槙島聖護(PSYCHO-PASS)
そろそろ来るんじゃないかと思っていた。だから目を開けて視界の端に人影が映っても、それがホームセクレタリーのホログラムでないことがわかっても、別段驚いたりはしなかった。
夫の四十九日が終わって、お寺で次回の法事の案内と色相セラピーの医療機関のリストの載った冊子を貰ったのだった。帰宅して、ソファに横になった。そこから意識はふつりと途切れる。目を開いた今も覚醒の感覚は生まれない。ことごとく神経が麻痺しているふうでもあった。
「……槙島くん」
そんな朦朧とした状態でひとつの概念に泳ぎ着けたことは、控えめに言って奇跡だったと思う。感心するわたしをよそに、槙島くんはわたしの足の方に腰を下ろす。
「久しぶり、槙島くん」
「鍵が開いていたよ。不用心じゃないか」
「開けていたの」
「あれ、塩、撒かなかったのかい」
槙島くんの視線はテーブルの上に向かっている。塩?。一瞬なんのことを言っているのかわからなかったけれど、お寺で貰ってきた包み紙を指しているのだと少ししてからわかった。槙島くんにしては珍しく、少し責めるような色が混じっていたのがおかしくて、わたしは思わず笑ってしまった。シビュラを信じることと、理に適わない慣習を守ること、どちらが狂っているのか、わたしにはよくわからない。
「塩を撒いてたら槙島くんは部屋に入れなかったんじゃない?」
亡霊みたいなものだから。
とびきりのジョークになったと思ったけれど、槙島くんは笑わなかった。正確に言えば、いつもの薄気味悪い笑顔を口の端に浮かべたまま、一ミリたりとも表情を動かさなかった。
つられて、わたしもいびつにひきつっていた口元を元に戻す。
「槙島くん」
「うん」
待ち構えていたかのように、槙島くんが視線をこちらに向ける。
「また、だめだったよ」
一人目は大学の同級生だった。婚姻届受理の通知と一緒に、頼んでもいないのにシビュラの「不適合」の相性判定のデータが送られてきた。受理しといて不適合って何さ。当時のわたしたちには笑い合えるだけの余裕があった。そして盲目だった。彼の色相が濁り、収容施設で悪化の一途を辿った彼とわかれるまでそう長くはかからなかった。
ならば、と駆け込んだシビュラ公認結婚相談所が選んだ候補は三人いた。その中で、相性判定の一番良い男が二人目だった。彼は警察官だった。新婚旅行から帰ってすぐ、銀行強盗の凶弾をうけて殉職した。
ぼんやりしていたら件の相談所に呼び出され、判定が二番目によかった男を紹介された。彼は童話作家で、世界各国数多くの寓話を知ってデートの度にわたしに聞かせた。今度こそ、とすがった三人目は脆く、気づけば彼はユーストレス欠乏症で寝たきりになっていた。半年後、今のわたしの喪服姿がある。
「だから言ったろう、シビュラなんて碌な物じゃないと」
槙島くんは、明らかに勝ち誇った顔をしていた。そうね、と素直に頷く。さすがに三回も失敗するとは思わなかった。
すると、スカーレット・オハラのようだね、と槙島くんは尚も愉快そうに続ける。誰だっけそれ。いつもなら自動的にネットで検索して答えを読み上げてくれるホログラムが現れず、かといって槙島くんも答えてはくれないので、しばらく沈黙の中を漂うことになった。しばらくしてやっと、大昔のアメリカの小説の主人公だったことを思い出す。
そうだった、彼女は二人の夫と死別した。三人目の夫を愛していたと気づいたのは、彼を違う意味で永遠に失ってからだった。
わたしがようやく答えに辿り着いたことを察したらしい槙島くんと目が合う。わたしは眉をひそめた。
「悪いけど、そんな文学的じゃないわ」
「一人目、若かった君は収容施設でもがき苦しむ彼の手をあっさりと離した。二人目、君は彼を愛していないことにすぐ気づいていて、彼の訃報に安心すら覚えた」
槙島くんの口上はすらすらと歌うようだ。それで、三人目は?悪魔のように誘う美しい瞳がわたしを射抜いている。
「……三人目。なんの欲求もなくなった彼がそれでも最後の力を振り絞って枕元の果物ナイフを手に取った。わたしはそれを黙って見ていた。焼かれた夫を骨壷に収めても涙ひとつ溢れこぼれなかったのに、シビュラの選んだ三人のうち相性度の一番低かった男が、別の女性と幸せな家庭を築いていると聞いた時、涙が溢れて止まらなかった」
まるで告解だ、とわたしは思う。
「信じられる?こんなに汚い人間なのに、わたしの色相は呆れるくらい奇麗なのよ」
槙島くんは答えない。ただひたすらに楽しそうだ。かつてのように小難しい言葉を並べ立ててわたしの神経を逆撫でることもない。
そういえば、残虐非道の限りを尽くしたにも関わらず色相がクリアなのは槙島くんも同じだ。自分に同族のいることに、喜んでいるのだろうか。しかしそんな思いはすぐに振り払われた。そうか、わたしを見ていないからだ。槙島くんはわたしではなく、わたしの後ろのシビュラの欠陥を見ている。
頭痛の気配をこめかみ辺りに感じたが、構わずのろのろと起き上がった。槙島くんの冷たい視線がわたしの動きを追う。
シビュラの結婚相談所に行くわたしを止めたくせに、ついぞ愛を囁いてくれることのなかった男。
「スカーレットなら、喪服で踊るわね」
槙島くんはしばらく黙ってわたしを見下ろしていた。聡明な彼のこと、予想しなかった展開ではないだろうに、何をもったいぶっているのか。やがて右手がゆっくりと私の方へ伸ばされる。
引き寄せるためなのか、いつも懐に忍ばせているナイフでこの地獄から楽にしてくれるためなのかは、わからなかった。
わかるのは、その真意が何であれ、明日の朝には槙島くんはわたしの隣から消えているだろうという結末だけだった。