おとなの夢の国。現在滞在しているこの地は某テーマパークをなぞらえ、そう呼ばれることがあるらしい。
ジェットコースターや着ぐるみではなく、カジノをはじめとするギャンブルを嗜む場所なので〝おとなの〟という限定つきなのは理解できるけれど、あいにくわたしはテーマパークで遊んだ経験がないので共感のしようがない。
宿泊しているホテル──おそらくこの街のすべてのホテルがそうだけれど──のワンフロアでは昼夜問わずにポーカーやスロットができ、七月の日中、気温四十度に達していたこの街はそのギラギラとした太陽のように、日付が変わろうとも一睡もしない様子だった。
ホテルに宿泊していたレヴィと姐さん、そしてわたしにスクアーロから端末に任務延期の報せが入ったのは深夜一時をまわったころだった。
二時を目処に開始される予定だった任務だ。一時間前とは、土壇場で延期を決めたと言える。突如先方の動きに予期できなかった変更があったと考えるのが妥当だろう。それでも中止にしなかったということは、日を改めれば成功確率が上昇するということ。
スクアーロも同じホテルにいるのだから、そのへんの背景含め口頭で伝えに来てくれてもいいものを、作戦会議は今日の夕刻に設定された。せっかくの暇を楽しみたいのか、作戦としてはまだ心許ないところがあるのか。
医療班であるわたしには詳細はあまり重要なことではなかったりもする。任務開始に合わせて起きてはいたけれど、ホテル待機だから身支度などなにも整えちゃいない。髪の毛はオールバックで頭上にお団子をひとつつくってパジャマを着用したままで、いつもの医療セットをベッドサイドに置いていただけだ。姐さんに見られたら盛大にため息をつかれる。
リモコンを押して自動で開け放たれていくカーテンの隙間から窓の外を見下ろしたけれど、タクシーが数台停まり、足取りのおぼつかない女性を介抱している男性くらいしか確認できなかった。このホテルの周囲は比較的静かであるらしい。
わたしはもう一度ボタンに手をかけて、カーテンが閉まり切るより早く、ふたたびベッドにもぐりこんだ。
目が覚めたのは朝八時をまわろうとしているころだった。冷蔵庫から一本三ドル以上するぼったくりミネラルウォーターのボトルを取り出して口につける(ちなみにコーラは八ドルだった)。冷房が効きすぎていて、喉が渇いていた。
シャワーを浴びて髪を乾かしセットして、ホルターネックのワンピースに着替える。メイクを施し護身用のリボルバーを手に取ったけれど、薄い布切れに装備できる余地を見出せず、かなり楽観的に金庫にしまって部屋を出た。
どこまでも終わりのないように錯覚する長いコリドーを進んで目当ての部屋でルームキーをかざすと、ぴ、と警戒のカケラもない音をたててドアが開錠された。ホテルのルームキーは三部屋分すべて預かっている。そう毎回好き好んでドアを蹴飛ばしたり窓ガラスを蹴破ったりして目立ちたいわけではないのだ。
部屋の中央に備え付けられているベッドの上には、打ち上げられた鮫が転がっていた。バスローブを着たまま。
ふわり、とわたしもさっき使ったばかりの、ホテル備え付けシャンプーのシトラスの香りがした。わたしの髪の毛からではなく、ドアの横のユニットバスから香っていた。どうやら昨晩、もしくは今朝、スクアーロはシャワーを浴びたらしい。
任務前に香料の強いシャンプーやボディソープを使用することをスクアーロは好まない。とはいえ、皮脂の臭いも極力消したくはあるので、水だけで済ませるのが常だといつだか言っていた。そのスクアーロがシャンプーをしたということは、今回の任務は日単位で延期なのかもしれない。
ヒールがカーペットにめり込んで靴がたてる音は吸収される。そっと枕元に近づくと、スクアーロの顔にわたしがつくった影がうっすらとかかる。
まるで、眠りからさめないどこかのお姫さまのように儚げ。そんな言葉とは対極にある男に対して、明らかに不釣り合いなことを思った。わたしが箸が転がってもおもしろいハイスクールの女の子の感性をもっていたら、ゴロゴロと笑い転げまわっていたところだ。
幸か不幸かわたしはもうおとななので、その代わりにそっとスクアーロの頬にかかっている色素の薄い髪の束を人差し指で払う。繊細な絹のような髪の毛がさらりとシーツに落ちた。
