一本目
いわゆる春一番というやつだろうか。ビル街を強烈な風が抜けていった。オフィスビル併設の青空喫煙所もそのあおりを受け、ビービーと風が音を立てて砂や灰を巻き上げる。自分の挟んでいた煙草からも灰が追い風で飛ばされていき、目の前の女性の淡いブルーのコートに着地した。昼時の喫煙所は、パーソナルスペースをじゅうぶんに確保できないほどには混雑している。
「あ、すんません。コートに、灰が」
彼女に俺が触れたという迷惑な感触が残らないように、さっと生地を撫でたが、逆にグレーの模様をつけてしまった。
「えっ、あ、すみません」
驚いて振り返った彼女に再度背を向けてくれるように頼み、灰を手でつまむようにして払うと、彼女はこちらへ向き直って申し訳なさそうに頭を下げた。
自社の人間だとは思っていなかったが、案の定知らない顔の女だった。休日ではないにしても化粧は薄い類だったので、営業ではないんだろう、と思った。失礼なことを言っているとは思わない。統計学だ。
「風、強いっすね」
ですねえ、と彼女はのんびりと相槌を打った。
シルバーの縦長灰皿に貼り付けられた『喫煙所閉鎖のお知らせ』の用紙が、ビラビラ揺れてその存在をアピールしている。
「ここの喫煙所も、閉めちゃうんですね」
「時代っすね」
喫煙者の肩身は年々狭さを増していく。ルールを守って節度のある喫煙ライフを送っている人間にしてみれば、まったくおもしろくないことだった。
ビルの周囲の地図を思い描いても、徒歩三分圏内に喫煙所がある場所は出てこない。ここが閉じられたなら、内勤の合間に吸える可能性は、ゼロだな。
「では、お先です」
彼女はさきほどと同じように頭を動かしたので、煙草を持っていないほうの手を上げて見送った。
二本目
もともと帰宅ラッシュ時の駅前喫煙所は、通勤時間帯の通勤電車のごとく満員だが、ビル街の喫煙所がのきなみ閉鎖されたことで、ますます利用者は増えているようだった。
営業先からオフィスの最寄り駅まで戻ってきて、ぼんやりと喫煙所に設置されているデジタルサイネージを眺めていた。ふと入り口付近に見覚えのある淡いブルーのコートが目に入る。ビジネス街でその色は、よく目立つ。
「今、帰りですか」
わざわざ声をかけるまでもなかったが、喫煙所に入ってくる人数が増えるごとに彼女は奥へ奥へと移動してきて、ついに俺のすぐ横まで来ていた。
彼女が俺のことを覚えている、という確証はどこにもなかった。ただ、仮に忘れていたとしても、覚えている風を装ってくれるような性格をしていそうだな、という偏見はあった。それに、もし記憶されていた場合、このまま知らぬふりを決め込むことは避けたかった。
「……ああ、どうも!」
期待どおりのリアクションをとってくれた彼女は、肩をすくめて煙を吐いた。このあいだの灰の人ですね? と、完全には自信を持てていなかったことを示すので、努めて害のない人間を装うように笑顔をつくった。
「本日もお疲れさまでした、と言いたいところなんですが、わたしはこれから、原稿取りに行かなくちゃいけなくて」
「これから? 大変っすね」
原稿。どこかのオフィスの内勤かと思えば、うちの隣のビル一棟まるっとそうである、出版社の編集者か。あそこのビルは俺ら並みに遅くまで煌々と明かりがついている。
かくいう俺も、また十分歩いてオフィスに戻り、たまっている書類を片付けなくてはならないわけだが。
「原稿といっても、小説じゃないんですよ。今担当してるのが、イラストの描き方の本なんですけど。先生、何十回電話しても出ないから、自宅に乗り込みます」
居留守使われそうですけど、と彼女は灰皿に煙草を投げ入れる。
「というわけで、行ってきまーす」
「いってらっしゃい」
片手を上げたついでに見送る言葉をかけたが、すでに手刀を振り回していた彼女に届いていたかはわからなかった。
三本目
ふたり入ればいっぱいになってしまう居酒屋の喫煙ルームは、中に人がいないことを確認してから入るようにしていた。
ちらと透明の窓を覗くと先客がいたので先にトイレに行こうとしたが、その顔に心当たりがあったので気を取り直して扉を開けることにした。
「会社の飲み会っすか」
煙草をくわえたまま、うんうん、と頷いて、俺にも同じことを尋ねたいであろう彼女に、自分もそうであることを告げる。
「テーブルで普通に吸えてた時代が懐かしいっすね」
「いや、ほんとにそうですよね」
彼女は灰皿にぐりぐりと執拗に煙草を押しつけて火を消している。そんなにしなくてもどうせ水の中に落とすのだから、と思うが、自宅では入念に消化しているのかもしれない。
「あ、そうだ。川沿いのテラス席のある小さいお店、知ってますか。あそこはいまだに吸えるんですよ」
「あー、赤い看板のところっすか」
「そう! 春は桜もきれいだし、おすすめです」
俺の返事を待たず、
「じゃ、お疲れさまです」
彼女は俺の正面を窮屈そうに通って、外に出て行った。
四本目
二十一時前に会社を出られたので、今日は上出来だと総括できる。連日一緒に終電に飛び乗っていた後輩の「飲み行きましょうよ!」という声を払いのけてしまうほどには、仕事から早急に距離を置きたい気分だった。
会社から駅までの道のりにいつのまにか、桜が咲きはじめている。いつもそこに間違いなく桜の木はあるのに、この時期だけ注目をあびるなんて、こいつらはそれでいいのだろうか。いや、そんな時期があるだけ幸せなんだろう。
