絹の糸のような細い雨が降る程度では、彼のルーティンは崩せない。
荒船くんは毎朝5時に起きると、プロテインを飲んでからランニングに出かける。帰宅したらシャワーを浴びて、洗濯機をまわす。走り終わったころにわたしが起きると、白米と玄米を混ぜたご飯をお茶碗1杯と、作り置きしてある具沢山の豚汁をたっぷり彼がふたり分準備して、向かい合って食べる。
いつも変わらない朝が来るからこそ、些細な変化に気がつくことができる。変わらないという安定は安心であり信頼だ。
それを守るために、変わらないために、わたしたちは変わり続ける。
「俺はCopy thatとかAcknowledgedとかWilcoとか、アクション映画で聴いたものをわりと気に入ってよく使うんだよな」
荒船くんに話しかけられたのは会社併設の一階カフェテリアで、コーヒーメーカーがコーヒーを提供してくれるのを待っていたときだった。
朝一のぼんやりしているところいきなり話しかけられたら驚くなあ、せめて朝の挨拶からスタートしてほしいなあ、という感情を込めて一瞥すると、おはよう、と言った。遅い。おはようございます。
「もしかして、12海里のこと?」
と確認すれば、そうそう、とグルテンフリーのプロテインマフィン(個人的にはあまりおいしいとは思わない)を摘み上げながら肯定した。
わたしたちが勤めているのはデジタルコンテンツや教育プログラムの開発を行なっている会社で、おもに思考力・論理力・検証力を育てる教材・動画・アプリを展開している。わたしはほんの数か月前にこの会社に中途入社したばかりの新参者だけれども、彼はこの会社の草創期を支えたメンバーのひとりだということは先日の飲みの席で本人から聞いた。ついでに同い年だということも。
「俺は芸がなかったなと思って」
「芸ってそんな、大袈裟な」
コーヒーが8分目まで入ったカップに蓋をする。淹れます? と聞くとああ、と頷くので場所を譲る。ふんわりと石鹸が薫ってコーヒーのアロマと混じった。
了解と同じ読みをする領海、領海は12海里で設定されていることから、わたしは了解したことを社内チャットで伝えるときに『12海里』と返すことがある。もちろん、業務上や業務外でしっかり絡みがあったスタッフのみに限る。だから、この人に直接使ったことはまだない。
わたしはコンテンツプロデュース部内の校閲チームで仕事をしているので、彼の所属しているリサーチ&デザイン部とは直接的なやりとりがない。彼は市場・学術調査、実験・検証などを行なっているチームにいる。わたしがなんらかのデータの矛盾などを指摘した場合、制作チームの担当者を通じてリサデに戻されるので、長らく社内チャットやメールのカーボンコピー上のみの関係だった。
「Q……なんでしたっけ、QSL? を使っている人もいましたね」
用は済んだので自フロアにそそくさと戻ってもよかったのだけれど、もう少しコミュニケーションを取っておきたい気持ちもあった。わたしはバーカウンターに背中を預けて、彼の分のコーヒーが提供されるまで会話を続けることにした。彼とは出来うる限り親しくしておくに越したことはないと思われる。
「ああ、アマチュア無線とかでいうところの了解か。アプリ開発のとこのやつじゃなかったか」
「そうだったかも」
あいつだろうなー、と彼は顔が思い浮かんでいる様子だった。ごごごご、とコーヒーメーカーが豆を親の仇のごとく削っている音が騒々しい。
「でも12海里のほうが芸術点高いな」
「中学のころから使っているんですよ。暗号みたいでかっこいいって当時は盛り上がったけど、シンプルにダジャレだよね」
なんらかの分野において強みのある人間であったり、学力のバランスが高いラインで取れている人間であったりが集まっている会社なので、義務教育で習った用語であれば優秀なリベロさながらに拾ってもらえる。
こちらの興味の範囲外の訳のわからないことを言っている人がいても、本人に聞いたり、自分で調べたりする。わからないままにするような人はおそらくこの会社にはいない。知的好奇心旺盛な人間の集まりだからだ。
「知識レベルに大差ないというか、知ることを好む人間で構成された環境で働けているのはありがたいことなんだろうな」
「わたしもまさにそれに感謝していたところです」
コーヒーの抽出が完了したのを目視して、プラスチックの蓋を手渡す。ありがとう、とお礼を言うのを聞いて、どちらからともなくそろってエレベーターホールへ歩き出す。
「物事を知っているってことは、知らないよりはずっといいはずだよな」
「基本的にはそう思うかな」
「俺らの仕事としては知識を得てもらうことは大前提で、その先、なにか行動させないといけない。領海が12海里、約22.2キロであることを知っているだけじゃなくて、そうやって積極的になんらかの形でアウトプットしたくなるコンテンツをつくらないといけないなと思った次第」
「……たかがダジャレごときでそんなことを?」
思ったそばから口に出ていた。
グレーによどんだ海岸沿いに人影はまばらで、わたしがさしている晴雨兼用の折り畳み傘はよく目立っているだろうなと想像できる。
幸い打ち付けるような雨でもなく、短い距離なら傘がなくても耐えられる程度で風もほとんどない。実際、この浜辺で傘をさしているのはわたしだけだ。すでに海の向こうにはうっすらと明かりがさしていて、朝日がのぼろうとしているとしていることがわかる。わたしの真上を覆っている雨雲が過ぎ去ってしまえば、太陽は連なるオレンジ色の屋根を照らし、紺碧の海が一面に広がってくれそうだ。
