Just the Two of Us

鉢屋三郎(落第忍者乱太郎)現代設定

 朝起きると、自然にスマホへ手が伸びる。けたたましく鳴るアラームを止めつつロックを解除する。
 ラインの通知は広告ばかりだ。スワイプで既読に変えていく動作は脊髄反射で、罪悪感が生まれる余地もない。アプリアイコンの右上の赤い数字が消えてしまうと、今度はメールアプリを開く。こちらも似たようなものだ。今日アマゾンから荷物が届くことを思い出せたのは、大きな収穫と言っていいかもしれない。何を頼んだかは忘れてしまったけれど。
 枕元に置いたペットボトルの水を飲み、寝室を出る。一間続きのリビングダイニングは寝る前と同じ様相を呈していた。テーブルの上には会社のノートパソコンといくつかの書類。安物ワインが底に薄く残るタンブラーひとつ。チーズとクラッカーの乗っていた木皿。散らばるクラッカーの屑の散らばりすら、昨夜パソコンを閉じた時と同じ形だった。
 そりゃそうだ。一人納得して、食器類をシンクに一旦避難させ、シャワーを浴びる。頭にバスタオルを乗せたまま、ミキサーに豆乳とチョコレート味のプロテインとバナナを放り込む。ぶいん、と掌に振動を感じていると、決まって男の声が脳裏に響く。
──優等生だな。
 純粋な揶揄で構成された声色だった。人のルーティンに対して失礼なやつである。そもそもが人を小馬鹿にせずに声を出せた試しのない男だった。過ちを犯してしまった、とわたしは思う。しかし八年越しの想いを成就させ、初めて共に朝を迎えた当時のわたしは、あろうことか心を躍らせていたのだ。
 後ろから腰に回された、あの細長い腕。

 会社に着くと、愛想笑いを振りまきながらデスクに座り、パソコンを開く。昨今の風潮でいよいよお堅い弊社もリモートワーク導入かと期待したのも束の間で、気持ち分の間隔の空いたデスクには今日も全員の顔が並んでいる。どことなく目に輝きが垣間見えるのは、今日が金曜日だからか。
 昨夜作ったTo doリストを確認し、今日の会議の時間を確認すれば、後はひたすらメール返信、社内会議の調整、社外アポイントの調整、アジェンダ作り、資料作成、データ分析、部署内外から飛んでくる電話対応。これ毎週やる必要あります?の上司との個人面談。
 午前中の業務を終えないまま13時の会議に突入し、のびにのびて14時半。無慈悲に閉まった社食を横目によろよろと向かう先はおなじみビル地下のコンビニである。こんなに頑張ってるんだからと欲望に任せて物を取り、最後にカフェラテラージを頼めば、値段は余裕で1000円を超える。頑張って稼いだ分が仕事により消えていくこの矛盾。カフェラテを待ちながら遠い目をしていると、ふいに横から声がかかった。
「今から昼?」
 ゆったりと、穏やかな声。
「雷蔵こそ」
 手に持ったビニールから覗くパスタをみて言うと、雷蔵は気まずそうに笑った。彼は大学時代の同級生だが、何の縁かたまたま同じビルの別会社に就職した。会議が長引いた挙句、頼まれた雑用をこなしていたらこんな時間になってしまったのだと言う。こういう時、彼らしいな、という言葉以外がわたしには見つからない。
「元気?」
「元気よ」
「そんな感じだね。まあ、近々飲もうよ」
「そうね、最近飲んでないよね。前飲んだのいつだったっけ」
「ええと、三郎と三人でタイ料理屋に行った時だから……」
「二ヶ月くらい前かな?」
「そう、そうだ」
「三郎とは最近会ってる?」
 この問いをするとき、わたしはいつも少し緊張する。
「うん。ちょうど先週末ごはん食べに行ったよ」
 善良な雷蔵は、わたしの目が曇ったことに気づきもしない。

