沈んでいく太陽を横から見たところで、それが横なのかはわからない。上なのか下なのか左なのか右なのか。
「何を考え込んでいるんだ」
 わたしは傾けていた首を元に戻して、脚を動かすことに集中する。
「いや、ぜんぜん。ただ、草むしりかあ、と思って」
 縁石と歩道の隙間を縫うように生えている雑草を横目に、大学の正門前で嵐山くんに声をかけてきたボーダーの人が話していたことを思い出す。今週末に、ボーダーでは警戒区域内の草むしり大会が開催されるらしい。
「一時帰宅して自宅や道路に雑草が生い茂ってたら落胆するだろう。防衛任務中にも抜いたりとか、ゴミを拾ったりするけど、一回試しにイベント的にデカくやっとくか、ってなったんだよ」
「その大義名分はもちろん知っているよ。嵐山隊が清掃活動をしている写真も広報誌で見たことあるし」
 ボーダー隊員、とりわけ広報部隊が汗水垂らす姿を見せることは必要だ。換装体は発汗しないのだとしても。
「ただ、さっきの人も草むしりするってことだよね」
「二宮さん? それはもちろん。ボーダーの人だからね」
「あの人がやるところを想像したら、おもしろくなってしまって」
「へえ」
 嵐山くんは目を丸くして
「二宮さんのことはバカにできるんだな」
 感心したように言った。
「バカにしているつもりはないけど……いやまあバカにはしているのかもしれないけど……いややっぱりそんなことはないよ」
「二宮さん、とてつもなく美形だと思わなかったか?」
「もちろん思った。だからこそあの人に屈伸運動をさせて草をむしらせる光景がおかしいと思うんじゃん」
 顔面の造形美という点では嵐山くんも負けていないだろう。でも、二宮さんとはどこか違う。もちろんわたしが二宮さんのことをなにもしらないからでもあるけれど、嵐山くんの美しさというのはその気概や肩書きからも構成されている。
「ちなみに二宮さんは雪が降れば雪だるまをつくるよ」
「それは……本人的にはブランディングとかないんだね」
 はは、と嵐山くんは笑って、そのまま次の話題は発されずに唇は引結ばれた。
「三門市のヒーローは大変だ。草にゴミに、なんでも拾っちゃうんだから。そのうち、嵐山くんの両手は塞がってしまうんじゃないの」
 嵐山くんとこうしてふたりでいると、牢獄のような沈黙がたまに訪れることがある。わたしは堪え性がないのですぐこうして次のネタを探して逃げ出す。
 雑草、路上のゴミ、市民の不安。彼はいろんなものを拾っている。精神的負荷もあるだろうし、時間的拘束もあるだろう。今日も、嵐山くんが出られなかったときの講義のノートを貸した。
 なにかを手放さないと新しいなにかは手に入らないというけれど、彼は手放したものと同等のものを得られているのだろうか。一度拾ったものをため込まず必要な時に捨てているのだろうか。
「他人事みたいに言われるのは心外だな」
 冷たい声色に肩が強張る。
「そんなつもりは……」
 ある。
 嵐山准は三門市のヒーローでありアイドルであり息子だ。嵐山くんに対して当事者意識をもつことは難しい。
 嵐山くんの言うことに賛成。嵐山がそう言うならそうなんだろう。
 そうやってみんな嵐山くんを担いで神輿に乗せる。
「前は対等に物を言ってくれたのにな」
 驚いて思わず、え、と声が出た。
 思い当たることはひとつしかなかった。ふたつもみっつもよっつも、あるはずがない。
 あれ以来嵐山くんはそのことに一度だって触れてこなかったのに。
 迂闊だった。嵐山くんに少しでも心を許してしまっているような素振りを見せたことが。
「……もう、言えるわけがないよ」
 基礎演習のグループワークで、嵐山くんがいるグループの議論はだいたい盛り上がらない。盛り上がる、というのは、テンションの問題ではない。白熱した建設的な討論が行われるか否かということだ。
