waste pitch



 女子トイレが男子トイレより空いている。そんなめずらしい場所のひとつが野球場だ。その他、競馬場や競艇場などもそうだった。
 ヤクルトファンの恋人が行きたいのではないかと思ったのでボーダーの福利厚生でチケットを取ってみたものの、わたしがもう地下鉄に揺られ、目的地まであと二駅のところで当の恋人からは残業で行かれないとメッセージが入っていた。野球場というのはビアガーデンの役割も果たしてくれるので、野球に詳しくはないわたしにとっても好意的に思える場所だったから、そのまま向かうことに決めた。それにおそらく、席のまわりにはボーダー関係者がいるだろうから知り合いもいるかもしれない。
 そもそも最後に恋人と一緒に来たのはいつだったか。暑かったか。まだ肌寒かったか。恋人にほとんど会えていないのは社畜の巣窟のエンジニア界隈では仕方がないことなのか。それとも気持ちの問題か。その判断を積極的に下せるほど精神的な余裕がない労働環境であることは確かだった。

 売店からビールと唐揚げが出てくるのを待ちながらぼんやりと男子トイレに続く列を眺めていたら、見覚えのある頭が先頭にあった。気がついた瞬間に彼はトイレの中に消えていったので、彼が出てくる時間と受け取りの時間を引き算して、出待ちをすることに決めた。


 水上くんとまともに時間を過ごしたのは二か月ほど前の金曜日の夜、一度きり。彼がエンジニアのフロアにある一室の扉を開けた先にいたのがわたしだった。濡れてボリュームダウンした髪の毛のせいで、失礼しましたと開けた扉を再度閉めようとしたその男の子が水上くんだと気がついたのは、彼の退出をわたしが止めて彼が改めて名乗った時だった。
 隊員用の仮眠室の申請を失念していたので部屋を貸して欲しいと彼は言った。エンジニアのフロアの部屋にはだいたい簡易ベッドが設置されているということを彼は知っていたのだ。
「仮眠室とかよー使わんので忘れとったんですわ」
「そんなに忙しかったの?」
「いやそうでも。気がついたらこんな時間で。明日防衛任務朝からやし、帰るんもだるいなと」
 こんなんはじめてですわと頭をかく水上くんはスカウト組だからボーダー内に部屋があるものだと思っていたけれど、違うようだった。作戦室ではダメなのかと聞いてもよかったけど、引き留めたくせにやっぱり追い出したい人みたいだからやめておいた。
「髪の毛でイメージ変わるね」
「切り行く暇なくてえらいことなってます」
「切ってあげようか」
 はい? と間抜けな返答をした水上くんの声を聞いて、わたしもはたと我に返る。一徹していることを差し引いても随分と血迷ったことを言ってしまったものだけれど、ここで引くのも気味の悪い他部署の年上女なので「わたし理容師免許持ってるんだよ。親の仕事継ぐつもりだったから」。あとの判断は水上くんに任せることにした。
 継がずになぜこんな場所で働いているのかなどという野暮な問いかけを彼はしなかった。想像力が働く子なのだろう。そう、その店はあの侵攻時になくなってしまったのだ。そういう事情を抱える人間は三門市においてはまったく珍しいことではない。
 詮索の代わりに「お言葉に甘えてもいいですか」。笑った水上くんを置いてわたしはロッカーまでドライヤーとハサミ、それにケープを取りに行って戻り、大した話もせず、彼の髪の毛を乾かし、手短に切った。なんだか申し訳なかったのでいくらか押し問答を繰り返して、わたしは違う部屋でその日は眠った。
 凡ミスで本部に泊まるなどはじめてのことだと彼が言ったことは本当だったのだろう。それ以来彼が部屋を借りに来ることはなかったようだった。


「水上くん」
「うお、びっくりした」
 トイレから出てきた水上くんはわたしの顔を見るなり態とらしく思える驚いたリアクションをして足を止めた。黄色のユニフォームが似合っているような、似合っていないような。オレンジ色の髪の毛とのバランスはあまりよくないように思う。普段の隊服が赤色のせいもあるのだろうか。
「あれ、いました? 気が付かんやったわ」
「今来たところなんだ」
 ビールと唐揚げを小さく掲げると、肩にかけていたトートバッグが居心地悪そうに腕までずり落ちて来た。
「一口ちょうだい」
「お酒はハタチになってから」
「唐揚げのほうやし」
「ねえそれ、一口じゃなくて一個だよ」
 わたしの片手から唐揚げの入ったケースを奪うと本当に水上くんは爪楊枝を唐揚げに突き刺して口に運んだ。唐揚げのために人差し指と中指で挟んでいたチケットを親指と人差し指で握り直す。そういうことするんだと真顔で咀嚼を進める彼の顔を軽蔑の眼差しで捉えながら思う。唐揚げはのこり四つ。
「ヤクルトファンなんですか?」
「いや、別に。強いて言えば、つば九郎ファン?」
「ほな、今日阪神勝ったら阪神ファンなってくださいね」
「何それ」
 目を細めて中継が映し出されているモニターを見上げるけど視力が足りていないわたしに、2-0で阪神だと水上くんは教えた。ちなみに3回裏。まだまだ序盤だ。
「また髪の毛切ってくださいよ」
「水上くんの髪の毛をボリュームダウンできるような技術はないよ」
「俺はこれ気に入ってるんでいいんですわ」
「じゃあ、ヤクルトが勝ったらね」
「何それ」
 眉間にしわを寄せて不満を表してから水上くんは「先に戻ったほうがいいですか?」と、わたしに確認をした。彼にはわたしのとなりにいるはずだった人が想像できるらしい。二度首を横に振ってからチケットを彼の顔面に向けて振った。わたしの座席を確認した彼は「イコさんの隣の席やん。席変わってもらお」。わたしの唐揚げを持ったまま歩き出したので、いつもより少しだけ短いスカートを気にしながら、一緒に歩き始める。わたしもいい年だ。この試合の結果がわたしたちの約束には影響を与えないであろうことは、よくわかっていた。





・・・・・





「ちょっと、髪切ってくんない」
「ごめーん。今日は先客があるんだ」
 日が落ちて随分経った頃、同僚で隣に座っていた寺島雷蔵のリクエストを荷物をまとめながら女は断った。
「生駒隊の水上くんからご予約が入っております」
「てか、こないだそいつと一緒に野球観に行ってなかった?」
「うん。ドームに行ったよ」
「まさかとは思うけど、付き合ってんの?」
 手を止めることなく女は否定の言葉を返す。私物を詰め終わったトートバッグをぽんと両手で叩いて、女はやっと雷蔵のほうに顔を向ける。
「質問を変えようか。好きだって言われた?」
「いや、うーん? どうかな」
「うわっ マジで」
 雷蔵はおおげさに仰け反ると意味深に何度か頷いた。
「もうわたしは結婚を考えられる相手としか付き合いたくないなあ」
「いくつだっけ」
「水上くんは、じゅーはちでしょ。せめて雷蔵くらいの年齢を希望するよ」
「じゃ、俺にしとく?」
「……そういうの漫画の世界でしか聞いたことない」
「ほら、なんだかんだ、妥協できないんでしょ」
「雷蔵で妥協する女って、随分自分を高く見積もってる勘違い女だと思うよ」
「それは俺のことをほめてる?」
「とっても」
 背を向けた女を視線だけで見送りながら、雷蔵は伸びすぎた前髪を引っ張った。