癖毛に湿気は大敵である。その点、この地はドライでありがたい。日本の梅雨は最悪だった。夏はただ気温が高いだけでなく、じとじととまとわりつく暑さ。ふたりして髪の手入れには悩まされたものだった。スクアーロも意外と、そこそこ湿気を吸い込んでしまうタイプの髪質をしているから。
「……シャンプーしたてだぁ」
まぶたは落ちたまま、薄い唇だけが動いた。
ちらりと覗いた鋭い歯がネコのそれみたいにやけにかわいらしい。シャンプーしたてにつき触るんじゃねぇ、ということらしい。もとよりネコのように撫でまわすつもりはなかった。それこそネコみたいに噛みつかれるに決まっているからだ。
「なんだ、起きてたの」
と言いながらも、スクアーロは、わたしがドアに近づいた時点で人の気配を察することのできない腑抜けたマフィアではないことはわかっていた。なんなら、その人物がわたしであることも、スクアーロは把握できていたかもしれない。
「……寝てる」
唇が小さく開く。はて、この返答は寝言だとでも言うのだろうか。エレメンタリースクールの男の子じゃないんだから。
「食事でも行こうよ」
「二度寝する」
「一回起きてシャワーまで浴びてたら二度寝じゃないよね」
目を閉じたままのスクアーロは、「二度寝るには違いねぇだろ」と寝返りをうつ。
「食べてから寝たらいいじゃんか」
「……牛になっちまうんだろぉ」
食べてすぐ横になったら牛になる。昔、たらふく食べたあと即座にソファに沈んだボスに言ったことがある。怖いもの知らずだったわけではなく、条件反射的に、まるで父にそう毒づくように声が出たのだ。よく覚えていないけれど、わたしがボスといたのなら、どうせ近くにスクアーロもいたことだろう。
「あれって本来いい意味らしいから。横になってると消化にいいんだよ」
そっぽを向いてしまったスクアーロの表情は想像するほかない。ああ言えばこう言う、と眉根がきれいに寄せられたのではないだろうか。
「じゃあいいよ。レヴィ誘ってくるから。カジノも行ってくる。あと、なんか手近なショーも観てくる。あ、ちゃんとメイクもしたし服も悪くないし、姐さん同伴でも許されるかも。どっちにしようかなぁ」
ひと息でこれからのわたしの作戦を述べて、サイドテーブルに置いてあったミネラルウォーターのボトルをつかむ。そのまま大きく振りかぶったところで、もぞもぞと鮫にしては細長い図体がシーツを擦る。脚先で掬い上げられた、足元で丸まっていた布団がわたしの顔面に向かって飛んでくるのを見て目をつぶった。
「ショーは明日にまわせぇ。メシ食ってカジノでもポーカーでもドッグレースにでも賭けて、そしたら戻って寝る」
「あ、やっぱ任務結構延びるのね」顔前、両の手でキャッチした布団に吸い込まれる息がぬるい。「明日もオフかぁ」
ベッドから抜け出したスクアーロの気配を感じる。義手でないほうの、血の通った手がすれ違いざまにわたしの頭をいちど叩いた。
「……かわいくねぇ女」
それなら、よっぽどスクアーロはかわいい男だと思う。
わたしの言葉に、わざわざなんらかの言葉を返してしまっている時点で、こんなのは読めていた展開だった。スクアーロは、そういう男なのだった。
それでも、はじめてみずからの手で外科手術を成功させたことを、回復傾向にあるスクアーロをアジトの踊り場で見て認識したときのような。どこからか迷い込んできたネコに、ボスの食べこぼしをスクアーロとあげたときのような。じわじわと浮き上がってくる、ぬくい感情が存在感を示す。
「ちょっと待ってろぉ」
ぎゅう、と布団に顔を押し込んで、片手でまだつかんでいたボトルをきつく握る。クローゼットの扉のローラーが転がる音に続いて、かちゃかちゃとハンガーが音を立てている。
わたしはかわいげのひとかけらをいつも溢そうとしながら、やっぱり、怖くなって後退りする。わたしが引いた分、スクアーロは余白を埋めるように寄ってくる。隙間がなくなれば、またふたりゆっくりと距離をとる。そうやって、いつもくり返している。
わたしは、そして彼も、まだどうしても子どもで、それ以上におとなで、その先へと踏み出す覚悟はもてないのだ。