二死満塁(先)



 髪を切ってくれ、とメッセージを送ってから数日のあいだ連絡がなく、やっと返って来たかと思えば『今からなら。ルームCで』という、急で短いメッセージだった。
 防衛任務終わりに食堂でイコさんと夕飯をつついていたところだったので、早々にかきこんで指定されたエンジニアフロアの一室へと向かった。簡易ベッドに腰掛け、缶コーヒーを振っていた彼女をみるに、まだ今日の勤務は終わらないようだった。
 横に座って取り留めのない話をしていたなかで、野球部に入れられてピッチャーをしているのだと近況を報告すると、彼女は声を上げて笑った。簡易ベッドが揺れる。身体がくっつきそうな距離で、ベッドに座って会話ができるふたりの関係に、まだ名前がついていないと言えば、人は驚くのだろうか。
「なんでまた、投げてみようと思ったの」
 くつくつと笑いが止まらない様子の彼女にとって、俺がマウンドでワインドアップをしている姿は相当に滑稽なものらしい。否定はしない。
「イコさんが彼女と愛のキャッチボールすんねん、なんて言うもんやから、教えてやっとったら流れで入部ですわ」
「あれ、水上くんは将棋じゃなかったの」
「将棋やっとったらそれ以外には触れられへん、てこともないでしょ」
 経験者といっても小学生のころ、友人の付き合いで少しなぞっただけではあった。彼女の言うとおり、盤面に向かってじっと対話をすることを好んではいたが、だからといって外で身体を動かすことが嫌いだったわけではない。
「水上くんは、生駒くんに弱いね」
「いつも世話んなってますから」
「水上くんがお世話してるんじゃないの」
「うーん、いや、イコさんにはいろいろ目ぇ瞑ってもらっとるんですわ」
 へえ、と相槌をうちながら、彼女は自分の髪の毛を人差し指にくるくる巻きつけている。この人がこの動作をするときは、あまり話を聞いていない。
「てか、水上くん、帽子被れるの? 浮かない?」
 なんて言って、また想像して笑っている。彼女の興味は完全に、今横にいる俺ではなく、マウンド上の俺に振れていた。
「今度、紅白戦やるんやって」
「へー。投げるの? 0点に抑えられたら、ひとつお願いを聞いてあげようか」
「なんや、酔っ払いの王様ゲームみたいやないですか」
「えー、じゃあやめた」
「いやいや、ごほうびちょーだいな」
 唇を突き出して拗ねる彼女の膝を叩いて、機嫌をとろうとする。
 連絡は俺からしなければ彼女からはないし、本部と球場以外でふたりきりになろうともしない。そのくせに、餌を垂らす彼女の真意はわからない。まさかこの期に及んで「焼肉おごって」「宿題手伝って」。そんなことをお願いされるとでも、思っているのだろうか。そうなのだとしたら物わかりのよい子どもに見えている俺が、悪いのだろう。
 ふたりの関係に名前をつけないことに、擦れた大人ぶって納得していた。なにせ、相手は擦れた大人だ。それに俺も甘えている。彼女の結婚観など聞いたことはなかったが、年齢的にそういったことを念頭においていたとしても不思議ではない。だから、俺がどう思うかは別にしても、ぬるくてゆるい、なだらかな関係を彼女は求めているのだと理解している。当然、本人に尋ねなければわからないことだが、問う隙を彼女は与えてはくれない。
 彼女はきゃんきゃんと騒々しいわけではないが、おしゃべりだ。俺に慣れてしまってからはマイペースによく話す。「べらべらと話し続ける女は色気がない」と、男たちが声高らかに酒を片手に語っていそうだが、そこを強行突破して色気を醸し出す技量のない男たちの、言い訳なのではないだろうか。
 たとえば今、彼女の口を口で塞げば、彼女の手元の液体が跳ねるだろう。その後のシーツや床の掃除には気が乗らない。彼女はそこまで計算したうえで、ブラックコーヒーを持っているのではないかとすら思えてくる。
 彼女も、どうしたいのかわかっていないからこそ、こんな一貫性のない言動をするのかもしれない。好意をもっているからといって、なんらかの形にする必要はけっしてないのだ。少なくとも彼女は自分で結論を出すことを、放棄している。「水上くんが決めていいよ」と彼女は意思表示をしたのかもしれないが、それならば少しでいい、黙っていただきたい。
「さっさと髪の毛、切っちゃおう」
 意図的に置きっ放しにしていた俺の手を、ご丁寧に膝からおろし腰を浮かす彼女は、準備をしながらも口は閉じない。彼女がテーブルに缶コーヒーを置き、代わりに新聞紙を手に取る姿を、手伝うこともせず眺めていた。


 俺の名前がコールされたのは、イコさんのつくったツーアウト満塁のピンチだった。九回裏、三対二。同点ないし逆転サヨナラ負けのピンチ。前言撤回、俺はイコさんのお世話をしとる。イコさんは顔面蒼白でひと言も残さなかったが、キャッチャーをしていたイコさんの彼女は、ごめんねー! と、俺の肩をひとつ叩いた。
 投球練習を終え、内野席のライト側をちらと見れば、缶ビールを持ったエンジニアの女が控えめに缶を持ち上げて、笑っているような気がした。
 んなわけあるかい。見えるかいな。
 これではまるで、コンサートでアイドルと目があったと騒ぐファンの思考回路だ。しかもこの場合、フィールドにいる自分が見られる立場であるべきだろう。
 換装体の頭に無理矢理キャップをくっつけてくれた、普段と異なる体型をしたエンジニアの男に向き合う。試合後に会う約束を取りつけている彼女にするつもりのお願いごとを、ボールをにぎり直しながら反芻した。