アドリア海の真珠と呼ばれるこの地の通貨はクーナだったはずだけれど、いつのまにかユーロになっていて、原稿に赤字を入れながら自分の知識の偏りを痛感したのは1年ほど前のことだった。思い込みで校閲するような人間であっては絶対にならないと気を引き締め直したのは言うまでもない。
そのせいで国としての印象が強く残っていたからか、新婚旅行へ行くかとなったときにまず思いついたのがここだった。荒船くんに伝えると、そこで長くのんびり過ごすか、近場のヨーロッパをいくつか巡るかどっちがいいかと聞かれた。つまりは行き先に異論はないということらしかった。
ホテルの受付で念のために借りて来た、まだ濡れていない傘を持って砂浜に突っ立っているのはギャンブル要素が強かった。彼がここをランニングルートに設定すると言ったわけではなかったからだ。体感10分ほどぼうっとしていただろうか、砂浜と傘のあいだを走る坂道の遊歩道にふと人影が流れた。いつも彼が被っているキャップとトレーニングウェアをわたしはさすがに見間違わない。
彼はわたしに(というより傘に)気がついたのか、減速しながらキャップを取り首にまいていたスポーツタオルを解いて、洗いたての大型犬の水を切るくらい乱暴そうに髪の毛と顔を拭いていた。
「なにがあった」
わたしが傘を差し出す前に、彼が息を整える前に、彼はわたしの目を見据えて言った。
「なにってこともないけど」
「晴れているならまだしも、雨が降っていてわざわざ出てくるって、なにかあったからだろうと思って」
ほんとうに問題はないのか、と心配そうな表情に笑顔を返す。
「なにかないといけない?」
喧嘩をふっかけたわけではなく純粋な質問のつもりだったけれど、彼は早急に否定する必要性を感じたのか「いいや、まったく」首を振りながらわたしの右肩を叩いて「なにもなくてもそばにいられるようにしたんだから、まったくいらない」
荒船くんは言っても仕方がないからと、言葉にすることを勝手に諦めることはないと思う。ただ、そもそも言葉が足りないことはあるんじゃないかな――と、以前本人に言ってからは、こうして言葉を尽くすことを意識しているであろうところが誠実だと思う。
「走っているところ、見たことないなって思ったの。毎朝走っていることは知っているのに、そういえばそれを確かめたことがなかったな、行動に移さなかったなって」
そんな人間がいちばん近い距離にいるので、わたしも察してほしいなどといった甘ったれたことはしない――ようにしている。できる限り。可能な限り誤解のないように話をしたいと思っている。
へえ、と彼は納得したようにつぶやいてキャップを後ろ向きに被り直した。
「見学料はキス1回」
「えっ、それは、ぼったくりかもしれない」
「心外だな」
揶揄うように笑った顔がゆっくり近づいてきて、雨に濡れた唇が一瞬触れて離れた。
驚愕している。
外をふたりで歩くとき、手を繋ぐことはあるけれど、腕組みや過剰なボディタッチは好まない彼の言動だとは思えなかった。今日は格別に機嫌がいいのか(機嫌の上下が彼に露骨にあったことはわたしの知る限りほとんどないけれど)、これが異国の地に浮き足立つということなのか。そういうタイプだとはとても思えないけれど、いくつかの映画のロケ地にもなっている場所なので、テンションが上がるのも無理はないのかもしれない。
途端にわたしのほうが恥ずかしくなって、某アニメ映画の少年のように無言で長傘を突き出す。いまさら雨を避けたところで意味はないように思うけれど、彼はそれを受け取って開くとわたしに手渡して、入れ違いに手にしたわたしの小さな傘を折り畳んでしまった。
覚えてるかわからないけど、と彼は前置きをしながらわたしが持っていた長傘に持ち替える。記憶力には定評ありますよ、と答えるとひとつの傘の下にふたり一緒に入る形になった。
「雨の日でも会いたいって一心で迷いなく家を飛び出せるのが好きってことじゃない? って言っていたよな」
「わたしが?」
「そう」
「恋愛に対して一家言持っているタイプではあるけど、荒船くんの前で明確に宣言した記憶はないかもしれない」
「俺が直接言われたわけじゃなくて、社内の飲み会のときに言っていたのを聞いていたから」
見上げた顔はいつも通り端正で惚れぼれする。
「それは反則だ」
「だから、光栄なことだと思ってさ」
飼い慣らした猫のようにゆっくりと細められる目。
そうか、だから荒船くんは、ほんとうに、正真正銘、機嫌がいいのだ。
「そしたら、お願いをひとつ聞いてもらっちゃおうかな」
「なんだ、怖いこと言うなよ」
これから手を繋いでホテルの部屋まで帰ったら、シャワーを浴びる。それからふたりで朝ごはんを食べるためにホテルのレストランに行く。それが彼の、わたしたちのルーティンをなぞるのならば最適解だろう。
「もういっかい、キスして」
わたしよりよっぽど賢く、うんと顔の造形のいい男に対して、わたしは時に優位に立つことができることを知っている。
返事の代わりに影が落ちてくる。腰に回された腕に下半身がこわばった。さっきよりも長い口付けに思わず息がもれる。傘にしがみついていた水滴が振動で跳ね落ちるさまを目をつぶったまま想像した。
雨が降ろうと海外に場所を変えようとも、いつもと変わらないことをふたりで毎朝こなしていくことをわたしは幸福だと感じている。それは絶対に嘘じゃないと森羅万象の神々に誓うことができる。
それでも、背徳や優越にも似たよろこびを感じてしまうのを許してほしい。わたしが彼のペースを少しばかり乱すことができる、ほとんど唯一の存在なのだということに。