尾形百之助(ゴールデンカムイ)現代設定
よく晴れた真夏の土曜で、よりによって一番暑い時間帯だった。
チャイムを鳴らしたが返事がなく、引き戸に手をかけたら開いてしまったので、そのまま上がり框を越えた。勿論、サンダルは脱ぐ。
廊下を通って台所に通じるドアを開くと、クーラーの冷たい風が頬を撫でた。そのことにひどく安心を覚えながら、こんにちは、と声をかける。探すまでもなく、ダイニングテーブルに百之助のお母さんが座っていた。あら、いらっしゃい。ゆるゆると焦点をこちらに結んだ彼女は、不法侵入を咎めることもなくうっすらと微笑む。
百之助君、いますか。部屋にいるんじゃないかしら。
二階の彼の部屋は無人だった。お祖父さんとお祖母さんの姿も見当たらず、出かけているようだと結論づける。
お邪魔しました、と台所を通り抜ける際に、ちらりとコンロを見遣った。ぐつぐつと何かが煮えていた。いい香りが漂っているのに、重苦しい翳りのようなものが覆いかぶさって、ひどく殺風景だ。青白い顔の彼女は、気をつけてね、と最後にまた力なく微笑んでみせた。私にはむしろ彼女の方が心配されるべき存在のように思えた。それでも結局私は彼女を後にした。
次に向かったのは図書館だった。単に読みたかった本のあることを思い出したからだった。炎天下を歩きながら、なんでこんな休日を過ごしているんだろう、とふと考える。図書館は近いので、答えに辿り着く前に目的地に着いてしまう。
読みたかった本は貸し出されていた。炎天下にまたすぐ戻る気にもなれず、あてどなく書架の間を彷徨っていると、ふいに窓の向こうに視線が縫い留められた。中庭のベンチに、こちらに背を向けて座る姿がある。百之助のものだということは、すぐにわかった。不思議なことに、いきものの気配を感じたのと、それが彼のものだという確信は同時だった。図書館には他にもたくさんの人間がいたというのに。
小走りで向かい、彼の前に立つ。名前を呼ぶと、いつものように無感動に顔をあげた。同級生が口を揃えて怖いとか気持ち悪いとか言う所作だったが、私はそれを嫌だと思ったことはなかった。彼は誰に対してもそうであったし、何も特別に扱うことのないことは、私も自然なものとして受け入れられているようで、その平坦さがかえってまともなものの感じがした。
どーぞ、と図書室からここに来る途中に自販機で買ったダカラを差し出すと、どーも、と気のない返事が返る。長い指がびっしょりと汗をかいたペットボトルを掴む。150円ね。金取んのかよ。こんな暑いとこで何してるの?。別に、ぼーっとしてた。熱中症じゃない、それ。
横に並んで、緑のペットボトルを二人して傾ける。
「ここ来る前、君の家に行ったよ」
唐突な切り出しにも、そう、と百之助は答える。やっぱり何の感情も混じらないのだった。彼の家に行ったのはこれが初めてではないので、自分が何を期待したのかよくわからなかった。
尾形家。
茨城の田舎町なので、その家の事情は誰もが知っている。東京でいかがわしい仕事をしていた娘が、私生児を抱えて出戻りした日のことを、見てもいない私ですら詳細に描写することができる。町中の子供達は、あの家の子とは関わっちゃいけないよと言われて育ってきたようだった。伝聞系なのは、うちが転勤族だからだ。中学の時引っ越してきて、転校生だからと言う理由でのけ者にされ、のけ者同士勝手にシンパシーを感じてこちらから話しかけた。お互い積極的に人に関わるタイプでなかったものの、単独でやりすごすには学校というものは厄介な所なので、高校生になった今も惰性でつるんでいる。百之助の祖父母からは、よくぞ孤独な孫の友達になってくれたとたいそう感謝されたものだが、本人がどう思っているか確かめたことはない。
「おばさん、大丈夫?」
言ってから、その言葉のあまりの無責任さに絶望的になった。百之助は気にしたふうもなく、
「わからない」
