ツンデレというワードが市民権を得て久しい。もはや死語に行き着いたともいえる。
さて、わたしはこの言葉およびそういった存在が好きではなかった。敵意:好意の割合は後者に全振りしていただいたほうが、ふつうに単純に全然有り難い。一部発言を訂正させていただくならば、けっして、いつもデレデレしてくれなくったっていい。良好な関係というのがかならずしも密接で濃い付き合いだというわけではないはずだ。
実際のところはなにを考えてるのかは知らないし、知りたくもなかったが、それでもへし切長谷部とか薬研藤四郎とか一期一振とかは扱いやすい部類であった。小夜左文字から毎度発せられる湿った発言を聞くたびにこちらもいちいち傷ついていたのだが、それが彼の平常運転だとわかってからは慣れた。
要するに、ツンとデレの割合がどうこう言いたいのではなく、みな、情緒を安定させていただきたかったのだ。ふたつも三つもキャラクター性はもたないでほしい。こうすればこうなる、というわかりやすい定型をわたしは望んだ。報告を受けたらまずありがとうと言うとか。金曜日はいつもカレーとか。決まりごとはわたしを安心させた。
今日はどのキャラですか、なんて恐る恐る開けてみなければわからないびっくり箱、みたいなのは身がもたない。それはわたしもそうだけれど、みなにとっても同じだろう。仕事仲間であり部下であり上司であり神であり人間であり。シンプルなようで複雑な関係性を円滑に円満に維持するためには、おたがいにそのほうが幸せにちがいなかった。
もしも伝えたいことが、発せられたものとはちがうところにあったとしたって、正確に伝えられないほうが悪いに決まっている。ちゃんと見せないほうが悪い。意図的に見せずにいるほうが悪い。察せられない、察しようと努力しなかったこちらの非ではない。棘のあることばや行動に、隠された本心があるなどと、だれが証明できるのだろうか。できるとすれば、それは本人だけだ。本人がそれを放棄する限り、わたしは吐かれたことだけを真に受ける。楽だからだ。送り手有利で、受け手不利。そんなのは馬鹿げているだろう。真意をはかりかねる時間は自分の胸をえぐろうとした。だから、考えることをやめた。
近づいたと思ったら離れてゆくのをただひたすら懲りずに追いかけ続けられるほど、わたしは愚かでも暇でもなかった。地をどれだけ駆けても月や太陽には追いつけないし、空にうんと手を伸ばしても星や雲には届かないのと同じようなこと。
息切らす背を慎重にさすった。潰されんばかりに握られた燃えるような手のひら。まるで見えているかのようにぽつぽつと未来を紡いだ。頬に遠慮がちに落とされたくちびる。そういったものをわたしに与えたならば、つねに与え続けてほしかったのである。その手や口は、いつも同様の使い方をしてほしかった。
ほうら、見ろ。
もう二度とわたしのために現れようもないはずだったのに、今更こうして花の束を律儀に抱えてやって来る。クロッカス、ピンポン菊、百合、スカビオサ。常識で慣習だと言ってしまえばそれまでだけれど。
まるで打ち捨てられた犬のよう。雨の日に傘をもたず、頭も下げずに突っ立っている姿は常識とはかけ離れている。
「……あんたは俺に、なにを期待していたんだ」
この期に及んで、呆れる。
できることならば、寸胴な石の前に佇むそれに吐き捨ててやりたかった。それはこっちの台詞だと。