サマー・フェスティバル



 宿題が出たのに古文の教科書を忘れた。友だちに必要なページの写真を撮って送ってもらえば済む話でもあったけれど、靴を履く前だったのでおとなしく降りて来た階段をまたのぼって、廊下を引き返す。
 人のつくる波を逆流しながら教室のドアを引いたら、シャツのボタンをはずして、腹筋がちらりとのぞいている穂刈くんと村上くんがわたしを見た。
「えっ!?!? ちょっ、ごめん!!!」
 空になった教室とはいえ無防備に着替えをしていたことを穂刈くんは飄々と謝罪して、もう下は着替え終わってるからさ、と村上くんが入って大丈夫だと手招きする。
 いやいや、だとしても大丈夫なんだろうか。そんなわたしの心配をよそにふたりは平然とTシャツに腕を通しているので、わたしも自分の机を目指すことにする。なんでわたしだけ照れてるんだよ。腹筋、ふたりとも割れてたな。
「えっと、なんでお着替え中?」
「野球部の練習に出させてもらうんだ」
「はい? 野球部? なんで?」
 もう彼らのお腹や背中は見えていないけれど、なんだか気恥ずかしく俯きがちに自席の椅子を引く。
 村上くんが言うにはボーダー内に野球部が設立されたという。それで、うちのクラスのボーダー隊員である穂刈くん・村上くん・水上くん・カゲくんは全員所属することになったそうだ。
 穂刈くんと村上くんのふたりがそういった専門外の活動にも熱心なのはとてもよく理解できるけれど、水上くんとカゲくんも、というのはちょっと驚くし、笑える。だからといって彼らはふたりみたいに、わざわざ学校の野球部の練習には参加しないよね。それはわかる。
「試合とかするってことだよね?」
「そういうことになると思うよ」
「ふぅん。甲子園みたいに応援団とかあるの? 鳴り物的な」
「聞かないな。そういう話は」
 机にスクールバッグを落として、引き出しの中をのぞき込んでお目当ての教科書を探す。視界の端で穂刈くんと村上くんが羽織ろうとしている学校指定のジャージがゆれている。
「何か楽器できるの?」
「あ、うん。ラッパ吹ける」
 屈んだまま、口の前でぴらぴらと指を動かしてみる。トランペットとかペットというよりは、ラッパといったほうが楽器に精通していない相手には伝わるものだ。
 初耳だ、と穂刈くんが制服を鞄に突っ込みながらほんとうに意外そうな声色で言う。そうだろうか? 体育会系か文化系かといえば間違いなく後者の顔をわたしはしていると思うのだけれど。それに、わざわざ自分の趣味について話すタイミングがあるほど、穂刈くんとの関係が深くて長いかというと、そんなこともないかなと思う。
 中学時代は吹奏楽部に所属していた。女ばかりの吹奏楽部の上下関係、そして横の関係は、いいときはいいのだけれど、悪いときのそれは目も当てられないものなのだ。と、彼らに説明してもいまいち理解は得られそうにない。
「高校ではやらなかったけどさ、甲子園で吹いてみたかったなあ」
 取り立てて野球というものが好きな訳ではないけれど、甲子園とまでは言わずとも、高校野球の応援に、ちょっと行ってみたかった。
 炎天下に楽器をさらすのはかわいそうだけれど、汗で髪の毛や洋服をぐしょぐしょにするのもいやだけれど、それでもあの場にしかない熱量と感動が確実にそこにはあるはずだった。
 でも、同時におかしな話だなとも思っていた。吹奏楽部にだって、甲子園のような目指す場所があって、予選を夏にやっているのだ。そしてそれこそが甲子園に感ずる熱の集う場所だろう。それなのに、練習の合間に、練習を中断して、他の部の応援に行かされるなんて、どういうことなの? と。
 そんな、長年の疑問をぼんやり述べながら、教科書を引っ張り出す。
「もちろん大きい高校ならさ、一軍二軍ってわけるんだろうけど………いや、そうか、甲子園に行くような高校はだいたいそうだろうから、いいのか」
 一年生のときは野球部の応援に行って、二、三年生はコンクールの選抜メンバーに選ばれる人生だったら最高だったなー!
