食満留三郎(落第忍者乱太郎)現代設定
「伊作、もしかして振られた?」
宴も酣。すでに生ビールジョッキ2杯から日本酒に移行し、山形と岩手の名酒を堪能した頃合いである。脈絡のないこちらの言葉に、一方は情けなく眉を下げ、もう一方は驚愕の表情を浮かべた。前者である伊作は、なんでわかったのさ、と捨て犬の様相で、後者である食満は三白眼をさらに細めてわたしを睨みつけた。友人の傷を抉る無神経さを咎める視線でないことは、長年の付き合いからわかっていた。食満は伊作の状態を知っていた、あるいは、少なくともどこかで伊作の傷心に気づいていて、意図的にこの話題を避けていたのだろう。理由は単純明快で、酒が入った伊作の愚痴が死ぬほど面倒臭いからだ。
案の定、伊作は社内の、よりによって同じチームの後輩に繰り広げた獅子奮戦の顛末を一から語り始めた。食満は仏頂面で次の日本酒と肴を頼み出す。イカの塩辛とあえたポテトフライに、タコの唐揚げ、日本酒。呆れた表情で、それでも相槌を律儀に入れながらテーブルを傾聴の布陣に整えているところは、本当に食満らしい。
仙蔵はじめ、大学の他の同期の面々を思い浮かべてみたが、食満以外誰一人として大人しく座っていられる男は思いつかない。
それなりにモテるのにろくな恋愛をした試しがないという点で、このふたりは共通している。
ろくな恋愛というと定義が曖昧だが、ここでは3ヶ月以上続いた試しがないということにしておこう。
たとえば伊作はどの角度から見ても紛うことのないイケメンで、彼を好きになる女は絶えたことがないし、伊作も選り好みこそすれ彼女たちに基本的にはオープンだった。なのになぜか長続きしなかった。今回のように自分から動いて振られることも珍しくはなかった。理由は生憎わたしと食満に確認する術はない。
一方同じくイケメンの食満だが、実のところ女性関係については詳細は伏せられていた。それなりの人数は通っているんだろうというのはわたしと伊作の推測で、話の内容や雰囲気から、あの日は合コンに行ってたんだろうなとか、その旅行は女と行ってたんだろうなと邪推する程度の話だった。食満は最近どうなのさ、とたまにからみ酒の伊作が切り込むこともあるが、いわく、いたらこんなにお前らと飲んでない、とのことだ。その理論はおかしくない?と思いながらも、大学卒業後就職で一回引越して以来ずっと同じ食満の部屋を思い出せば、反論は飲み込まれるのだった。
わたしたちの中でぺらぺら話すのは伊作くらいのもので、彼は自分の中に物事を隠しておけない性質なのだった。心の弱みを簡単にさらけ出す彼は、そのせいか女の話が絶えない。わたしは伊作にその自覚があるとなんとなく確信している。もはや性格か策略か罠かわかったものじゃないし、そんなものにはまる女はばかでしかない。女であるわたしが言うのも変な話だが、真理を話すときは自分のことは棚に上げてもいいはずだ。
そんなわけで、伊作なんかを好きになる女なんてとんだばかしかしないと思っているわたしだったが、でも同時に、どこかの真実ばかな女が伊作を見つけて、1日も早く彼に本当の愛を誓ってくれたらいいのに、と心の底から願っていたりもする。
店の外にでると、煌々たるネオンの光がわたしたちを迎えた。散々管を巻いた伊作だったけど、それでも足腰はしゃんとしていて、ああわたしたち大人になっちゃったんだなぁと妙な波に足を取られそうになった。もう安酒で酔い潰れてカラオケに雪崩こんだわたしたちではないのだ。最後に酔い潰れたのがいつだったかすら、最早曖昧だ。
「最近さ、時間の流れがよくわからなくなってる」
「時間?」
赤い顔の伊作がこちらを向く。
「これ最近あったなって思ったことが10年前だったり、結構前だと思ったら最近だったり」
「それさ、年取ったって言うんじゃない」
