0杯目

雨のしらべ

 雨が降っている。
 梅雨に足をかけた6月の夜。防衛任務を終えたその足で、堤と諏訪は雑居ビルの二階に店舗のある居酒屋のカウンターで海鮮料理と日本酒を嗜んでいた。
 大学一年生の堤は浪人しておらず未成年だが、堤に年齢確認を行う店の人間は多くない。むしろいかにも大学生といった風貌の諏訪のほうが、身分証明書の提示を要求されるという。こちらも実際のところ大学二年生、二十歳の誕生日をおよそ二か月後に控えていた。しかし、そもそもアルコール×大学生の組み合わせはたとえ成人しておらずとも切っても切れないものであり、なおかつ実家で高校生の頃から家族と共に酒を楽しんでいるふたりにはほとんど法律はないものと同じだった。
 とはいってもボーダー隊員でもあるふたりは顔が割れている可能性があった。いろんな情報を組み合わせれば、彼らがまだ飲めない年齢であることは露見するものであるのではないか。あまり外で悪い噂をたてられたくはない。だから堤は諏訪の誘いをいちど確認した。外で飲んでもいいんですか、と。
 外では日本酒を飲めばいい。はたからみたら水飲んでんだか酒なんだかわかんねーだろ、というのが諏訪の持論であった。だったが、堤は店の人はわかるじゃないですか。と念を押した。結局のところ、諏訪が堤を連れてきたこの店は諏訪が家族共々懇意にしてもらっているということで融通がきくということだった。
 そこまでして俺と飲みたいんですか? と堤は思ったが、もちろん思っただけだった。べつに、自分と、というより諏訪がただ今日飲みたいのだろうということはわかっていたから。任務終わりに誘える人間が同じ隊の堤しか見当たらなかっただけのことだった。

「レインブーツって、かわいいと思わねえ?」
「……はい?」

 刺身の舟盛りをあらかたきれいにして、日本酒もグラスで三杯ほど全身に行き渡らせたころ、諏訪は堤に問いかけた。出入り口をちらと覗った諏訪の動きに堤が倣えば、店内の傘立てにビニール傘を順番に突き刺している女性陣のうちのひとりが、ゴム製のショートブーツを履いていた。

「ああいう女性がタイプなんですか?」

 諏訪は堤の疑問に、いや。とかぶりを振る。

「雨が降ってる、って、わざわざ靴箱からレインブーツを出してきて、履く女はかわいいと思わねーかって話だ」
「はあ……。そういうもんですかね」

 堤には諏訪の言わんとすることがわかるようでわからなかった。それならあの人もタイプなんじゃないのか。顔とかスタイルでなく、そういう、レインブーツをわざわざチョイスする思考として。それでも否定を示したということは、あの人ではなく、今思い描いているほかの、特定の女性がいるということだろう。それに、レインブーツを選択する女性は今時けっしてめずらしいものではない、と堤は思う。

「……でもよ、晴れた日にも履いてたんだよ 」
「まぁ、それは変わってますね」

 やっぱりだれか思い浮かべてるんですね。と言う代わりに、パンプス型のではないんですよね。と、堤は言葉を選んだ。堤が雨用の女性の履き物に知識があることに意外性を覚えた諏訪が煙草に火を灯しながら堤の横顔に視線を向けたので、基礎演のクラスの女子が話しているのを聞いたことがあります。念のために堤は補足をする。

「そ。そういう晴雨兼用みたいなんじゃなくて、よくあるブーツ型のやつ」

 英国王室御用達の伝統的な長靴のブランド名までも提示した諏訪も、それなりに知識はあるようだった。

「夕方から雨予報だったとか?」
「いや。その日も、次の日も、曇りですらなかった」

 へえ。
 聞いてますよというアピールをサボっても諏訪は話を続けるだろうとも思ったが、諏訪の吐き出した煙がのぼってゆくのを見ながらおちょこをくるりとまわして、堤は相槌を打つ。 