 夕方、上司が露骨に恐る恐ると言った体で近寄って来て、猫撫で声を出した。
「今日中ですか、明日の朝までですか」
 前振りを遮ってぴしゃりと吐き捨てて、思い出す。今日は金曜だ。上司は(見た目だけは)申し訳なさそうに、今日中に頼む、とぼそぼそと言った。
「いつもすまん。善法寺と協力してやってくれ」
 斜向かいの席の男がぎょっとするのを気配で感じたが、わたしが考えたのは今夜届くはずのアマゾンの荷物のことだった。

 デスクの上でスマホが震える。20時を過ぎて律儀に私用スマホを鞄の中に入れておく馬鹿はいない。
───明日飲もうぜ!
 勘右衛門だった。しばし手を止めてポップアップが出てくるのを眺める。どうやら北海道で牧場をやっている竹谷が、理由はよくわからないが明日東京にきて兵助の家に泊まるらしい。
 大学卒業後、また会おうと口では言いながらもどうせ全員それぞれの道を歩き出して次会うときは誰かの結婚式で、その次は奥さんがいたり子供がいたりと、立派な社会の一員になっているのだろうなと思っていたが、数年経った今もこうして定期的に会う関係のままだった。変わったことといえば、さすがに頻度が減ったのと店のランクが上がったことくらいのものだ。意外だった、と言うと、冷たい女だな、と間髪入れずに三郎に言われたことを思い出す。まあ君は、そうでしょうね、という感想を抱いたと思う。このメンバー以外、特に一人を重点的に、その他の人間に価値を見出さない男だ。論破してやろうと笑いながら次の言葉を待ち構えている彼に、途端に面倒臭さを覚え、君はコミュ障だからね、とひどく足りていない言葉を渡した。その時の三郎のなんとも言えない表情がなんと形容すべきものなのか、いまだによくわからない。
 生きてたらね、と勘右衛門に心の中で返しながらキーボードを叩く。タンッ!と勢いよくエンターキーを押し、斜向かいへ首を向けると、生気のない顔の男が猫背でキーボードを叩いていた。憐れ、と素直に眉が下がったが、わたしも似たようなものだろう。
「終わりました?」
「まだ15ページ目……」
「19ページ目以降、もらいますね」
「ありがとう。結局いつもほとんど君がやっちゃうよね……」
「そういうのは仕事終わってから言って下さい」
 一層しょぼしょぼと身を縮こませるこの一年上の先輩は、いつも一番面倒な部分をやらされていることに気づいているのだろうか。それとも先輩たるものそれくらいできなければという妙な使命感に駆られているのだろうか。
 何はともあれ自分の小賢しさに拍手を送りつつ、ラストスパート。アドレナリンが血管を駆け巡るのは、悲しき社畜の性。

