まぶしい西日に、シャツにぶら下げていたサングラスを片手でかける。陽が落ちきるまでにはまだあったが今はその役目を果たしていない旧軍港に隣接した公園にはすでに人がまばらだった。
 子どもが遊ぶような遊具も少なく、海をながめられるベンチと灰皿、そして少し離れた場所で二軒の小さなカフェが営業していて、どちらかといえば大人が小休憩するに適している場所だ。カフェの手前の小さな広場で、四、五人の少人数でジャズが演奏されていた。セミの鳴き声と混じるその音に木陰のような避暑感を覚えた。
 そんな洒落た公園のベンチにその女はいた。それが、ミュールを脱ぎ置いてベンチの上で体操座りをして膝に顔を埋めていると来た。この空間には似つかわしくない様子だったがために、俺はその女に気が付いてしまった。
「何やってんだ」
「……碧棺くん」
 寝起きのようながさついた声を発したは俺に一瞥をくれることもなくそう言った。
 裸足になったのはベンチへの気遣いではなくシンプルに暑かったのであろう。公共のベンチに行儀悪く座ることが目的だというのなら大層気味の悪い女である。
「泣いてんのな」
「……泣いてない」
 のっそりと顔を上げ俺を見るからは確かに涙こそ伝ってはいなかったが、まとう空気感はまるで今年はすでに通り過ぎたはずの梅雨のようだった。レンズによってセピアに色調されがちの光景がそのはかなさを誇張している。
「なんでこんなところに」
「俺だって公園くらい来んだよ」
 本当にこの女は俺のことをよく知らないらしい。
 浮世離れした元軍人とチームを組んでいるからこのあたりから野営地へ向かう・待ち合わせ場所に指定するのかもしれない、なんて可能性に行き着かないほど察しの悪い馬鹿な女ではないはずだ。ただ単に、そのことを知らないから、想像できないのだ。






 同じバーの常連としてと俺は面識があった。
 はいつも歌うように誰かと喋っている。ざっくばらんに話をしていて人を軽口で笑わせることもあるが、けっして人を不快にするような言動はしない、節度のある店にとって害のない常連だ。
 大手メガネ屋のロジスティクスの仕事をしているらしく、カウンターに積み上げられていたクーポンを半ば押しつけられる形で店主から渡された。担当者を示すハンコにはとあり、それではじめて名前を知った。
 いつもひとりで飲みに来るのに、いつも誰かと話していたの相手が偶然俺になることがあってもまったく違和感はないことだったが、そうはならないと思っていた。は自分から初対面の人間に話しかけることはないようだったからだ。
 俺から話しかけることがなければその時は訪れないはずだったが、の存在を認識してから数か月、一席あけてカウンターに腰掛けていたに火を渡された。カウンターに無造作に置いてあるマッチを擦って、俺のほうへうんと腕をのばしてそれを差し出して来たのだった。
「俺はテメーの客じゃねえし、煙草もまだくわえちゃいねぇ」
「水商売には縁ないし、手持ち無沙汰だから擦ってみただけで」
 本当のことなのだろう。の左サイドには空のウイスキー瓶と水浸しのアイスペールが光を浴びていた。どうやらここはバーのくせにセルフサービスで飲んでいるらしい。今日の店内はやけに慌ただしく、のグラスはたっぷり汗をかいていた。中身がほとんど氷が溶けた水になってもは店主に気を遣って声をかけることを待っていたのだ。
「このまま燃やしてるのもあれだからもらってくださいよ」
 言いなりになるのはしゃくではあったが煙草の箱に手をかけ、一本取り出して口に挟んでその火に顔を近づける。
「あっつ! すぐにもらってくれないから! あっつ!」
「……知るかバカ」
 ふうふうと息を吐きかけ火を消すと文句を垂れながらグラスに手をひっつけるを横目に、「おいマスター、いい加減こっち来いや」と、煙を吐き出した。

 店主はアイスペールを下げじゃりじゃりと音を立てながら氷をすくい、グラスに手際よく足していく。そこに手を突っ込んで大きな塊を掴んで、ズボンの後ろポケットからハンカチを取り出して包んでに渡した。
「これで冷やしとけ」
「ありがとう。でも火傷とまではいかないよ」
「念のためだ」
 は受け取ると、それを大人しく右手の人差し指と親指でつまんでまじまじと見つめていた。
 灰皿に目を落として煙草を押し付けていると、ピリと首元に刺激が走ってハイチェアから飛び降りた。するりと背中を通過していく塊の感覚がたまらなく冷たく肩が上がる。コン、と床にたどり着いたそれの間抜けな音と、の笑い声が重なる。
「テッメェ、マジで何やってんだコラ!!」
 あははと笑い、いつの間にか俺の背後にいたは屈んで氷をひとつ拾い上げ灰皿に置いた。
「なんだかその声が聞こえると落ち着くなって、いつも思ってたんです」
「ハァ?」
 だから今日は近くで聴けてラッキー。
 そう言ってはひとつ隣の席へ戻り、店主がつくり終えていたジンジャーハイボールを口につけた。
 MAD TRIGGER CREWの──火貂組の──とは定型句を口にしなかった。それどころか「名前、なんていうんですか?」なんて、火照った頬を冷やすかのように両の手のひらで自分の顔を包み込みながら、俺に問いかけた。






