「落ちますよ」
 点字ブロックを一歩踏み越えたところで、いつのまにとなりに立っていたのだろうか、男の声がつぶやいた。左に頭を向ければ、自分の目線より少し上に顔があって、そっと見上げる。
「落ちたいなら別やけど」
 顔からその奥の駅構内にピントを合わせ直すが、閑散としていて、人影は少なくともこの方向にはなく、彼はやはりわたしに忠告をしたのだとわかる。線路に落ちたくはない。しいていえば、口から胃液がたらたらと落ちてきそうだった。
 停車のために速度をおとした車両がキイイとにぶく高い音をならしながら入線して来るのに合わせて、反対の方向を向いた。電車の到着に合わせてゆっくり足を動かしている人が、ふたりだけ確認できた。
 もういちど左を向く。こちらを見さげているのは話をしたことも、挨拶したことすらもないけれど、生駒隊の子だったはずだ。名前は、なんだったっけ。たしか、……なんとかくんだ。完全に忘れた。そもそも記憶としていちども定着していないので忘れたという表現は誤りかもしれない。
 生駒隊には臨時でオペレーションについたこともないから、彼もわたしの名前も知らないだろうし、もしかするとわたしがボーダーの人間だと認識していない可能性すらある。
「そんなつもりは、なかったです」
「まあ、各停で減速しとる電車に飛び込んでもなあ」
 死なんと苦しむだけやろな。
 そのままそらされない、そらせない視線がなんとなく交わってしまって、電車は一本見逃すことになる。さすがに、基地内でわたしのことを見かけたことくらいはあったのかな。キューンとまた動きはじめた電車の音に、カバンに手を突っ込んでペットボトルをつかみ、キャップをひねって水をふたくち飲んだ。
 平日、午後二時ごろ。まだ会社員の定時はおろか、高校生の帰宅時間にも早すぎる。わたしは早退をキメているわけだが、学生服姿の彼は、学校はどうしたのだろうか。スカウト組だから基地内に住居があるはずなので今日はまだ学校へ行っておらず、今から──という線は薄すぎるか。行き先を聞けば将棋会館へ向かうという。将棋を指せるのか、そしてそれはどこの駅にあるんだろうかとは思ったけれどそれ以上問うのはやめておいた。
 都会のように数分ごとに数台の電車が入ってくることはない。立ったまま線路をみつめ続けるより、ベンチに腰掛けることを彼がえらぶのはいたって自然な流れだった。
「封印措置でもしてもろたらどうですか」
 一人と半人分くらいじゅうぶんな距離を保ち彼にならって木製のベンチにお尻をつけたわたしに、彼はそう言った。どうやら彼はわたしのことをそれなりに知っているらしい。数週間前、ボーダー全隊員の1割にも満たない、通信室で亡くなった職員たちのなかにわたしの同僚がいたことを。もちろん、わたしたちは所属はちがえど同じ機関に在籍しているのだから、彼にとっても同僚だとはいえる。
「……考えなくもないけど、思い出してもらえなくなったときが、ほんとうに死ぬときだって言うじゃない?」
「死にたくなるくらいなら覚えとらんほうがええんとちゃいます」
「だから、死にませんから」
 神に誓っても飛び降りる気や死ぬ気などは、さらさらなかった。ただ、そうすれば楽にはなるのかもしれないな、とは思った。思っただけで、実行するわけではない。そうするつもりなら彼がいった通り、急行とか特急の通過をねらっただろう。死にたくなったわけではないが、そういう選択をする未来をいっしゅんでも思い描いてみた、というのは不健康な証拠だとはいえる。現に、わたしは体調がすこぶる悪く、なにを食べても食べなくても継続的に吐きそうで、こうして仕事を切り上げ駅にいたわけだった。
「……顔と声と匂いと、感触と。どれから忘れていくのかな」
 そのわりに、わたしは饒舌になる。ボトルをべこべことへこませたり、戻したりしているあいだに、さあ、どうですかね、とぼんやりとした相槌をきいた。
 部下に注意するときの申し訳なさそうな表情、低くひびく笑い声、ふととなりを通りすぎていくときのひかえめな香り、酔っ払ってわたしの肩にもたれてきたときの熱。それらをじょうずに思い出せなくなるときは、きっと来るだろう。わたしが同僚と過ごした時間は勤務時間から考えれば長かっただろうけど、関係性としては深いものではなかった。同僚以上のなにかにはならず、おわった。
 玉狛の子を恨むのはまちがえている。恨むべきは人型だ。そうは思っても、いたたまれなかった。だって、みえるのでしょう。彼の死は、避けられたんじゃないのか。彼は不要な人間だと切り捨てられたのか。彼の代わりに、怒鳴ってやりたかった。
「鮮度いい状態で封印してもろて、追々思い出してみます?」
「お願いすれば、戻してくれるもんなのかな?」
「できるんちゃいます? まあ、知らんけど」
「ってか、一回忘れたら思い出したくもならなくない?」
 彼が、はっ、と笑う。気がつかれてしもた、みたいなニュアンスだろうか。たとえばなしでもちゃんと自分が置かれる状況を考えられて、ついでにテンポよく会話ができている自分に少し、ほっとした。そして同時に、落胆もした。
「……もし忘れることにしたらさ、いつか思い出させてくれる?」
「……まあ、それは、いやですね」
 急行電車の通過アナウンスのタイミングとかぶったお断りの声に小さく口が上がってしまう。
 わたしたちは今日はじめて会話をしたし、そんなに近くにいる人間ではない。今日のこの時間は偶然の産物でまぼろしのような、これからも続いていくものではないだろう。だから彼にそんな役目は現実的には果たせない。だからといって、あえてはっきりNOをつきつけられるとは思わなかった。そこは、ええよ、とか言って、わたしが楽になるのを後押しするところではなかったか。そもそも、いやですね、ではなくて、できないですね、というのが正しいのではないだろうか。
 うつむいていれば、ふっと自分をよぶような音がして思わず彼の目をみる。空耳だろうかと首をかしげると彼の口がひらき、なにかを伝えようと、うごく。
 スピードを保ったまま通過していくざわめきに紛れたその先を、列車風を受けながら聞き返したけれど彼はあたまをかくだけで、ついぞくり返してはくれなかった。