 お疲れ様、とジョッキを鳴らす頃には、終電まできっかり1時間という時分になっていた。
 出来上がった資料を先方に送り、へろへろになりながらも愚痴を肴に飲まずには金曜は終えられない。この点で、わたしと善法寺先輩の考えは一致していた。
 ビルから出て駅に向かう途中の居酒屋である。チェーン店でこそないが、生ビール199円という値段のバグった店で、ラストオーダーの時間も遅いので残業後の駆け込み寺として重宝していた。運よく空いていたカウンターに滑り込み、とろサーモン刺、ポテトサラダ、ハタハタの天ぷら、生ハムサラダ、鶏皮ポン酢、だし巻き卵と目についたつまみを手あたり次第に頼んだのち、やってきたビールをぐいとあおる。アクア・ウイタエだ、とぼんやりと思う。隣の善法寺先輩も幸せそうにほうっと息をついたのが見えた。その様子に、わたしはつい眉を顰めてしまう。
「これだけ手伝って頂いてあれですけど、ちゃんと断った方がいいですよ。今日の案件、先輩関係ないじゃないですか」
 お通しのために割り箸を割る先輩は、あははと笑った。苦笑というやつだった。
「でも他に助けられる人いないだろ」
「村山さんにやれって言って下さいよ」
「村山さん……」
 村山さんというのは、いつも定時で帰る、勤務時間中も何をしているのかよくわからないマネージャーのことだ。
「……言える?」
「前言ったら課長に鼻で笑われました」
「ほらぁ……」
「こういうのは何かにつけて言っとかないと溜飲がおりないじゃないですか」
 先輩はまた、あはは、と笑った。他愛もない職場の会話だ。注文した料理が運ばれてくると、すかさず先輩は生ビールの二杯目を頼む。一緒にわたしの分も頼んでくれる、その所作はとても自然だ。とりわけとかせず、自由にやろう、とにっこり笑うところも、意外と飲み慣れしている。
 不思議な居心地の良さの中、ぐいぐいジョッキを傾け、料理を口に運ぶ。そういえばこの前さ、と先輩の持ち出す社内の噂話から最近見た映画の話に興じていると、いつの間にやら日本酒二合の徳利を前にお猪口を鳴らしていて、あれ、と思う。疲れのせいか、酔いが早いかもしれない。社畜、やめたいですねぇ、と半ば朦朧と意識の中で呟くと、そうだねぇ、とこちらもすっかり顔を赤くした先輩がわたしのお猪口に日本酒を注ぐ。捲り上げた袖から覗く先輩の腕は意外とがっしりしていて、思わずまじまじと眺めてしまう。何?と笑う先輩はそして、とても綺麗な顔をしている。
 部署一番の不運と呼ばれ、しょっちゅう面倒な案件に巻き込まれている善法寺先輩。けっこうもてるらしいよ、と言っていたのは、誰だったか。最近仕事ですれ違いが多くて彼女と別れたと聞いたのは、誰からだったか。
「もう残業巻き込まれとかやめてくださいよ。先輩不運すぎですよ」
 脈絡があっているかももはや定かではない。お猪口を空にしながら言うと、自然にまた酒が満たされている。大丈夫かなぁ、と頭の片隅で考える。何が大丈夫なのかも、よくわからなくなっている。
「全員に巻き込まれているわけじゃないよ」
 静かな声を出した先輩の表情はよく見えなかった。俯いているのか、顔が影になっている。わたしが認識するのを拒んでいるせいなのかもしれない。気づけば先輩の手の甲がわたしのそれに触れていて、とてもあたたかい。
 彼の手首の時計の指す長針は既に、終電の時間を通り越している。