 その時とは場所も意味合いも異なるが同じように両手で頬杖をついたまま「一度くらい離婚でも経験しておけばよかった」と、はこぼした。
「アァ? 結婚?」
「いや、離……まあ、結婚でいいや」
「ほう。結婚したとて離婚する未来しかみえねー、結婚不適合者の自覚があるわけだな」
「そーそー。結婚のチャンスは何度かあったね」
 それなりに整った顔とまあまあなスタイルで、コミュニケーション能力も高い女だ。本人のいうとおりに、恋愛においてさほど困ったという経験はなさそうだ。ひとりでバーに定期的に飲みに来る女。まあ、に結婚という儀式は優先すべきことではなかったのだろう。
「まだ若ぇだろうがよ」
 これからでも十分間に合うだろう、と砂を蹴れば次の言葉を明らかに言い淀む。
 続きを催促をするような野暮なことを俺はしない。そりゃあそうだ、コイツの弱音を聞くような親密な関係ではないからだ。夜にバーでたまに居合わせる、客同士。それ以上でも以下でもない。
「泣き止む予定あんのか」
「だからさぁ……」
 泣いていないと主張するこの馬鹿は、俺がかけているサングラスが自分の会社のモンだとも気がつきやしねえ。
 サックスの音色につられて煙のように消えそうな声でミュージカル映画の挿入歌を小さく歌う彼女の隣についに腰を下ろして、ポケットの中のジッポーを握った。






 夕刻、虫垂炎の手術をした舎弟の見舞いに来た病院でを見つけた。ある程度声を張り上げて呼ばなくては聞こえないくらいの距離感でお互いにその存在を認識し、その瞬間は進行方向を変えようと背中を向けた。反射的に追いかけようと床を何度か蹴ったが、が向かいたい先は生憎行き止まりで、は体の向きを戻し、観念したように胸の前で小さく手を振った。
「なんだ、お前、そういうことか」
「そういうことって何。勝手に殺そうとしないでね」
 ふたり並んで薬品のにおいのきつい病院から出てすぐに、
「再検査の結果異常なしだった」
 は固い表情でこれまでの経過を説明した。
 会社の健康診断で婦人科系の検査にひっかかり、先日再検査に行き、今日は結果を聞きに来たと。あの公園でたそがれていたときは再検査帰りだったそうだ。
「というわけで、またお店で会おうね」
「死ぬかもと思って泣くくらいなら健康的な生活を送りやがれ」
「碧棺くんだって、自分がそうだとしても煙草も酒もやめないでしょ」
 互いのこれからの目的地を尋ねていなかったことに気がつき確認する。スーパーに寄って帰ると生活感あふれる予定を俺に教える。
 碧棺くんは、と問われる番かと身構えたが、「ほら、弱みを見せると一気に仲が深まったりするじゃない」と、話の流れと噛み合わない話がはじまり、開けかけていた口を結ぶ。
「自分が誰かに大きな影響を与えられると驕ってるわけじゃないけど、嫌な思い出になったら申し訳なくて、話せなかった」
 だから、そばにいてもらえたこと、うれしかった。
 交差点の信号で立ち止まっては俺を見て笑う。オレンジと紫が水彩画のように滲んで空を彩り、それを背景にその表情は際立つようだった。
「なんだ、俺がお前に情けをかけると思ったのか」
「いや、なんか、もっとこう……」
 唇をきゅっと噛み締めてから、「碧棺くんはヤクザだって聞いた。身の安全が人より保証されてないでしょ。なんか、想像力豊かに自分自身の未来の不安定さと重ねられても困るなと」。
 そう言ってこじんまりとした小さな顔を傾げた。
「多少我儘に、欲しいものは欲しいと言いなね。碧棺くんのそばにいることを望む人は、覚悟があるはずだから」
「人に頼らなかったテメーに言われたかねぇな」
 ぱっと色が切り替わったことにが先に気が付いて俺の半歩前を歩きはじめる。

 くるりと踊るように振り返った女は「あっ、これ、うちのじゃん」、シャツの胸ポケットに突っ込んでいたサングラスを片手で引っこ抜き、両手でかけた。
「左馬刻、夜ご飯つくってよ」
「……距離感の詰め方が雑って言われねぇ?」
「否定しないということは、いいってことね」
「人の話を聞けや」
 公園で口ずさんでいた歌を今日はミュージカル女優さながら身振り手振りをつけて歌い歩いていく。