春になったら三門を捨てる。
インターホンの液晶の中で「バルサン焚いてるあいだ部屋いさせて」と手を合わせたを見て、忘年会の帰りに彼女がそんなことをぼやいていたのを思い出した。
その頃の鼻先を突き刺すような寒さはもう感じられない。彼女が着用している黒縁のメガネとベージュのマスクに花粉と春の到来を改めて認識してオートロックの扉を開ける。
彼女が暮らすボーダー内の居住用エリアにも、まれに黒光りする害虫が出るのである。来る夏に向けて燻煙剤を焚いているというのであれば、三門を離れようというその話は形を持たずに霧散したのだろう。
部屋の前のチャイムが鳴らされてドアを開けると、おじゃまします、と茶色の紙袋を玄関に置いて靴を揃える。
彼女はなにも、アポなしでここまで来たわけではない。メッセージアプリに在宅を問う連絡はあり、俺も来ても構わないという意図で家にいることを返信していた。そういった気安さは大学生時代からの延長だ。ただ、大学を卒業してから十年弱のあいだに、羽目を外すようなことが減っていくのと比例してこの部屋を定期的に訪れるのはだけになっていた。
「用事があるときに合わせて焚くもんなんじゃねーの。つーかラウンジにでも実家にでもいりゃよかっただろ」
「スタバ買ってきてあげたからそんなこと言わず」
「そりゃどーも」
紙袋からテーブルに置かれたふたつのカップのラベルには【suwa】の記載がある。彼女のモバイルオーダーの名前にはなぜか俺の苗字が設定されているのだ。等価交換的に俺がオーダーするときは彼女の苗字になるのだが。
俺の苗字が書いてあるからといってどちらが俺用かの判断材料にはなり得ないのだが、は決まってコーヒーしか頼まないので、結局どちらでも中身は同じなのだった。片方を手に取るとまだあたたかく、口に寄せると湯気が鼻先をかすめた。
「それこそスタバにいればよかったろ」
もちろん、本心から言っているわけではない。なんならそういった幾多ある選択肢のなかから自分が選ばれることを心底心地よいとまで思っている。
「コーヒーはたくさんあっても席は埋まっているんだよ」
俺の部屋を図書館かなにかと勘違いしている彼女は、本棚を眺めながら言うと、いつだか途中まで読んでいた分厚い小説を引っこ抜いてソファに腰を落とした。
どこまで読んだか覚えてんのか、と問いたいところだが彼女は読み終えられなかった場合にはしっかり栞を挟み込んでいる。その目印が勝手に移動しないという信頼は俺への無遠慮な期待であり、俺はそれをわざわざ反故にしたくはなかった。
いつものように文庫本に視線を落とした彼女が、カップを手に取って口をつけひと口飲み込んだ。喉が微かに動くのを見ると、ふいにその細い首筋に両腕を巻きつけたくなるような衝動に駆られてしまい、ゆっくりとまぶたで視界を塞ぐ。
「春になったら三門を捨てようかな、なんて」
ぐるりと巻かれたマフラーの下で彼女が小さな声で言った。
「はあ? ……捨てるなんて大袈裟だな」
聞こえなかったことにしてもよかったが、車通りの多い大通りの喧騒のなかでわざわざ聞こえたのだから、俺は聞き取ってやったんだ、ということをアピールした。
「それくらいの覚悟を持って、ってことじゃん。そりゃあ、わたしがいなければ三門が壊滅する、なんてことはありえないよ」
少し声量が上がる。彼女も聞き取られるか取られないか、どちらでもよいと思っていたのだなとわかる。聞き取られたのならば、しっかりと会話をしようという意思表示だ。
「こないだ友だちと占いに行ったんだ。わたしは気合い入れて実家とか地元から出ないと、ダメになるタイプだって言われた。たしかにわたしって、いちど根付いた場所から動かないとこあるよね。大学も外に行かなかったし、ボーダーにも居付いちゃったし」
「なんじゃそりゃ。そんなもんに人生を委ねんなよ」
「一般的に、ひとり暮らししたことないとか、新卒から同じ会社で働いてるとかって、まあまあ気持ち悪いらしいね」
「価値観の問題だろ。自分と違う人間を受け入れられないだけで、逆もまた然りじゃねーの。てか、おめーはひとり暮らしはしてんだろ」
「ボーダー内だから実家からもあんまり離れてないし、微妙じゃない?」
転職については思い当たらないこともない。ボーダー外の友人たちのほとんどは新卒で入社した会社を辞めて転職している。そして、新卒で働き続けている転職先の社員たちを「ぬるい」などと評していることを。そしてフォローするように言われる。「ボーダーはそういうんじゃないからな」「公務員辞めようとはなかなかならないのと一緒で」「働く意義がめちゃくちゃあるしね」。
「正直、あと数年がんばればいいのかなって考えてた。一度乗りかかった船だし、最後まで尽くすのが当然だと思ったし。わたしが生まれ育ったのは三門なわけだし。だけど、もうわたしたち三十手前だよ? いつまでこの組織は存在する気なんだろう」
