──三年生・九月
「この学園に女の人っているんっすか?」
クルーウェルの走り書きのメモのとおりに薬草や毒草を摘んでいるであろう、ジャックの声が植物園内に響いている。
「今朝、『オンボロ寮の窓から裏の森を見てたら女がいて、オレ様が叫んだら箒に乗って逃げてったんだゾ』──って、オンボロ寮のヤツが話してたのを聞いたんです」
組んだ手を後頭部に敷きドームの天井を見上げていた視界に影がかかる。
「心当たりないっすか」
ジャックは俺の顔を覗き込み、俺に尋ねている。わかっていた。周囲にはほかに誰も見当たらない。
「……なんでそんなもんを俺に聞く」
「だってレオナさん、学園に生徒としてはいちばん長くいるんじゃないんですか?」
「はっ、よく言うぜ」
「生徒はさすがになさそうですし。職員とか、業者っすかね?」
知らねえ、昼寝の邪魔だ、と手の甲で払えば、ジャックは、おとなしくデカい図体を屈めていた背を伸ばした。間もなく予鈴が鳴る。コイツに話を続ける時間はない。それに、そこまでその存在を気にしているわけではないだろう。
「……おい。今日、何日だ」
「え? えっと、30日っす!」
小走りで駆けていく靴の音をBGMに、また静かにまぶたを下ろす。
──二年生・十月
ゴーストの棲みつくオンボロ寮に人が訪ねて行くことはなかった。ましてやその裏の森など、立ち入りを禁止されていなくとも誰も立ち寄ろうとせず、草木すら息をしていないようだった。木々の隙間に夕焼けの色が映る。
ひとりになれるというなら、つい先日手中に収めたサバナクローの寮長室でもよかったわけだが。
二年目の寮対抗戦はディアソムニア寮の圧勝で終わった。その他の寮生たちは(なんならチームメイトですら)彗星の如く現れた二本のツノを生やしたトカゲとその周りを飛び回るコウモリに圧制された。
学園対抗戦でサバナクローの威厳を取り戻そう。今回は運が悪かった。次がある。皆は口を揃えた。
さて、ほんとうにそうだろうか。
一般的な寮長ならば、それらに同調し群衆を鼓舞するだろうが、あいにく俺はそういった熱血主人公タイプではない。それを俺に求めるヤツもいないだろうが。
枯葉を踏みしめる音と、遠くで余韻に浸る声のざわめきが重なるなか、ふとこの学園で嗅ぎ慣れない臭いを認識した。気配を消そうとしている意識や魔法の痕跡もない。身を隠しているわけではないらしい。
視界に人影が入ったときには、こちらも気取られないようにしていなかったのだから取り立てて驚くべきことでもないが、人影は背後に俺をきちんと察知して、くるりと振り返った。髪がゆれる。
「おい」
「……はい」
くわえていた煙草を左手の人差し指と中指で外し、女は答えた。手元できらり、と華奢ながら実のある指輪が煌めいた。
妖精に引けを取らない肌の白さが冬の訪れでも告げそうだった。
「煙草」
「この学園、禁煙とは言われてないよ。喫煙可とも言われてないけど」
両肩を上げて無罪を主張している。なにも俺がここで喫煙を咎めるわけもない。
「くれ」
「……ああ!」
どーぞ、と女はポケットから箱を取り出して下手で投げた。葉っぱと紙の重みだけでなく、中にはライターも入っているようだった。
「でも、いいの? きみ、レオナ・キングスカラーくんでしょう。今日だけじゃなくて、去年の寮対抗も、5月の学園対抗戦にも出てたよね」
続く言葉にはおおよそ見当はついている。スポーツマンが喫煙していいのか、とかなんとか。
箱から引っ張り出した煙草を唇に挟み火を灯す。ライターを仕舞って投げ返せば、煙草をくわえなおしていた女は両の手でそれをキャッチした。
「魔力と喫煙に関する論文、先月新しいものが発表されてたよ」
シーシャこそ寮に常備されているとはいえ、俺は愛煙家というでもない。今回はただ、ここから離れない理由がほしかっただけだ。
「……教師か?」
「センセーに見える? バックオフィスの人間だよ。ファイナンス部……って言っても、わたしともうひとりしかいないんだけど」
「そういうモンは魔導式で全自動かと思ってたな」
「管理システムは使ってるけど、手動のほうがいろいろと誤魔化しが効くってことじゃないかなあ。不正をしたって魔法の痕跡を辿れないから、隠蔽しやすいんだと思う」
ナイトレイブンカレッジが不正会計をしていることが前提となっている考察だった。
