三限をめざして乗車した大学へ向かうバスが停留所でドアを開くと、視界の端でポニーテールとピアスがゆれた。一瞬見間違いかと思ったが、見間違うはずもなく、その女はだった。
今停車している場所はの住まいからはほど遠いという事実を知っていたから疑った。そんな先入観がある程度には昔馴染みだ。
ステップを登りきってからは通路を進まずにくるりと登って来たほうへと向き直り、少し屈む。キャリーカートを引っ張り上げて運転席の真後ろの優先席の横にそれを運ぶと、白髪の小柄なお婆さんが続いた。の祖母はすでに他界しているので、他人だ。にこやかにお礼を述べてから座るお婆さんを見守りながら、はワンステップ上がった最前列の二人掛けの座席に荷物を置く。
運転手はトレンチコートを脱いでいるがコートをひざに置いて座るまで待っていた。
講義終わりの大講義室からわらわらと学生が出て行くのにならってドアを抜け歩いていれば、スタッカートのようにはじける声が俺の名前を呼ぶのを聞いた。
横についた人物に目をくれることもなく───顔など確認せずともわかる───立ち止まらずに前を向いたままその存在を認識する。混雑するエレベーターを避けて一階分階段を降りることにして、段差に足をかけた。
「ねー、暇でしょ?」
「暇ではない」
も俺も、この曜日は三・四限の受講で終いだ。三限開始時刻数分前にメッセージアプリが鳴り、四限休講の報せが入っていた。急すぎるが、教授急病につき、というのならしかたがない。四限の時間があいたとはいっても、五限が入っているわけではないので、時間を持て余しているということはなかった。帰宅すればいいだけの話なのだから。
「デートしよーよ!」
「しない」
「なんでよ!」
大げさに天を仰ぐを横目に一段ずつ慎重に踏みしめる。だいたいこういったとき、は俺の腕を押して不服を示すのだ。案の定、身体の重心が横にふられる。
「俺はおまえの彼氏に殴られたくはない」
「大丈夫! バレないよ!」
それに、殴ったりしないよとが最後の一段を飛び跳ねるように降りて、笑う。彼氏は朝から隣市のグラウンドへ野球をしに行ったから近くにはいません、と補足までされた。
換装体なら負けるわけもないが、あの木崎レイジのような図体をしたの彼氏相手に生身では勝ち目がない。負け戦は趣味ではない。
「いいじゃん! どっか行こ!」
の鈍感な彼氏とは違ってこっちのは勘が鋭いんだ、とは、余計な言い争いが増えるだけなので言わないでおく。
尤も両者口を滑らせなければふたりどこかへ行ったなど知られることなどないのだが───そもそもやましいことなどないのだがそういう問題ではないと彼女は言う───他人の目や口を塞ぐこともできない。よくも悪くも、なぜだか俺もも人目につくのだ。
「じゃあさ、焼き芋食べたい!」
外へと続く自動ドアが開いた先のまぶしさに眉をひそめるのと同時に、提示された代案への再度の否定を同じ表情で暗に示す。
焼き芋の移動販売車が校門近くに停車していたのをたしかに俺も九十分以上前に見た記憶はあった。
「もういないだろう」
「……まだ音聞こえる!」
ぐっと俺の腕を引っ張り、は俺の足を止めさせる。が自分の両耳に両のてのひらをそえて、耳をすますように指示するのを見下げた。かすった手の振動でロングピアスの端についた小さなドライフラワーがゆらゆらと遊んでいる。
不意に、それを引きちぎってやりたいような衝動に駆られて、手をのばす。まったくもって論理的でない思考だった。
「……聞こえないだろ」
ふっと湧いて出た欲は抑え込まれる。長いまつげをぱたぱたとさせながら俺を見上げるの手に自分の手を押し当てて、の耳をふさいだ。
「バカ! 行っちゃったら困るから、走って!」
「おまえが食べたいんだろう、走れ」
数秒もせず俺の手首をつかんで手をひっぺがしたは、あっ、と違う男の名前を叫んで、ママチャリを押す男を引き止める。
ひと言ふた言会話をすると男は自転車から降り、怪訝そうにするでもなく、むしろなぜだか満足気に自転車をに引き渡して校舎へと向かってふたたび歩みはじめた。
「はい! 匡貴!」
は片手でサドルをばしばし叩きながらこちらを見据えている。
はじめから───もはやどこがスタートかもわからないが───こうなる未来はみえていた。
変わることはないのだ。ずっと幼いころからくり返されているやりとり。最初に大きなお願いごとをしてから、その後に、それよりは小さなお願いごとをする。それくらいならいいか、と思わせる戦略。
「……奢らないからな」
「えっ、ケチすぎ!」
ハンドルを握る役割を引き継いで、サドルをまたぐ。俺の身長には多少低すぎるそれにひざが格好悪く曲がる。当然の如く荷台にまたがろうとする気配を背後で感じて、身体が強張った。