『さん、お疲れ様です。今日は出社ですか?』
『荒船さん、お疲れさまです。はい、出社しています』
『そろそろ出ますか?』
『そうですね、10分後くらいに』
社内チャットのふきだしの横に既読のマークがついたと思ったそばから、グッドマークが押された。わたしはデスクに広げていた『広辞苑』と『微生物大全』を重ねる。
新卒から勤めた出版社を辞めて職場を変えたのは2か月ほど前のお盆前のことで、前職に勤める友人から、あなたの職場に〈荒船〉という男性がいるのではないかと連絡があったのは2週間ほど前のランチタイムのことだった。
荒船。あらふね。 Arafune。そういえば社内でやりとりしているメールの宛先にいたような気もしなくもないけれど、わたしはまだ試用期間すら終えていない人間のため、あまりよく宛先を確認していなかった。
イントラネットで従業員100名ほどの組織図を展開するとリサーチ&デザイン部にその苗字はあり、荒船哲次さんというらしい。リードという役職についていて、ざっくりいえば、部の中でマネージャー、アシスタントマネージャーの次にえらい人だ。リサデのアシマネポジションはオープンになっているので、事実上二番手ということだ。
なるほど、わたしはコンテンツプロデュース部の校閲チーム――校閲といいながらメインの業務は校正だけれど――で仕事をしているので、市場・学術調査、実験・検証などを行なっているであろう彼との直接的なやりとりは今後もほとんど発生しなさそうではある。リサデはいつもわれわれチームのCCにチームのアドレスで入ってはいるけれど、わたしがなんらかのデータの矛盾などを指摘した場合、制作チームの担当者を通じてリサデに戻されるからだ。
確かに荒船哲次さんがいることを確認したことを返信すると『わたしの友だちの元同僚らしいから、今度4人で飲みにいこう』。
そうだとして、なんの理由にもなっていないと思うけれど、断る理由もなく今日にいたるのだった。
「さん」
デスクに広げていた数冊の書籍を本棚に戻していると、聞き慣れない男性の声に顔を上げる。
「えっ、あっ、はい」
ネイビーのスウェット生地のトップスの首周りに白いインナーがちらりとのぞいている。センタープレスの入ったスラックスにはシワがない。ブラックのコンバースのつま先がつるつるとしていた。
「荒船です」
それは、そうなんでしょうけれど。
ぱっと見たところ同世代だ。役職についているのだからいくらか年上だろうなという考えは安易だったことがわかる。
「あ、お疲れさまです。よくわかりましたね」
「コンプロなのは調べたし、フロアまで来ればわかるだろうなと思って」
それはそうだとは、思うんですが。
現地集合だとばかり思っていたので面食らっていた。
遠慮がちに刺さる周囲の視線がぱしぱしとかなり痛い。入社したばかりの子が、そこそこ偉い男性社員と出かけるのか。あの子は媚び売って出世希望なのか。じつはコネ入社だったのか。なんて詮索されているように思える。そういう気配や悪意の前兆のようなものに荒船さんは疎いのかもしれない。
やられたなあ、と思っていた横で荒船さんと会話していたわたしと同じチームの女性が大きな声で「えー! 共通のお友だちがいるんですねー! 四人で会うんだー! いいですねー! もー、みんなびっくりしちゃいますからねー!」とアピールしてくれて心の中で手を合わせた。
じゃあ行きますか、と荒船さんが首にかけていたセキュリティカードをドアの横にかざす。レザーのバッグを肩にかけ、愛想笑いをひっつけて、わたしはへこへこと頭を下げながらフロアを出た。
職場が駅直通のオフィスビルに入っているというのは非常にありがたい。今日のお店は地下鉄で1本、隣の駅のイタリアンで、荒船さんが予約をしてくれたときいている。
「そろそろ職場には慣れましたか」
帰宅ラッシュの電車で座席に座れることはまずない。わたしと荒船さんはふたり並んで優先席の前の吊り革に掴まった。
「仕事内容としては基本的にはスライドしているだけなんですけど、やっぱり環境変わるとどうしてもまだ不慣れと言わざるを得ないですね」