と答えた。自分には関係のないことだから。そんなふうに響いた。突き放していると言うよりも、ひたすらに客観的な色を纏っているようだった。ぞわりと背筋が震えた。続いて、頭に冷たいものが触れた。
なんだろうと思えば、雨粒だった。さっきまで晴天だったのに、いつのまにか建物で四角く切り取られた空が、灰色に濁っている。
私は反射的に立ち上がったが、百之助はベンチに座ったままだった。
「俺、大学は東京に行く」
脈絡がなかったので、最初はなんて言ったのかわからなかった。聞こえていたが、うまく意味を解さなかった。
俺は母さんを殺す。
なぜかそう聞こえた。動けなくなった。百之助の瞳は底なしに暗く、自分が母を殺すことになると告げているように思えたのだった。百之助の方も、私がそう聞こえたことを確信しているんじゃないかと思った。
やがて地面を大粒の雨が打ち、手を引かれるまま屋根の下に駆け込んだ。息を切らし、顔を上げたときには百之助はいなくなっていた。
あれからまた同じ季節を迎えようとしている。こちらの心配をよそに、百之助は少年院に送られることもなく、黙々と受験勉強をこなして東京の大学に合格した。私も東京の別の大学に進学することになった。親戚もほとんど東京にいるので、というのは表向きの理由で、百之助のことが影響しなかったと言うと嘘になる。
湿ってきた空気が背中を汗ばませるのを感じながら、夕焼けの下、自転車をこぐ。籠には、バイト先で貰った廃棄パンがどっさり詰め込まれている。これでお豆腐屋さんのラッパが聞こえてきたら、完璧な日本の夕方だなぁと思ったりする。外を練り歩くお豆腐屋さんなんてアニメでしか見たことはなかったけれど。
チャイムを押すと、少ししてからドアが開いた。と思ったら、少ししか開かなかったので、私は眉をひそめた。まるでスパイが秘密情報をやり取りする時のように、細い隙間から百之助の黒目がちな目が覗いていた。空気で帰れと言っている。怪しい、と隙間にそのまま足を滑り込ませると、遠慮のない舌打ちが帰ってくる。しばしの攻防戦の後、お客さんですか?と凛と澄んだアルトの声が届いた。
学生服を着た、知らない少年が1K6畳に正座をしていた。
「どちら様?」
ローテーブルの上に皿を置き、パンを並べてしまうともうできることもなく、私はおそるおそる少年を見た。不機嫌そうな百之助は、自然の摂理のように何も答えず、あぐらをかいて壁にもたれたまま微動だにしない。
「弟です」
急に現れた汗だくの女と、不機嫌な家主をものともせず、ずっとにこにことしていた少年が口火を切った。
彼は勇作くんと言って、百之助の異母弟にあたるらしい。
なんでも、入学式やオリエンテーションやバイト決め等一通りのフレッシュマン行事を終えた百之助は、実家にあった諸々の痕跡を手がかりに実父の情報を突き止めていたらしい。そうして、あろうことか、職場に直接訪ねて行ったのだそうだ。頭脳明晰なくせに無鉄砲なことをする男なのだった。
顔を青くした父親にはすげなく追い返されたらしいが、そこは諦めない百之助青年。帰宅する父を尾行し、家を突き止めるところまでやり遂げたのだそうだから、無鉄砲を通り越してちょっと怖い。
そうしてめげずに張っているところを勇作くんに見つかった、ということだった。父親によく似た男を不思議に思い、素直に母親に尋ねたところ、ややあって母親は意を決したようにすべてを教えてくれたそうだ。まっすぐ育てた息子のことを信頼したのだろう。
期待を違わず、勇作くんは父にかつて別の家庭のあったことを真摯に受け止めた。それどころか、真面目に受け止めすぎたのか、一人っ子だった自分に実は兄のいたことにいたく感動したらしい。そして今度は百之助のあとをつけて、この家を見事突き止めてしまい、今に至る、ということだった。
「……すごいね」