彼女にとっての、もちろん俺にとってもだが、ゴールはあちら側の国々との争いが終わること。在りし日の俺たちのように、少年少女たちが戦闘体で常時闘いに備えたり、闘う必要がなくなることだろう。残念ながら、彼女のいうところの「あと数年」のあいだにそれは叶わなかったのだが。
「……んなもん、目下の戦争がなくなったって外交的な意味で必要とされればいつまでも残るだろ。それに、園の受け皿として完全に失くすってわけにも」
そこまで言って俺は言葉を切る。彼女がそんな話をしたいわけではないことなんてわかっていたからだった。案の定、横を歩いている彼女を窺うと、ずるいねえ、と顎を上げてまつげを伏せた。
マスカラがついていないせいで、あの夜とくらべると細いまつげを見下ろす。
すぐになにもなかったかのように年末のお笑い番組の話をはじめたに甘えたが、小骨が喉に引っかかったままのような感覚があって、こうして思い出すのだ。でも、それもあと数回くり返せば、なにもなかったことになるだろう。
俺は彼女の隣にどさりと座る気には到底なれず、コーヒーを置いてベッドに寝転びスマホを掲げた。
執務室に併設されたロッカーの並んだ部屋で、のロッカーの扉が無防備に開いていた。ロックされていないことは日常だが、わざわざ開け放つほど非常識な女ではない。閉じてやるためにスチールの板を押そうとしたところ、中身がからっぽなことに気がついた。
会議室に入るとすでに風間が着席していて、こちらに視線をくれる。
「なあ、のロッカーってどっか移動した?」
世間話がてら問いかけて風間の隣の椅子の背を引くと
「……すごいな」
風間は感心したような表情でこちらを見上げている。
「……なんだよ」
感心しているように見えたのは錯覚で、どちらかといえば侮蔑に近いかもしれない。
「いよいよ察してやれなかったのかという呆れと、人の口に戸は立てられることもあるんだなという驚きが半々だ」
「あ?」
背もたれに片手を置いたまま風間を見下ろす。
「ならボーダーを辞めた。本当に耳に入っていないとはな」
「はあ? エイプリルフールならまだ数日先だぞ」
風間は押し黙って、同じ視線をくれ続けている。
「……マジで言ってんのか」
「清掃が入るとはいえ立つ鳥跡を濁さずというからね、と燻煙剤を焚いていたな。そのあいだにおまえにも挨拶に行くと言っていたはずだが」
「……いや、会いはしたけどよ、んなことはひと言も……」
言わなかった。
ただ、違ったことといえば、彼女は昨日、読み終わらなかった本を持って帰った。
珍しいな、とは思った。珍しいというより、ざっと記憶のピースをカゴからひっくり返しても、彼女に本を貸したシーンは見当たらなかった。それでも、俺は小説を借りたいと頼む彼女に、まるでいつもそうしているかのように肯定を返したのだ。俺にとってそれは違和感ではあれど危機感ではなかったから。或いは。
「の気持ちもわからなくもない。十年近くもなあなあな関係を続けていたんだ。会いに来てもらえただけ感謝すべきかもしれないな」
「おい、俺だけ悪ぃみたいな言い方だな。そもそもボーダーにいる分、長生きできる確率が他人より低いんだからそういうのはちょっと、って言ってたのはのほうだ」
「本当に一言一句そう言ったのか、が。だとしてそれを鵜呑みにしていたのが大馬鹿者なんだと言っているわけだが」
滔々と詰められているが、風間にそこまで言われる筋合いはない。
「今日には三門も出るらしいからな、もう手遅れだ。それに、いきなりいまから有給を取りたいと言われても困る。ああ、もちろんそんな度胸もないだろうから余計なことだったな」
んなこと言うならおめーが引き留めてやればよかっただろ、連れ戻したらいいだろ! と叫ぶ手前。会議室のドアが開錠される音で冷静さをかろうじて取り戻した。そして「引き留める」「連れ戻す」という選択肢だけが浮かんだことに寒気がした。
間伸びした後輩の挨拶に返しながら、俺から視線を外して手元の資料に目を落とした風間のつむじを睨む。
いまは焦燥感よりも眼前の男に対する怒りの感情のほうが大きい。前者を理解するとしたらそれはもうしばらく時間が経ってからなのだろう。彼女の不在を、彼女が存在した風景をふいになぞってしまったときに。
しかし同時に、咀嚼するより先にこの胸の内は凪いでしまうのではないかという気配もあった。そうやって長いこと、失くしたものとは折り合いをつけてきたからだ。そう、永遠に失われたものとは。
感情を逃すように背もたれに力を込めて突き放すと、誰も乗せていない椅子はくるりくるりとゆったりとした回転を始めた。座面は座るべき人間を呼ぶかのようにこちらを見続けている。