あまりにあっさりと言ってのけるので、次の言葉を継げずにいると、ショックを受けたと受け取ったのだろう、
「悲しいの?」
伊作が心外だと言うように目を瞬かせた。わたしは少しのあいだ宙を仰ぐ。
「悲しくはないけど。でも嬉しいかって言われると、難しいね」
何それ、と伊作は今度はくすくすと笑った。
「だってさ、昔はもっといろいろできる気がしなかった?世界を救ったりとか」
「お前、そんな殊勝だったか?」
支払いを終えた食満がいつのまにか後ろに立っていて、不覚にも心臓が跳ねる。
「意外とね」
「音楽とお酒と男の子にしか興味ないと思ってた」
伊作はなおも揶揄の表情だ。いつも自分が馬鹿にされる立場なので、こういう時の彼は理外に鋭い。
失礼ね、と睨みつける前に、伊作と食満は大通りを歩き出している。
釈然としない思いで後ろに続き、次は馬肉でも食べに行こうかなどと話しているうちに駅に着く。JRに乗る伊作と別れたあと、地下鉄に向かう。この瞬間、いつもわたしは少し緊張する。
かくいうわたしは伊作を好きになるのとはまた別の種類のばかな女なので、実は昔からずっと食満のことを想っている。
思えば、タイミングなら過去に何度かあったのだった。勝算はどうであれ、想いを伝えられる流れはいくつか思い出せた。
ただ、あんなに好きだったはずなのに、なぜか一緒にいるイメージがつかなかった。一緒に寝ることを想像すると、まるでフライパンの上で寝ているような心地になった。
だから、代わりにとったのはいつも別の男の手だった。
彼氏ができた、と飲み会で告げるたび、伊作は不服そうな顔をした。わたしののろけが面倒なのかもしれないし、どうせ長続きしないことを予知して同情していたのかもしれない。そういえば、わたしもろくな恋愛をしていない。
しかしそういう時、食満がどんな顔をしていたかはまったく思いだせなかった。そもそも食満の顔を見ていたかも定かではない。お前たちはなんで付き合わないんだ、とうるさい外野を黙らせることができるから、喜んでいたのではないかと思うのだけれど。
確かなのは、そういう飲み会の夜は変な夢を見るということだ。帰宅したら玄関の前に食満がいて、今日は一人になりたくなかった、と伏目がちに言う。そんな食満を私は驚きと喜びと優越感の混じった気持ちで見る。ほんとはずっとお前が好きだったんだ。大体そこで目が覚める。やつが絶対言わないセリフを言わせてしまったことに朝から笑ってしまう。そして、なんていうセリフだったら食満は言ってくれるだろうかと考えたりもする。妄想は自由だ。
男女って生物としてものすごく単純なのに、時々まったくままならない。
地下鉄に続く階段が見えたところで、道路の向こうにバーの看板が見えた。伊作に翌日仕事があるとかで早めの解散になると、よく二人で飲むバーだ。足を止める。
「もう一杯飲んでいこうよ」
マフラーの下でぼそぼそと言うと、食満は、今から?と腕時計を見た。食満のスマートウォッチは終電間近を指しているだろう。そのためにわざわざ伊作の失恋話を飲み会の後半で引き出したのだから、当然だ。逡巡ののち食満が首を縦にふったなら、私は覚悟を決めることにしていた。長く一緒にい過ぎて、いろんな寄り道をしてしまったわたしには、次へ進むための仕掛けが必要だ。それがどんなに小さくてくだらないものだったとしてもだ。
食満はなかなか決めかねているようだった。間抜け面だなぁ、と思う。でも、どうしたって憎めない。
仕掛けがないと進めないわたしに、進む資格はないのかもしれない。容易く裸足になれないけれど、それでも愛を誓いたくてもがいていて、なんて滑稽だろう。期待と恐怖の入り混じった目をしているだろう自分を想像して、ネオンの光の音に溶けて包まれる感覚に捉われた。
次に出てくる食満の言葉を、わたしの言葉を、次のわたしたちの行動を、わたしは怖いと思う。