 自宅の扉を開くと、玄関に履き揃えられたスニーカーがわたしを迎えた。間違ってもわたしが選ばないような、派手なスニーカー。
「よぉ、遅かったな」
 鉢屋三郎。スニーカーの持ち主である男は、しかし玄関まで出てくることもなく、ソファに寝そべってテレビを見る状態のまま相変わらず人を馬鹿にする笑いを浮かべていた。「飲んで来たのか?」
 答えず、鞄を置き、コートをハンガーにかけ、マスクをゴミ箱に捨て、うがい手洗いをする。途中、廊下にアマゾンの箱が置かれているのが目に入った。時間指定は19時から21時だったはずだから、割と早い時間に来ていたということなのか。それとも、置き配を回収してくれただけなのか。箱のサイズを確認しても、やはり何を頼んだか思い出せない。
「おーい」
 だらしなくリラックスしきった男は、やはり立ち上がる気配もない。テーブルの上には何やらカラフルな缶に、スナック菓子の袋が開いている。なんだろうと見ていると、お前の分もあるよ、と冷蔵庫を指差す。ミッケラーのクラフトビールが三つ、ヨーグルトとお味噌の間に鎮座していた。嬉しい、というのと同時に、馬鹿か、という思いが胸を迫り上がる。こんなもので誤魔化されるほどお気楽な神経はしていない。
 奴に投げつけてやろうか、とも思ったが、しかしビールに罪はないので、ソファに座るわたしの手にはしっかり紫色の缶が握られている。プルタブを引くと、お疲れーと間の抜けた声で男が自分の缶を勝手にこちらにかちりと当てた。
「……なんで」
 ごくごくとビールを飲んだ後に口を開くと、びっくりするくらい恨みがましい声が出た。
「なんでいつもこういうタイミングで来るの」
 こういうって?揶揄する彼の声は、どこまでも三郎だ。
「連絡も全然こないし」
「お前だってラインひとつ寄越さないじゃないか」
 雷蔵とはわたしよりも会っているくせに。言葉は飲み込まれる。代わりにビールを飲み下すことを選ぶ。
 三郎。同じ学部だった兵助に紹介される形で出会った。初期の印象は最悪で、人間の感情を読み取ることに長けているくせに、この人と決めた人間以外に興味がなく、痛々しさが目立った。一方で顔と頭の良さと処世術のせいで寄って来る女は絶えなかった。女たらしというよりも、暇だからたまたま側にいた女を相手しているというふうだった。そんなだから、彼女と呼べる存在がいたことはないようだった(女の子たち自身がどう思っていたかはわからないけれど)。
 そんな人間として何か決定的なものが欠けた男にとって、どうやらわたしは興味を持った側の人間だったらしいが、理由はわからなかった。少なくとも恋愛対象ではなかったことの証に、三郎の隣から女の影が消えることはなかった。病気かな、と言うわたしを、慣れっこらしい雷蔵は笑いながら見ていた。兵助と竹谷と勘右衛門は三郎の習性に特に興味がないようだった。その時すでに三郎に対して痛々しいという以外の印象を持っていたことに、彼らは気づいていただろうか。少なくとも三郎は気づいていたと思う。しかし三郎がわたしの手を引いたのは、大学卒業から三年も経とうという頃だった。その頃には三郎に泣かされた女たちの数は誰も把握できなくなっていた。涙で花が咲くなら、彼女たちの涙はさぞかし大輪の花を咲かすだろう。丘一面もきっと花で埋まる。これは想像の話で、涙で咲く花はない。それでもわたしはその中の一輪には決してなりたくないと思う。 
「三郎」
 首に腕を回す。抵抗はない。すんなり三郎の腕もこちらの背中に回される。たちまち、わたしたちなら大丈夫という思いに身を任せそうになる。何年もずっと隣で見ていたのだ。他の誰でもないわたしたち。寂しかった、と素直に吐き出してしまいたくなる。そしてそれをこの男も待っているような気がしている。自惚れではないと思う。しかし確信は生まれない。慎重と待ち過ぎの境目が、わたしたちにはわからない。
 三郎、ともう一度繰り返す。なんだよ、と試すような、それでも優しい声が耳元で聞こえる。声にはださずに言う。三郎、わたし今日先輩と割といい感じになったのよ。酒の勢いで同じ部署の後輩をお持ち帰りするような非常識と度胸を持ち合わせた男じゃなくて、よかったね。

Afterword

 

  • 書きやすさとか度外視でストレートに自分の好きな曲を選ぶという親切心のかけらもないことをしました! 書いてくださってありがとうございます! 浮遊感のある曲がによさんの手にかかると、やはり日常にとけこむのですよね。ずっといっしょにいなくったって平気。それもほんとうだけれど、そんな相手と関係をわざわざ築くことはないんですよね。駆け引きなんてかっこ悪いことはしたくない。でも、距離感を間違えて台無しにするのはもっと嫌。そんなじれったさが肌に刺さりました。いや、でも総じて三郎が悪いですよね?(選曲者:小雨)
  • 「We can make it if we try」の歌詞をここまで体現する男がいたでしょうか。他人を弄んで引っ掻き合わすのも、当たり前に女の家の中にいて空気みたいに寄り添ってくるのも、計算というより「その方が楽しいから」とでも言い出しそうで狡い奴ですよね本当に。本当に鉢屋三郎お前という男は…。主人公が最後の一文をきちんと口にしないところがまた味わい深いです…! 気怠げなベースラインが文字から滲み出てくるようでした。解像度の高い鉢屋三郎の共同幻覚をありがとうございました!!(迂路)
  • 締切をしょっぱなから盛大に超過して本当に申し訳ありませんでした。原曲は綺麗なメロディーに、2人なら大丈夫さ、という希望に満ち溢れた歌詞なのに、no time for tears (略)it don't make no flowers growとnot for those who wait too lateの部分がすごく気に入ってしまい、そこから試し行動をする悪い三郎と心許せないヒロインの話になってしまいました。自分の好きな人以外興味ない三郎が好きです。読んで下さりありがとうございました。(編曲者:によ)May 8, 2022