「前職は出版業界ですか」
この人もわたしの素性をわざわざ友人を通して聞かなかったのだなとわかる。
「はい。コンプロはみんなだいたいそのあたり出身ですよね」
新卒採用は不定期に行なっているようだけれど、この会社は基本的に中途採用者で運営されているのでみな他所でなにかしらのスペシャリストとして鍛えられている。
「とくに動画コンテンツは一回出しちゃうと修正しづらいからほんとに頼りにしています」
「紙はミスったら終わりだって身をもって知っているのでそのあたりは自覚という意味ではお任せください。まあでも、そのへんきびしく言われるのはうちではなく編集さんだったりしたんで申し訳なくはありましたけど。荒船さんは前職ではなにを?」
「私は広告代理店で営業をしていましたよ」
「え、ちょっと意外かもしれません」
「営業っぽくないですか」
「荒船さんのことまだよく存じ上げないので、荒船さんがどうっていうよりは、リサデにいそうな人たちのイメージとしてですけど」
うちの会社は雑に分けると、バックオフィス側の人間と演者側のふたつになる。後者はつまり動画に出演したり、広告に出たりしている人たちのことだ。彼らは会社の顔であるけれど、彼らにも演ずる以外の仕事はある。それこそその顔の広さを活かして営業に出ている人もいる。
演者のなかにもリサデに噛んでいる人はいるけれど、リサデメインで演者としてたまに出る、という人はいない。リサデはオフィスにこもって実験をしたり、どこかしらの研究室に出向いていたりとあまり表に出てこないで自分の専門分野内で活動している。
「ガンガン外でコミュニケーション取ってそうではないってことかな」
「語弊を恐れず言うとそういう感じですね。かくいうわたしも新卒のころは営業をしていたわけですけど」
「はは、ぽくないぽくない。似たもの同士だ」
似ている、と言われるのは悪い気はしないけれど荒船さんはintrovert派閥のなかでも気持ちextrovert 寄りなのではないだろうかと思う。わたしは間違いなくintrovertだけれども。
「あ。これ、観にいかないと」
吊り広告の列の中にひとつだけ温度感の低いポスターが混ざっている。黒でもなく、青でもなく、夜明け前みたいな群青。そこに、片脚のサックス奏者が立っている。片脚で立っているわけではなく、片脚を欠損しているのだ。
「結構話題になっていますよね。ジャズを題材にしたストーリーでしたっけ」
はい、とわたしは頷く。
「わたし、学生時代にサックスをやっていたので気になっているんです」
「主演の子、漫画原作の映画でゴリゴリアクションやってたよな」
「そうです。あの映画、よくある若手俳優ゴリ押し系かと思って映画館には行きませんでしたけど、配信で観たらなかなかクォリティ高くてびっくりしました」
「映画自体はよく観るんですか」
「うーん、好きな人よりは好きではないですけど、観ない人よりは観るって感じですかね。荒船さんは?」
「私はもっぱらアクション映画ですけど、映画好きが高じて広告代理店に入ったり、大学で映画研究会で脚本書いて制作もしていたくらいには好きです」
「えっ、なるほど。いわゆる好きをお仕事にされたタイプだったんですね」
「過去形にしないでくださいよ。いまも好きなことを仕事にしているつもりだよ」
困ったように荒船さんが笑うので、すみません言葉のあやです、とわたしは小さく頭を下げる。
「広告ってさ、嘘のバランス調整みたいな側面もあるから。そういうところにはたしかに疲れたんだろうとは思うよ」
窓ガラスに映る荒船さんと目が合ったように思う。さっと自分に視線を移すと光と影の影響で、ほうれい線がいつにもましてくっきりとしているように見えて思わず目をそらした。
「会社なので利益をあげる必要があるのは承知のうえで、ベースとして人を騙すような仕事に向かない人はいますよね。 それってべつに詐欺師とかいうわけじゃなくて、ニーズ問わず松竹梅のプランがあったときに松を選んでもらえるように誘導しなくてはならないとか、自分が思ってもいないことを言わねばならないみたいなことで」