イグニハイド寮生に開発してもらえば、なんとでもなりそうなモンだが。雇用機会を提供してやっている、なんて、クロウリーの慈善活動だろうか。
バルガスがしょっちゅう領収書を紛失すること、クロウリーが移動に列車を使うのにどの経路か覚えてないこと、トレインがオンラインツールに疎くて申請がめちゃくちゃなこと、クルーウェルがなんでもしれっと経費にねじ込もうとしてくること、などを彼女はマニュアルの弊害として述べた。
そんなヤツらを捌けているっていうなら、そこそこ仕事はできるのだろう。
「つうか、職員の建物からここまで遠くねえか」
「嫌煙家もいるし。あと今日はちょっと正門のほう、人多くてさあ」
木々の間を縫うように聞こえてくる歓声や歌声。確かに、職員用の建物のあたりはまだ混雑しているだろう。
「今日は仕事放り出して試合観てたってのか? いいご身分だな」
「自分の職場の生徒たちを応援するのはおかしなことでもないと思いまーす」
はいはーい! と授業中の生徒のように挙手して、
「わたしは針に糸を通すような緻密なプレーとか、泥臭いプレーに心踊るので、今日の試合は、ポムフィオーレとハーツラビュルの一戦目がなかなかよかったです!」
どうやらこの女も例にもれずマジフト観戦を趣味としている国民らしい。
「そりゃ、うちの寮は期待外れだったろう。相手はおろか、自分に泥すらつけられてねえよ」
「ディアソムニアは今回パワーとスピードで押し切っちゃったけど、すぐに連携もとれて、チームとしても確固たるものになるだろうね!」
ナイトレイブンカレッジの生徒に連携もクソもあるか。と言いたいところだが、寮や学園の勝利はつまり個の能力の現れだ。利害一致のうえで成り立っているチームプレイである。
ああ、楽しみだわあ、と彼女はヤツらに踏みにじられた俺を気にする素振りもない。魔力と煙草の論文がどうとか偉そうに知識をちらつかせようとしておきながら、
「さて、そろそろ仕事に戻るよ」
携帯灰皿をスライドさせて、彼女はぐりぐりと真鍮に煙草の先端を押し付けながらこちらへと歩み寄ってくる。
「火の元注意」
オールインワンの袖を結んだウエストに、灰皿と煙草の箱が捩じ込まれる。
彼女は硬そうな肩をほぐすようにぐるぐると腕をまわしながら、去っていく。
──二年生・四月
正気の感じられないオンボロ寮の森にも花は咲く。
イースター明け、戻ってきた生徒たちを歓迎でもするかのように燦々と降り注ぐ陽光に目を細める。喜ばしいわけではない。眩しいからだ。昼寝には、すぐに捕捉されることを除けばやはり人工的な植物園のほうが好ましい。
ざわざわと葉の擦れ合う音が歌うようにさんざめく。定位置を目指していれば一筋の光がまるでスポットライトのようにひとつの人を照らしていて、俺はその後ろ姿に見覚えがあった。
ひと声かけようと一歩踏み出したところで、自然の奏でる音色からはみ出た音を聞いた。嗚咽を押し殺したような濁った響き。息を思い切り吸い込み、片方の鼻口を塞いで鼻から吐き出す音。
泣いている。
だりいな、と後退ったときにはやはり遅く、彼女は上下していた肩を数秒かけて止めて、視線だけで俺を捉えていた。
数か月前に押し付けられた携帯灰皿にはご丁寧にイニシャルが彫られていた。おそらくは贈り物だ。基本的に別の建物内で仕事をしている彼女とはそうそう会えることはない。今、返すほかない。
舌で音を発する前に、
「ここは、花粉がひどい」
と、彼女ははっきりと述べた。
「こんなとこに自ら来るんじゃねえよ」
ふたたび背を向けた彼女に、おい、と呼びかけるが首や身体を動かす素振りはない。
痺れを切らしてざりざりと土を鳴らし、左肩を叩く。見下げたつむじから赤くなった鼻先へ視線を転がして、はたと弾かれたように気がつく。
「お前────」
思わず息を呑んだ。
透き通るような白い肌が、左目と頬骨の境の皮膚の数センチ変色した箇所を際立たせていた。
皮下出血斑の具合からして数日は前のものだろう。幸い、眼窩底骨折には至っていないように見受けられる。
「……花粉だよ」
「花粉で打撲痕はつかねえだろうが。ちったあマシな言い訳を考えろ」
「……マジフトのディスクが当たった」
握り込んでいたハンカチを鼻に当て、女は鼻をかむ。
「わかると思うけど、わたしの実践魔法は持続性がとにかくなくて、隠しておくにも適度な休憩が必要です」