「ただ、その前の日は雨だったんだよ」
「じゃあ、昨日履いたやつをなんとなく履いちゃったんですかね」
「なんとなくでレインブーツ履かねえだろ」

 そういうもんですかね。
 また堤は同じようなリアクションをする。興味がないわけではない。ただあまり前のめりになったらなったで、諏訪は話しにくいのではないだろうか。と考え、気を遣っていた。雨粒の落ちる音、窓を叩く音くらいのスタンスが居心地がよいときもあるものだ。

「多分、家に帰ってねえんだよ。彼氏の家に泊まったとかだろ」
「あー、なるほど。でも、友達だってありえるのでは?」

 と、違う可能性を提示しつつ、諏訪には他にも判断要素があったのだろう、と堤は察する。まったく知らない相手ではなくて、ある程度交流のある人。一般論とか漠然とした趣味の話を装わないで、それならその人の顔写真でも見せてくれたほうがいいけど、と堤は好奇心を隠すように日本酒をあおった。

「諏訪さんがそういう話をするなんて、めずらしいですね」
「俺もなんでおめーに話したんだかわかんねぇよ」
「たまたま今、雨が降ってるからじゃないですかね」
「まぁ、それもそうだな」

 雨だから、と言ってひとつめの日本酒の銘柄を選んだのは諏訪だった。意外と情緒のわかる人なんですね。という褒め言葉か貶し言葉かわからない発言も、堤はしていなかった。









 防衛任務中に本格的に降り始めた雨が、地面にいくつか水溜りをつくっている。
 本格的に梅雨入りをしたと、基地内のラウンジのテレビモニターにうつるお天気お姉さんがにこにことして告げていた。農作物にはある程度よろこばしいことであろうが、一般的な人間にとっては迷惑な話をそんな表情でされてもな、と堤はホットコーヒーを缶からすすりながら、少しだけ鬱陶しく感じた。
 雨の日の任務はやはり生身が濡れていないとはいってもあまり心地のよいものではない。濡れているという感覚はちゃんとあるからだ。まさか傘をさすわけにも、レインコートを着用するわけにもいかない。しいていえば靴は常時撥水加工はされている。だから、ちょっと寝てから行くわ、と換装をといた太刀川があくびをするのを、太刀川が今日大学に足を踏み入れる可能性が0であることを察していても、堤も諏訪も阻止することはなかった。ワアワアと引きずっていく気力がなかったのだ。太刀川の単位など彼らにはほとんどどうでもよかった。諏訪と堤が大学の校門にたどり着いたときにはスニーカーがぐっしょりとしていて、すっかり現実に引き戻されていた。

 堤がばさばさとビニールを弾いてボタンを留め切るのを待たずに、諏訪がひと足先に自動ドアをくぐる。ちょうど一限が終わったタイミングで、学生がラウンジにうようよしていた。じゃあ俺は第四講義室なんで、と堤が口を開こうとしたそのとき、

「あ、諏訪」

 女性のぼんやりとした声が聞こえて、堤と、名前を呼ばれた諏訪はその声のした方向を反射的に確認した。

 湿気でうねったのか少し乱れ、流れている前髪。高い位置でくくられたセミロングの後ろ髪。膝が見え隠れするホワイトのシャツワンピース。両腕で抱えたトートバッグ。そして、ふくらはぎを隠すブラックのレインブーツ。───堤は女を上から下までながめて、そのゴムに印字されている英語の確認も怠らなかった。

「来週レポート提出だって。出れなかったなら、内容教えとく?」

 そう言ってから、諏訪のとなりから離れない男に気がついた女は律儀に、堤に笑顔を向けた。後輩だと自身を紹介するであろう諏訪を堤は盗み見つつ、堤も同じように表情と挨拶を返す。そうして、想定どおりの説明をするバツの悪そうな顔に、堤はさらに破顔しそうになっていた。

 彼氏の家にふつうの靴は置いていないんですか?

 堤は、頭をかきながら女の抱えていたバッグから引っ張り出されたタブレットをのぞきこんでいる諏訪に代わって、そんな問いかけをしてみようかと一瞬頭によぎったが、窓に目をやって雨のしらべをきいていた。