君もちょっと怖いね、という言葉を既の所で飲み込んで、代わりに出た言葉だったけれど、勇作くんは屈託なくえへへと笑った。こんな形で百之助の生い立ちに丸腰で触れることになると予想もしていなかった私は、どこかまだ半信半疑である。
気まずくなって、パンどーぞ、と皿をひとつ差し出すと、いただきます、と丁寧に頭を下げて、勇作くんは背筋をしゃきっと伸ばしたままクリームチーズ豆パンを手に取った。私は同じ皿に乗っていたチョコクロワッサンにかじりついた。百之助はしばらくむすっとしていたけれど、やがて躄ってきて皿をひとつ取るなりまた壁の方に戻っていった。野生の猫か。
そうしてお世辞にも豪勢とはいえない夕食(勇作くんは多分おやつ)を黙々と三人で口に運んだ。バイトのまかないのご相伴に預かる若者三人。でもそれは異母兄弟と無関係の女で、果たしてこれは平凡な日常のワンシーンと言っていいのだろうか。そんなことを考えていた。
そろそろお暇します、と勇作くんが頭を下げたので、送って行くよ、と私は立ち上がった。ちらりと壁の方に視線を向けると、百之助も立ち上がるところだった。
確かに、真意の読めない所が彼らはよく似ている、かもしれない。
そんなことがあってから、百之助の下宿先には時折学生服の少年が姿を現すようになった。ざっと私の2回に1回くらいといったところだろうか。私は週に2、3回は百之助のところに通っていたから、単純に週1は勇作くんが遊びに来ていることになる。これは異母兄弟としては驚くべき頻度なんじゃないだろうか。私の差し出す、道中のスーパー特売で買ってきたバニラアイスをにこにこと受け取る勇作くんを眺めながら、詮無く考える。
君は家の人になんて言って出てきているの、とある日聞けば、友達の家で遊んでくると言って来ていますよ、と曇りのない眼で答える。
「とんだ嘘つきだな」
この状況を作り出した元凶である百之助は、隠そうともせず嬉しそうだ。最初はからかい、あるいは照れ隠しの類かと思ったけれど、どうにも違和感が拭えなかった。陽の当たる道を堂々歩いてきた、対照的な彼の弟。その作り出す小さな背徳に満足していたのだと気づいたのは、バイトに行くという百之助と別れ、私一人で勇作くんを家に送る道すがらだった。はたと胸をついた。
「君はもうあそこには行かない方がいいと思う」
閃きに任せ、素直にそう告げると、勇作くんは寂しそうに笑った。橋を渡り終えたところで、辺りはすっかり暗くなっていて、私は自転車を手で押していた。勇作くんは寂しそうだったけれど、少しも驚いた様子はなかった。予想していた、といったふうですらあった。少なくとも私の目にはそう映った。
「兄さんは本当は、父に会いたいんでしょう。父に、兄の母に会いに行って欲しいのでしょう。でも僕の母の手前、きっと難しいでしょう」
淀みのない、それでも血を吐き出すような声に、毒にも薬にもならないコメントすら添えられず、私は黙って隣を歩く少年を見た。
私の勧告が聞き入れられなかったことの象徴のように、勇作少年はそれからも百之助の家に姿を現し続けた。よく考えたら、彼がなぜ異母兄の元に足繁く通い続けるのか、その理由を問うておくべきだったのかもしれない。
「もう彼女がいるなんて、さすが兄さん」
「好きなやつはいないのか」
「全然です」
私の思案をよそに、男共はしょうもない話に華を咲かせているようで、たちまち現実に引き戻された心地だ。瞬きをしながら、百之助彼女いたの、と言うと、は?と奇妙な二種類の視線に捉えられた。は?と今度はこちらが眉を顰める番である。なにせ、明確に宣言されていないのだ。
「勇作はまだ童貞か」
うやむやのまま、百之助はあけすけない言葉を放る。赤面したのは二人同時だったと思う。
「こいつにやらせてもらえばいい」
揶揄の言葉に、絶句したのは言うまでもない。こちらの表情を覗き込んでくる気配があったので、私は咄嗟に床の上に視線を落とした。俯いた、と言い換えてもいい。