 机に手をかけて立ち上がれば、ふたりともジャージに袖を通してしまって制服も見当たらない。もう仕舞っているのだ。どうにも彼らはわたし待ちのようだ、ということを察してしまって急いでカバンに教科書を突っ込んだ。
「吹いてないのか。もう」
「じつは、市の楽団に入ってるんだよ」
 好きな楽器で好きな音楽ができるのは楽しい。定期演奏会やショッピングセンターでの演奏といった目標もある。落ち着いた大人たちとの時間は和やかで、ときに厳しくもあり、学びもある。充実していた。
「初耳だな。それも」
「今日はそれこそ楽団の練習なんだ」
 じゃあ急がないとね、と村上くんが微笑みながら言うのを合図に、穂刈くんはカバンを肩にかける。
 それが当然かのように3人並んで歩いて。下駄箱でそれぞれこれから待つ練習に対して激励の言葉を掛け合って。そうして、手をふって別れた。なんだかとっても高校生、という感じがした。
 毎日、あっても数ページの誤差の同じ範囲の勉強を重ねる仲間と同じ時間を同じ場所で共有して、共通言語ができて、高め合って、ぶつかって、励まし合って。そんな積み重ねが懐かしく、そしてそれを手放したことを少しだけ惜しく思った。どうしてだろう。高校生活も三年目にして、たいへん今更な、不思議な感情だった。


「あってもいいと言っていた。応援団」
 穂刈くんと村上くんが野球部の練習に、わたしが市民楽団の練習に参加した翌朝。穂刈くんはわたしが教室に入って来るのを見るなりずかずかと寄ってきて、そう告げた。
「そうなんだ。ボーダーに楽器できる人いるの? すごい偏見だけどみんな体育会系っぽいよね」
 応援団はあるのか、と昨日問いかけたのはわたしだけれど、あったとしても、ふぅん。だし、なかったとしても、ふぅん。な程度の話だった。現に昨日もだいたいそんな感じでその話は終わっていたはずだ。
 そういう話なのに、なんで穂刈くんはちょっとうれしそうなんだろう。それを本人に問いかけようとしたら、
「吹かないか?」
「えっ?」
「吹きたいんじゃないのか?」
 呆然としてしまう。
 そうか、穂刈くんは自分がうれしいのではなくて、わたしがよろこぶのではないかと想像して、そんな雰囲気を醸し出していたのか。
「でもわたし、ボーダーの人じゃないけど?」
「市民とのいい関係を築きたいらしい。これを機に」
「………わざわざ確認してくれたの?」
「会っただけだ。たまたま担当者と」
 まさか、練習のあとボーダー基地に出向いたというのだろうか。
「そっか」
 村上くんと校門の前で会って三年の教室が並ぶ階まで一緒に上がって来たけれど、ボーダー関係の伝達があると他のクラスに入ってった。廊下で、「昨日、ふたりとも夜まで練習させてもらったんだ」。
 そう言って村上くんが笑ってたことを、どうしてか穂刈くんには言えなかった。


 見晴らしのよい市民球場の応援席の一角に構えた応援団。甲子園の吹奏楽部総動員スタイルではなくて、プロ野球の私設応援団スタイル。わたしを含めた3人のラッパ、それに太鼓。まあ、即席ではこんなもんでしょう。
 ひとまず中学時代にみんな吹いたことがあるアフリカン・シンフォニーとエル・クンバンチェロ(これがそこそこ様になるだけのレベルの部活をしていたことはほめられたい)だけは用意した。でも、高校野球のあの迫力には遠く及ばない。とりあえずラッパだけでそれなりに見せるなら、プロ野球を参考にしたほうがいいだろうなあ。
「あれ、穂刈くん?」