 嵐山くんが発言すると、その内容を持ち上げて終わる。嵐山くんもにこにこ笑って、じゃあそういうことで、と収束させてしまう。それは天才的なリーダーシップではなくて、怠慢だ。
 嵐山くんにとって大学の講義というのは、ボーダーよりプライオリティが低く、早く終わらせてしまいたいものだったのだろう。もちろん、かならずしも嵐山くんが不真面目だというわけではない。モチベーションの低い人間にやる気を出させるような作業を無駄だと打ち捨てているのだ。
 そして、それはほかの怠けた学生にとって好都合だった。講義はバイトより、飲み会より、デートより優先されるべきものではないから。
 こんなのは時間の無駄じゃないかと、わたしは言った。かなり冗談めかしたふうに言ったつもりだった。
 数秒の沈黙のあと「そうだよな。みんな、本当に他に意見はないか?」と嵐山くんが笑うまでの白けた空気を味わうのは二度と御免だった。
「まあたしかに、塞がってしまったら困るよな」
 そう言いながらわたしの動揺をよそに、嵐山くんはペースを変えずに歩いている。自分から話を振っておいて、話を元に戻すのか。
 その瞬間、わたしは足をとられてつんのめった。
 準備していたかのように素早く片腕を掴まれて、わたしは両掌を擦りむくことはなかった。でも、わたしは腕にかかっている嵐山くんの力に怯えた。
 ――どうしてこんなことを。
 わたしはコンクリートの段差につま先をひっかけたり、勝手につまずいたのではない。嵐山くんが自分の右脚をわたしの進行方向を阻むように突き出して、わたしはその脚に引っかかったのだ。足首にスニーカーの硬さが残像のように残っている。
「両手が塞がってしまうと、こういうときに好きな女性を助けられないから困る」
「……それは、そうかもしれない」
 一向に離される気配のない手に、わたしは逃げ場を失う。自分の頬がどんどん上気していくのがわかる。夕陽の赤さと同化したかもしれない。
「自分は嵐山准の世界のモブです、みたいな顔、よくできるよな。なんでその女性が自分だとは考えられないんだ。俺の世界を揺るがしたのはきみだろう」
 同時に鳥肌がたちそうなほど冷たく汗をかいていた。まるでインフルエンザに罹ったようだった。
「あの日もこうやって無理にでも捕まえていればよかった。でも、ムカつかなかったわけでもないから。そういうのは言わないお約束だろって正直思ったし」
 嵐山くんは足元の小石を蹴る。
「謝ったり誤解を解いたり怒ったり感謝したり、なにかしらその話をするべきだったけど、ずっと触れてこなかった。だって、言ったらまた逃げるだろうから」
 あの日、教授が講義の終わりを告げた瞬間、わたしは教室を飛び出した。そして、翌週の基礎演習からわたしは孤立した。すごい、大学生になってまでこんなことがあるのか、と驚いた。
 それでも嵐山准は嵐山准らしく、わたしに対しての対応を変えなかった。いじめられっ子を庇うヒーローのように過剰にとりなすことなく、あくまでもこれまで通りを続けた。だから、まわりもわたしに対して空けた距離を多少は詰めざるを得なくなった。
 そんな距離感を続けた結果としては、あの時点より嵐山くんと接触する機会は増えていた。
 だからといってわたしたちの関係性が深まったわけではない。わたしはずっとこうやって、静かに嵐山くんに監視されているのだと感じていた。もう二度と余計な口をきかぬように、と。
「……嵐山くん」
 おそるおそる名前を呼ぶと、わたしの腕を掴む力が呼応するように一段強くなった。
「ちょっと待って」
 訴えも虚しくこれみよがしに引かれた腕は幸い千切れることはなく、ただ、鍛えられた嵐山くんの胸に顔面をぶつけた。
「もう待たない」
 愛だとか憎しみだとか。それはこの際どうだってよかった。ずっと目を背けてきたけれど、背中にまわされた嵐山くんの腕はよく知る人間のそれと同じだったのだ。