年内ラストの日曜日、十七時前。デパートの九階、飲食店街のひとつの焼き鳥屋は忘年会シーズンとはいえ人も疎らだ。まだ夜とは言い難い時間だけれど、外はすっかり暗いのだろう。一時間前に自宅を出たときはすでに感傷に浸れる程度に陽がしずんでいた。
「お肉だし、赤?」
「固定観念に囚われるのはよくないね」
赤も飲むけれど食事よりも歯の着色に気を取られるから、あまり選ばない。鶏なら白もよく合うから───という一彰の進言もあり、シャルドネとソーヴィニヨン・ブランで乾杯した。大学のなんらかの飲み会で、一彰が掲げたワイングラスにグラスをぶつけたら、ワイングラスは音を立てないんだと叱られたのは最近のことのように思えるが、もう五年は前のことだ。
「ど? おいし?」
「うーん、湿地帯を駆ける馬の香りがするかな」
「なにそれ」
全然おいしそうじゃなくて、思わず顔をしかめる。せめてよく晴れた草原の香りであってくれ。
ソムリエはまずいともおいしいとも言わないものであり、感性豊かな表現でそれを表すのだと、いつだか蘊蓄を垂れたのは一彰だ。覚えているが、わざとおいしいかと尋ねるのがお約束になっている。
一彰と馬といえば芋づる式に思い浮かべる出来事がある。一彰(当時は王子くんと呼んでいた)は馬が好き、という話を小耳に挟み、本部基地で遭遇した一彰に、わたしも好きだよと声をかけたのは十八歳だか十九歳のころの話だ。一彰はさしてよろこぶ様子もなかったけれど、いくつかわたしに質問をした。
さんは普段どこへ行くの?───地方が多いよ!───頻度は?───やってるときは毎週行きたいところだけど、月一くらいは!───いつからやってるの?───未成年だし観てるだけだよ!
そうしてはたと気がついた。一彰は馬に乗ることがお好みだったのだ。いっぽうのわたしはお察しの通り、競走馬が好きだった。
最初からわかっていたのか、にこにこしている一彰に向かって頭を下げていれば、たまたま通りかかったギャンブラーの洸さん(当時は諏訪さんと呼んでいた)から、馬刺しはうまいよなと話をふられ、ぎょっとして一彰の顔色を伺った。
「乗るのと食べるのとでは、また別のよさがあるからね」
わたしの心配をよそに、あっけらかんと一彰は馬の肉を食べること、そしてそのおいしさを肯定した。家族でもよく食べることがある、と一彰は言い、わたしは食べたことがないと、その味を想像した。
この流れで、洸さんがわたしたちを馬肉を置いているお店へ連れて行ってくれた───ということはなかったが、なんと、それから一年ちょっとして、わたしたちが成人しお酒が飲めるようになった年に、思い出したように誘ってくれた。GⅠのある週はダメだよ、お馬さんを食べてはいけないよ、と根拠のない我儘を言うわたしに、ふたりとも予定を合わせてくれたのだった。
だから、そんな馬の比喩をここで一彰が使ったのかもしれないと思い当たったけど、ほんの数時間前に有馬記念をラストランに引退した推し馬のことを浮かべながらわたしはワイングラスをくるくるとゆらし、食事のメニューに目を落とすに留めた。
コース料理を食べるわけでもないし、なんとなく飲み屋街でだらだら飲食をするより、デパートという建物のなかは長居できない雰囲気を感じる。
そもそもわたしは明日も仕事で、まだ仕事を納めていなかった。根菜のサラダと塩の焼き鳥を五本ずつ。それからモツ煮をつついて、締めとして茶碗蒸しをオーダーした。
「銀杏は年の数以上食べたらいけないんだよ」
「それ、小さいころおばあちゃんに言われたなあ」
掘り当てた銀杏を口に運ぶ。食べすぎると成分的によくないらしく、規定量は五歳なら五個、二十歳なら二十個といった具合に、年齢が目安とされているらしい。炙って塩をかけて食べる銀杏は幼少期にも好んだおやつだったけれど、お酒を嗜むようになってからは一層好ましい。
「でも、三十個近く食べるかって言ったら、食べないよね」
「なんでもほどほどがいいってことだね」
「……そういえば、なんで今日は焼き鳥だったの?」
一彰がひとりでも行くという、それなりの格式のフレンチ以外に誘われたことに、わたしは実際驚いていた。
わたしがちょっと雑なお店を選んだら着いてきてはくれるけど、一彰チョイスにしては意外。それに、今週日曜日の夕方あたり出てこられる? なんて、数日前に連絡を寄越すというのもめずらしいことだった。締めまで食べてなにをいまさら、と言いたげな目線を一彰がくれる。
「焼き鳥が、というかさ。職場の異性とふたりきりで食事をするときは、デパートの中の飲食店がいいんだよね」
「……場所もわかりやすいしね?」
このデパートの地下一階には地下鉄の出入り口が繋がっている。雨が降っても直通だから安心だ。自他ともに認める方向音痴のわたしにとってもありがたい立地。迷いようがないのだ。
湯飲みに手を伸ばして視線を落とせば、端に同じように伸びるすらりとした指先がうつった。
「日付が変わる前にさっさと閉店だし、誰かに見られたとしても色気がないだろ?」
「まあ、たしかにわたしもよく使うけどさ」
わたしは一彰の同僚ではないんですけど。
すでに防衛機関としての機能はなくなったボーダーにわたしも一彰も現在所属しておらず、まったく関係のない仕事についている。
保険営業をしているわたしは、ひと回り、ふた回り以上年齢の離れた男性とお茶や食事を共にすることも多々ある。そうしてたまにその姿を知り合いに見られて、言われるのだ。
───あれは、旦那さん?