「似たようなことをうちの代表にも言われたな」
荒船さんは懐かしむように言ってひとつ頷いた。
「仕事においては正直であれるほうが楽なことのほうが多いよな。もちろん、必要な嘘があることに理解はあるよ。その点さんなんかは、ひたすら正しいものを追い続けているわけだ」
「正解が用意されているものは照らし合わせればいいので。ただ、明確な正解がないものもありますから、なるたけ納得できるような条件付けであったりフォローをしたりする努力を怠らないのが大変ではあります」
大変だけれども、そこに重きを置きたくて転職をしたというのが大きい。流れ作業になりづらい環境を求めて、わたしはいまの職場を選んでいる。
「荒船さんもいまはそうじゃないですか。あなたであったり世間一般、過去の偉人が仮定したことを実験して反応を観測したりする。それがコンテンツに活かされる。とっても現実ベースです。もちろん、コンテンツに化ける段階では台本があるとしても、すべてが嘘ではないし」
そうですね、と言って荒船さんが笑ったと同時に、次の停車駅に到着するアナウンスが流れる。
「そういえば、私の友人は体調不良でこられないらしいです」
えっ。もっと先に言うタイミングがあっただろう、とつっこみを入れたくなったのを押し殺す。もしかして、荒船さんってとってもマイペースなのかもしれない。
電車が速度を落とし、窓の向こうに駅名の書かれた看板が通り過ぎていく。
「そうなんですね。荒船さんはお酒は結構飲みます?」
「乾杯でビール一杯飲んであとはハイボールとかですかね」
「同じ感じかもです。わたしはハイボールよりワインかなあ」
ぴんぽんぴんぽん、とドアが開いて人の間を縫ってホームに降りる。ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、とポケットのなかでスマートフォンが、そして左手首でスマートウォッチが数回振動した。さっと左腕に視線を落とすと、このあと合流予定の友人の名前と『ごめん、無理かも』のメッセージが表示されている。
「あ、待ってなんか、無理っぽいです、わたしの友人も。彼女の肩を持つわけではないですけど、彼女は編集さんで。彼女のことだから、校了日は避けていたと思うので、色校とかでなんかあったのかもしれない」
前を歩いていた荒船さんがこちらを振り返ったのを見て、柱に隠れるようにして立ち止まってスマートフォンからメッセージを確認する。
ぺらぺらと聞かれてもいないことをしゃべり続けてしまった。ふたりではない、と思っていたから大丈夫だったものが、とつぜん崩れてしまった。荒船さんのことがダメなわけではなくて、初対面、という環境がどうしても苦手なのだ。
「もし嫌じゃなければ、レイトショーに行きませんか」
「え?」
映画、と荒船さんは言い直した。
「4人からふたりになり、さらにコースの予約ではないしにしても席を予約をしていてお店には心象悪いと思うけど、お腹になにか入れて一杯ひっかける程度で満足したら、行きませんか」
わりとよく行ってるお店だからマスターは許してくれると思うしな、と荒船さんはゆっくりと言葉を繋いだ。
「それは、行きたいです」
ピピッ、とカードの読み取り音がリズミカルに鳴っている。突然、日常が非日常に切り替わったみたいだった。
「幻肢痛の描写がリアルだったな。演技力に感服した」
エスカレーターでわたしの後ろに立っている荒船さんの声が降ってくる。
運よく徒歩圏内にちょうどよい上映スケジュールの映画館があり、わたしと荒船さんはパスタとハンバーグとそれぞれビールを一杯だけ飲んでから映画館へと足を運んだ。荒船さんが言っていたとおり、マスターはいいよいいよまたおいで、と賑わっている店内に映える笑顔で無礼なわたしたちを咎めなかった。
金曜日のレイトショーだからなのか、映画の内容ゆえなのか、カップルのような二人組が多かったように思う。