コイツは確かにマジフト狂ではあろうが、とてもじゃないがじゅうぶんにプレーできるような魔力や体力がない。かといって、客席へ突っ込んでくる、極限まで減速されたファールくらい、この女は避けられるはずだ。
「誰にやられた」
うっすらと痣にかかる細い髪の毛を掻き分けると、肩を揺らして女は俺の手を払った。反射的に手首を掴む。脂肪より骨が主張するその細さに、込めすぎていた力を弱めた。
「……キングスカラーくんには関係のない話だよ」
「関係あるかないかは俺が決めることだ」
じっとうつむいたまま、女は押し黙った。それでも離されない手に観念したのか、
「……婚約者」
────ああ。哀れなことだ。
季節の変わり目に傷が疼くこともない自分の左目に走る古傷が、女の左手の薬指にちらつく光に呼応して主張するようだった。
「負けが込んでたから、イライラしてたんじゃないかな」
「は? ギャンブルか? ふざけた野郎だ」
「……いや、試合の」
プロのマジフト選手なんだよね、と女はつぶやいた。
暴力を働いた男への恨みや恐怖ではなく、どこか誇らしさすらはらんでいた。気味が悪い。
「ガキの傷の治療には慣れてる。傷が残らねえようにしてやる」
どうせ、詮索されて男の処遇に関わる事態になることを避けるべく、どこにも受診していないのだろう。
傷といっても出血の大きな痕はない。腕を解放する代わりに、そっと患部に手のひらを添える。腫れさえ退けば絹のように繊細な白い肌は汚されないはずだ。
「観に来るんだろ、来月の学園対抗戦」
こくり、と何も持たぬ迷子の子どものように頷く。大の大人の女が、情けねえことだ。
「……お前は何も悪くねえ。こうしてればよかった、ああしてればよかった、って思うのは勝手だが、大前提を忘れんじゃねえ。お前は、何も悪くない」
かざしていた手をおろして、ポケットの中の携帯灰皿を握る。うんともすんとも言わずに、女はただ困ったような笑顔を貼り付けていた。
──三年生・二月
「一杯おねえさんが奢ってあげよう」
麓のパブのカウンターでオーダーを待つ群衆の合間から女がひょっこりと顔を出した。上気した頬は屋内外の気温差だけが原因ではないだろう。
「王子様もこんなところへ来るのね」
「これはこれは、おねえさん。ご無沙汰しております」
「うーん、そう言われると義理の姉みたいだ。それにしても目立つね、キングスカラーくんは……」
女はアイスだけが残ったロックグラスをハイテーブルに置いた。
知らぬふりはできなかったよ。気が付かなかった、って言い訳はできそうにないし。と、抱えていたウールのコートからカードケースを引っこ抜く。
通りかかったスタッフがトレイにがしゃがしゃと空いたグラスを載せながら人混みを掻き分けていく。
「おお、ちゃん!」「郵便局のおっちゃん!」「あ、ちゃんじゃないの」「花屋のおばちゃん!」
「あら、隣の獣人さんはNRCの代表の子じゃない」「今年の学園対抗戦はがんばれよ!」
彼らは総じてマジフト観戦常連客なのではないかと思われた。冬季、マジフトやフットボールはオフシーズンで、今夜は無音でダーツの試合が中継されている。その代わりに店内には伝統的な地方音楽がかかっている。
「『キングスカラーくんの出席日数が足りないんですよ! 親御さんになんと言っていいやら!』って、こないだ学園長が電話口で嘆いていたよ」
「なんだ、まだ働いてたのか。不正会計でもバレてトカゲの尻尾切りにでもあったのかと思ってたぜ」
中途半端に似ている声真似のせいで、それについてはコメントしかねた。
この女────に最後に会ったのは、昨年の学園対抗戦の前だった。およそ九か月ぶりの再会だ。実際、もう少し感動の再会を装ってくれたって罰は当たらない。
「じつは、フリーランスになったんだ。NRCのお仕事も請け負ってるけど、基本的にリモートで対応してるの」
「それは結構なことで」
「なんだけど、教師たちのケツをダイレクトに叩きに来ないと、請求書も出ないし勤怠も締まらないしひどいもんだということがわかったから、月末月初は顔を出してるけどね」
ぎゅうぎゅうと詰め込まれていく草食動物たちの波に飲まれていくの腰に手を回して引き留める。抵抗することなく腕に収まったは、俺を見上げた。