 君がいるべきは応援席ではなくて、応援される側のいるグラウンドやベンチだろう。ユニフォームに身を包んだ穂刈くんは片手を上げてわたしに挨拶する。左手に握っていたポカリスエットのペットボトルをふり投げれば、穂刈くんはその手で危なげもなくキャッチした。これはわたしのコントロールがよかったに違いない。
「あ、太鼓叩きたいの?」
「もう叩かせてもらった。じつは」
「えっ、早っ」
 穂刈くんが想像通り太鼓に興味を示したことも愉快だったけれど、わたしの知らぬまにそれをすでにやり遂げていたことにも、笑いがもれる。
 やりたいことはやってみる。穂刈くんはそんな簡単そうで難しいことを、当然のようにやってのける。うらやましい性格をしているのだ。
「応援歌、決めた?」
 高校一年生のときに「中間テストで学年トップ5に入ったら買ってあげる」という親からの条件を達成して手に入れた相棒を握る右手に力が入る。
 村上くんにも水上くんにもカゲくんにも同じ問いかけをした。そうして3人ともそろって「なんでもいい」と言った。やっぱり応援団なんて、いらなかったんじゃないかな。彼らにしてみれば、野球部の活動なんて本業じゃないもの。
「悩むな。正直」
 4人目になる言葉を穂刈くんが発さなかったことに、ぐっと口角が上がる。
 決まってなくてもいい。そういう言い方をしてくれるだけでも、安心した。ぶっきらぼうなようで、思いやりのあるところ。それがいまいち表情だけでは周囲に伝わらないのがもったいないなあ、と思う。
「そうねえ。じゃあ、Whiteberryの夏祭りとか、どう?」
「決めた。それに」 
「えっ? 大丈夫? 聴いたことある?」
 まさかの即決に、ポケットに手を入れてスマホをつかむ。YouTubeに上がっているだろうし、聴いてみて判断してもらおう。歌詞はちょっと切ないけど曲調自体は盛り上がると思うし、甲子園の定番曲でもあるし、プロ野球でも使われることもある。それになにより、お祭り大好き人間にはぴったりのタイトルだもの。まあ、おそらくそれが決め手なんだろうけど。
 そうしていそいそと片手で端末を操作するわたしの頭上にぼこ、と重みがはねる。
 うわ、わたし今、ポカリにポカリで叩かれた。瞬時に理解したシュールな状況と、なぜ叩かれなくてはならないのかという疑問を、わたしを見下げている穂刈くんに無言でぶつける。
「それがいい。おまえが選んだのが」
 わたしが選んだものがいい。それって、どういう意味。───って、そういう意味でしかないか。
 少し離れた座席に腰掛けて音出しをしているトランペットの音が、突き抜けてゆく。
「あのね、わたしが吹いてみたい曲は、なんでもいいって言った人のとこで吹くよ」
 サンバ・デ・ジャネイロとかジョックロックとかYou are スラッガーとか。全国レベル・大所帯の高校生の吹奏楽部のような演奏はできなくても、たくさん吹いてみたい曲はあった。
 なんとなく声をかける勇気が出なかった楽団の団長にも、ボーダーへの協力をあおいでみたっていい。わたしは楽団に不満なんてない。浮気しているんじゃない。ただ、これもやってみたかっただけなのだから。同級生と、彼らと、そう、穂刈くんと、何かを。
 今日の試合でウグイス嬢を務めるという嵐山隊の木虎藍さんの声が、ボーダー隊員の集合をかける声が場内にきれいに響く。
「でもね、穂刈くんのは、穂刈くんのためにわたしが、吹きたいよ」
「………わかった」
 なにがわかったんだろう。わたしもよくわかっていないのに。
 ねえ、穂刈くん。
 段差を降りて通路へ向かおうとする背中に呼び止めれば、ゆっくりと仏頂面がこちらをみる。ゆるい身体の熱が周囲の空気と入り混じるのがみえるような気がした。