「八重歯を矯正したことがあるんですけど、いまだに歯磨きするときに八重歯がある感覚がするんですよね。歯茎に歯ブラシを当てるときに少しためらいを感じるんです。八重歯があったときはよくそこが腫れていたから。そんな感じなのかもしれないなって思いました」
振り返って荒船さんを見上げてコメントを返す。ちょっと場違いなことを言ったかもしれないけれど、そういった個人の感想や解釈に対して荒船さんはあれこれ文句を言うタイプではないように思うので気にしすぎないことにする。
「なるほど。神経が繋がっていた、という意味ではほんとにそれに近いのかもしれないな。幻肢痛に悩んでいる人に会ったこともあるけどさ、実際に苦しんでいる場面をこの目で見たことはなかったから、自分で言っといてあれだけどリアルもクソもないか」
荒船さんはわたしの感想ではなく、たったいま自分が言ったことを否定していた。
「俺は三門市で生まれ育ったんだけど、そういえば見覚えある風景があった気がするんだよな、河川敷とか。ロケ地三門だったかも」
神奈川県の人が横浜出身です、兵庫県の人が神戸出身です、というように、おそらく彼らは三門市ですと言うのだろう。なんとなく、それをひた隠しにする人もいるのだろうなということにも思い当たった。
「……あれ、なんかどっかの部署の人も三門市出身じゃなかったですか」
「ずいぶんざっくりとした聞き方だな。でもそう、三門出身者は何人かいるよ」
点と点が繋がって、わたしは思わず手を打った。
「あ、だからなんだ。ボーダーとの関係もあるから、それでトリオン研究のコンテンツとかも多いんですね」
1階まで降りると天井から吊るされた案内板が、複数の路線の駅の方向を表示している。荒船さんはここから自宅まで歩いて帰ることができる、と食事をしていたときに言っていた。
「じゃあ、わたしはおそらくJRで帰るので……」
最速の帰り方を調べようと、いったん歩くのをやめて乗換案内のアプリを開くと運行情報のタブに赤いマークがついていて、嫌な予感がした。
「どうかした?」
「あ、いや、ううん、なんでもないです」
ひょっこりと荒船さんはわたしのスマートフォンを遠慮なく覗き込む。
「人身事故で止まっているのか」
複数の路線が真っ赤になっている。人身事故自体はどこかの路線1箇所で起こっているんだろうけれど、その結果直通運転している路線などが影響を受けている。
「いやー、そうみたいですね。でも振り替えでどうにかこうにか帰れそうでもあるので大丈夫でしょう」
「明日現場立ち会いなんじゃなかったか」
「あー、はい。でもお昼からですし」
荒船さんのいうとおり、明日は荒船さんのチームに帯同して現場の発言をチェックする役目を与えられている。荒船さんは来ないようだけれど、さすがに部下たちのスケジュールとそれに関わる人間のことは覚えているということだ。
ぱぱ、っと荒船さんは手元のスマートフォンを操作して小さく掲げた。
「ビジホ取るかタクるか、なんでもいいから使って」
手元の画面に電子決済アプリの通知がポップアップした。
「え、いやいや、そんな」
食事代も映画代もまとめて支払ってくれた荒船さんに、さすがにそれはほんとにうれしいですが違うので、とわたしは電子決済アプリを通じて半額を支払ったばかりだった。履歴を辿られたてしまったらしい。
「受け取りを拒否できる設定にしていなかったのが運の尽きだな」
そう言って荒船さんはいたずらっぽく笑った。
「あの、今日は気を遣ってくれたんですか。初対面でふたりきりで食事なんてかわいそうだから。映画はずっと黙っていられるから」
素直に今夜のすべてについてお礼を述べればいいものを、わたしはこのよっぽどミニシアターで上映されていてもぎりぎり文句は言えないような夜に、爪痕を残したい気持ちになっていた。
「私が観たいから誘ったんです。それ以上でも以下でもないですよ」
荒船さんはひらりと手を振って駅に背を向けた。
「じゃあ、気をつけて帰って。また来週」
なにがかはわからないけれども、完璧だ。
わたしは荒船さんの背中に、ありがとうございました、と頭を下げることしかできなかった。