心するからだ。私が欲しかったものだったからだ。同情だというのならそれを利用してもいいとすら思った。「哀れんですきだと言ったなら取り消していいよ」とチャンスをくれてやったことがあるけれど、諏訪は否定する代わりに私を抱きしめ、口付けたのだった。
 ふいに背後から両腕で抱きつくと、案の定にんじんを千切りしていた手を止めてしまう。私から諏訪に触れたのはおそらくはじめてのことだ。不器用な諏訪は動きを止めてしまうだろうと想定していた。
「ばっ……危ねーだろ! つか換装早くとけって」
 ずっとそれじゃあトリオン回復しねーし。とぶつぶつ言う諏訪に構わずさらにきつく抱きしめる。
「だって、片腕じゃ抱きしめられないから」
「いいんだよ! その分俺が抱きしめてやんだから!」
「だって、見た目だって、」
 振り返り、私の頬をつねる諏訪の顔を見て泣きそうになる。諏訪のその、笑った顔が一等すきなのだ。誰にでも同じように見せる顔だけれど、こうして独り占めできるのなら、それでいい。その顔が私はすきなのだ。
「バカ。俺だけしか本当のお前に触れられないんだろ? そりゃ、最高じゃねーかよ」