「兄さん、それは酷すぎます」
毅然とした声だった。え、と思って顔を上げると、真っ直ぐに百之助を見つめる勇作くんの姿があった。それから少しして、ごめんなさい、と頭を下げると勇作くんは出ていった。
百之助に初めて抱かれたのは、それから少し経ってからだった。
組み敷かれながら、何で?と聞くと、何が、と不思議そうに首を傾げられた。急る表情と頑なに引き結ばれた唇とは裏腹に、体を弄る手付きは慣れたものだった。何もかも知り尽くしているといった雰囲気に釈然としないものを感じつつも、ひとまず私は幸福だった。
なのにどういうわけか、果てる彼の顔を見た瞬間に乱暴に首を掴んだのは、あの夏の日に図書館の中庭でみた横顔だった。
ぼんやりしていた灰色がゆっくりと焦点を結び、自分が眠ってしまっていたことを知る。幾度かの瞬きののち、視線を横にずらせば、百之助は寝そべってスマホをいじっていた。
こちらの気配に気づいたのか、視線はすぐに合った。平生の彼らしく、いつもの無感動な黒曜石の瞳。
「勇作くんのこと、殺すの?」
それは唐突な思いつきだった。百之助も珍しく目を見開いていた。しかし突拍子のない言葉に意表を突かれたというよりも、核心をつかれて怯んだといった色が濃かった。何年も彼の漆黒の瞳の中の謎を解こうと躍起になっていた私だ。最早解明に近い。
「……わからない」
あの時と同じで、彼の声はやはり客観的な響きで空気を震わせた。本当にわからない、と困惑すらしているようだった。
「一回目は殺した」
「……一回目?」
「二回目も殺した」
百之助はかつて、全く違う、けれどどこか似たような生を経験した、とその時の様子を静かに語った。何を言っているかわからなかった。人は一度しか死ねない。まだまどろみの中にいるせいだ、と思う。それでも、彼が何を言いたいかはわかるような気がした。これまで感じていた不穏な横顔の答えを突きつけられたのだ、と思った。
「じゃあ、今回も?」
「……わからない」
言葉を探す代わりに、私は彼の首に手を回した。戸惑いがちに彼の手が腰に回ったのを感じて、目を閉じる。勝てない戦にずっと足掻いてきた彼を労りたくて、ただただ手に力を込めた。
夏の終わりを拒否し続ける蒸し暑さと蝉の声に辟易していると、地元民である勇作くんが、そういえば今日縁日がありますよ、と思い出したように呟いたものだから、自然と三人で夜店に繰り出す流れになった。
私もはたと思い出すことがあって、自転車をかっ飛ばして一旦自宅に帰った。クローゼットを漁って急いで服を替えると、しずしずと待ち合わせの場所に向かった。もちろん、縁日の記号である浴衣を着付けたのだ。
きれいですね、とか、お似合いです、とか、勇作くんは予想通り手放しに褒めちぎってくれて、私は満更でもなく年端も行かない少年の言葉に頬を染めた。
こちらも予想通り、百之助はちらりと全身を一瞥しただけで、何も言わなかった。だけど、人混みの中でそっと手を握ってくれたので、それだけで私は満足だ。
そうやって私達は、今日も他愛のない日々を過ごしている。勇作くんは異母兄のもとを訪ねることをやめる気配はないが、今のところ殺される気配もない。見上げる百之助の瞳も相変わらず翳っていたが、少なくともそれなりに幸せそうには見えた。そうであって欲しいという私の願望が混じっている可能性は否めない。
空を見ると、うっすら光を散らした夜空に、雲のかかるのが見えた。天気予報、降るってよ、と通行人の声が聞こえる。通り雨が来るのだ。
そう思ったらふいに、遠雷に打たれたような心地がした。そして、雨が降る前に伝えなければ、と唖然とした。今のこの世界は優しくて、前に何があったかわからないけれど、少なくとも、すべてのしがらみから自由になる自由があなたにはある。傘を持たない彼に、そのことを伝えなくちゃならない。雨が降る前に。
振り返ると、目の前には途方のない人混みが広がっていた。