通勤時、いつも目には入っていた川沿いの赤い看板の店の前に立つ。おそらく今日を逃したら、またしばらく来られない。勧められたものには接してみて、その後の会話のネタにするという、営業としての処世術が俺の背中を押すのだった。
「カウンター、どうぞ」
カウンター越しに声をかける男性につられて、男性の正面に座っていた女性がこちらを振り返った。
あ、と彼女は口を開けて、手に持っていた煙草を灰皿に立てかける。知り合いか、と男性が尋ねて、彼女はきれいに眉根を寄せる。
「えーっと、うちの近くのビルで働いてる……」
「諏訪です」
言い淀む彼女が続けたかったであろう名前を自分で引き取れば、
「諏訪さん!」
弾けるようなその声に、軽く会釈をする。
「ね、桜、きれいでしょう」
座っている席からのけ反り、テラス席から見える桜を指さす彼女に男性は、いつも見ちゃいないだろう、と呆れていた。
五本目
彼女と赤い看板の店で飲んだのは、多く見積もっても一時間程度だった。すでにかなり飲んでいた彼女は、眠たくなったと言ってひらひらと手を振りながら帰って行ったからだ。
新鮮な魚介類を使用した創作料理がメインの店であったこと、生ビールがサッポロ黒ラベルであったことに、好感をもった。店主も落ち着いているが気さく、そして博学な人で、かつての同僚で言えば、東さんのようなタイプだと表現するとわりとしっくりくる。彼が今どこで何をしているのか、ほんの少しだけ気になったが、とくにボーダーに属していた誰かに連絡をとることもしなかった。
その後、二度足を運んだが、桜がほとんど散ってしまうまで彼女に会うことは店ではもちろん、駅前の喫煙所でもなかった。
彼女はまるで風のような人だと思う。突風のようで、そよ風のようで、いまいちつかみどころがない。たった一時間の会話のうちにころころと変わる表情や声色は、どこか居心地がよかった。だからこそ、会う方法がわからない今の状況に、心がざわつき居心地が悪い。
例のごとく終電間際のオフィスでパソコンをシャットダウンし、ひとつため息をつく。帰り支度をしてオフィスの電気をぱちぱちと消す軽い音だけがオフィス内に響いた。
「諏訪さん」
風のように軽いその声が俺の名前を呼んだのは、エレベーターが一階へ着き、ビルの出入り口の扉を押し開けたところだった。
「わー、今帰りですか」
「はい。そっちも、ずいぶん遅いですね」
「今日、三冊入稿日重なってて。やっとやっつけたんですよ」
ああ、俺の手持ちのカードをいくら切っても勝てなかったのは、繁忙期だったからなのか。
徹夜は老体にこたえる、と笑う彼女に、そんなに歳でもないでしょう、と返しながらふたりで駅まで十分の道のりを歩く。いつもならもっと駅近のビルにしろよと悪態をつきたいその時間も、いまだどこかのオフィスからもれている光も、どこか浮かれているように感じた。
「ランチの早食いも仕事のうちとか言われるんですよー。休ませてほしー」
「おたがい大変っすね」
「まーでも、好きでやってるので、体力が続く限りはがんばりたいと思っているんですよ」
愚痴の共有が関係性を深めるというが、彼女の前向きな発言に戸惑う。そうだよな、ワーカホリックで、好きで残業をしている人間だって、いるのだ。
「ただ、女でこれだと、婚期を逃す。逃してる。どっかに行ってしまいました」
「それはまあ、男も同じようなところはありますよ」
「そうですかね」
「仕事に追われてると、捕まえてたはずの獲物をほかに掻っ攫われたり、ね」
「はーあ。それは、御愁傷さまでしたね」
大学三年生から六年間付き合っていた女は、彼女の同僚の男に取られた。
あなたがわたしを放っておくからだ、と彼女は怒っていたが、仕事のことを考える必要がないときは、いつでも繋がっていたがる彼女を第一優先事項として取り扱っていたつもりだった俺には、その言葉はただ腹立たしく、理解できなかった。だから、未練みたいな生臭いものはあまりない。
「今、彼氏はいるんですか」
そう問いかけると彼女は俺の顔を見て、曖昧に笑う。
あ、浮かれた時間が途切れてしまう。
反射的に視線を落として、シューズの靴紐の先を視界に入れる。
「いないと言ったら、口説いてもらえるんですか」
びゅう、とビルの合間を風がすり抜けていき、彼女の黒いライダースジャケットに付いているベルトをゆらす。
ゆっくり戻した視線の先には、小さく首をかしげてこちらを伺っている女がいた。恋愛の正しい、勝算のある手順、スピード感なんて、すっかり忘れてしまった。
「はい」
「……え? はい、なんですか?」
「はい。口説いてもいいっすか」
質問を返すと彼女は歩くのを止めてしまったので、そのまま進んでいた俺は振り返って数歩先から、彼女の姿を見る。
「えーっと……。では、お願いしても?」
自分の返答に納得がいっていない様子の彼女は首をひねりながら、ひとつに結んでいた髪の毛を触っている。
「今すぐそうしたいところだけど、また日を改めて」
俺が駅の方向を親指で指し示すと、彼女は、これから駆け込まなくてはならない電車の存在を思い出した。歩くことを再開した彼女は、自分のかばんの中身を漁りながら俺の隣に並んで、片手で名刺を差し出す。
会う方法を手に入れた今、それをどう活かすかを考えなくてはならない。ひとまず今日のところは、きちんと終電に彼女を乗せ家に帰らせ、布団にもぐらせることがマストだ。
まだ訝しんでいる空気を醸し出してくる彼女に気がつかないふりをして、ふたり、歩くスピードを早めた。