高校の友人。大学の友人。同僚。取引先の人。どうしてだか、わたしは誰といても、いつのまにか人の家の縁側に当然のようにくつろいでいるみたいに、しっくり来てしまう女らしかった。
「何で払っちゃうのよ。一彰の誕生日お祝いみたいなもんじゃん」
わたしが店内から離れたお手洗いへ行っている間に律儀に会計を済ませてしまった一彰に続いて、エスカレーターに乗った。一段下に立っている一彰の後頭部に向けて不満を表せば、少しだけ熱っぽい声が曇って返ってくる。
「なんだ、覚えてたのかい?」
「覚えてるよ!」
まったく忘れてはいなかった。連絡をもらって端末に表示されている日付を見て、ああ、一彰の誕生日ももうすぐだなあ、と思ったのだから。ただ、今日の乾杯の名目ははっきりとはしていなかったのも事実だったので無難に今年もお疲れさま、と発声したのだ。
くるりと振り返り、わたしを見上げる一彰の手が伸びてきて、反射的にぎゅうと目をつぶる。ふたたび開いた目の前には透明な屑をつまんだ指先があった。
「そのうち取れるかなって思っていたんだけど」
いつまでもくっついていて、おもしろかったから。
そう言って一彰は小さく声を出して笑った。おそらくは最後に店員さんが持ってきてくれた、あたたかいおしぼりを包んでいたビニールの端だろう。
気がついた瞬間に取ってよねと右手でチョップを食らわそうとしたら、華麗に避けられた。わたしの振るった弧月をひらりと交わしたいつかのランク戦の一彰の姿が重なり、言いようのない切なさが襲ってきて、しずかにひとつ息をはいて誤魔化した。
「ちょっと寄ってもいいかな?」
地下一階に降りるエスカレーターから片足を地面につけた一彰に、いいけど、と言い終わる前に一彰は駅の方向ではなく、小洒落たお菓子売り場のほうへと身を翻す。
角の洋菓子店の前で足を止めた一彰の横につかずに、わたしはその背中をながめた。けっして丸まることなく、すっと伸びている。わたしは一彰の後ろ姿こそが、きれいだと思う。
そんな考えをまるで見透かしたかのように、ねじられた背中が、一彰の顔をわたしに向ける。
───あの人、だれ?
一彰といるときだけは、そこは他人の家の縁側で、わたしはどうもその家の人ではないらしかった。
知人らは、わたしと一彰を友人とも恋人とも兄妹とも、なんとも確証の持てない違和感をもって認識した。それがどうしてだか、ついぞ答え合わせできることはなかったけれど、つまるところ“不釣り合い”だったのだろう。だから、デパートなんて、気を利かせて選んでくれなくったってよかった。そんな気遣いはわたしたちにはこの期に及んでも、不要なのに。
「婚約祝いってことで」
まばゆい照明の光に呼応するように、きらりと左の薬指にくっつくダイヤモンドが主張し、指先までちくりと痛んだような気がして自分の手のひらで左手の指先を握りこむ。
一彰が指さした、いくつかセットになったカヌレがていねいに梱包されていくのをぼんやりと見つめながら、わたしが言いそびれてしまった祝福の言葉が続くのを聞いていた。