「あのね。別れたよ、ちゃんと。ついでに、浮気もされてた。カレッジの同期に薔薇の国出身の敏腕弁護士がいてさ、慰謝料も取れる限り、しっかりとった」
「はっ、フルコースだな」
を支えていないほうの手を、血管が滲みそうなほど薄い左目の下の皮膚に添わす。びくり、と肩が震えた。
「ご、ごめん、びっくりして」
俺は殴らねえよ、と言いたくもあったがそういった問題でもないのだろう。この女に元婚約者のクズが負わせたのは身体の傷(は、治ったが)だけではない。
「きれいに治ってよかったじゃねえか」
「……おかげさまで。ありがとうね」
反射的に拒絶した手前、居心地悪そうには前髪を払った。
「何飲むんだ」
「ウイスキー、ロック」
そのままバーカウンターで忙しなく動く男に復唱し、「ふたつな」とカードを差し出せばは目を丸くしてから、花のように笑った。
──三年生・九月
「毛玉みてーなのが、お前のこと言いふらしてるみたいだぜ」
そういうわけで、オンボロ寮を重宝していたのはツノ野郎だけではないのだ。
人の出入りのないはずだった喫煙場所は、ひとりと一匹が暮らす場所になっていた。
次に喫煙所に選ばれたのは鏡舎裏だった。人通りが多くなく木が密集しているうえに、香りの強い植物もあるから喫煙にも、昼寝にももってこいである。
「けだ……ああ、あのネコみたいな魔獣ね。びっくりして、思わず逃げてしまった」
あそこはいい喫煙所兼休憩所だったのになあ、とは煙草をふかす。
「あれ、四年生はインターンじゃないの?」
木に立てかけられていた箒を掴んで、俺に向かって突き出す。
「……うるせえな」
「ああ、ほんとうにダブったのね」
とくに呆れる様子もなく、けらけらと笑いは短くなった煙草をケースにしまう。もうかつてのそれを返却する必要はないのだろう。
学園内の箒通行許可を取っているのかは知らないが、ひょいっと年季の入ったそれにまたがると、
「じゃあ、ほかの取引先のケツも叩きに行ってきまーす」
ひらひらと手を振るように、髪の毛がゆれる。
──三年生・十月
ラギーやジャック、チェカ、それにオンボロ寮の監督生と狸の毛玉とその愉快な仲間たちは追い出した。
「月末月初じゃねえぞ」
煙草の臭いがしていた。おそらくはラギーとジャックは気がついてはいただろう。
ベッドに仰向けになったまま、その姿を捉えずに声をかける。ベッドとベッドを仕切る布に影が映った。
「……試合、観てたの。パブで」
かつての職員でありお取引様、そしてマジフトを生き甲斐にしているはずのに、クロウリーが関係者席をあてがわないわけもない。アイツはそういうところは大事にする男だ。売れるものは売り、いざというときの何かにするために。
「で?」
「……来ちゃった」
近寄って俺の顔を覗き込むことなく、声だけが流れてくる。
「大丈夫?」
それはこちらのセリフだった。
現地観戦ではなくパブでの観戦を選んだのは要するに、コロシアムには立ち寄りたくなかったのだろう。の元婚約者は、ナイトレイブンカレッジの卒業生だ。察するに余りある。
「お前は保健室のセンセーじゃねえだろ」
「いや、まあ怪我もそうだけど。なんか……随分参ってたのかな、って」
窓際にが背中を預けた気配がした。
「勝ちたかったんだね」
「なんだ、おねえさんが慰めてくれんのか。身に余る光栄だな」
「……うん」
鼻で笑えばひとつ声がした。否定返し前提の問いへの予想外の肯定に面食らう。
「……同期と観てたんだよ、弁護士の。それで……キングスカラーくんが治療したときの痕跡から診断書を強引に発行してくれて、しまいには浮気の証拠の山をかき集めて持ってきたんだ、って」
守秘義務はどうなってんだ。タコ野郎のように契約書を交わすべきだったか。
の元婚約者は、そこそこ名の知れた選手だった。当然俺は社会的にも抹殺してやりたかったが、がそれを心から望むとは思えなかった。
絶対にマスコミや関係者には事案を漏らさない。元婚約者のキャリアに傷をつけない。そんな馬鹿げた制約を設けて、各所に根回しをしてまで────。
ぎし、とベッドが鳴って、天井は半分も見えなくなった。瞬きの瞬間にはウイスキーと煙草の香りに包まれた女の髪が頬をかすめている。
「……ここをどこだとお心得で?」
「わたしの取引先であり、きみの通う学校」
「どうやって慰めてくれるのかは俺には想像もつかねえが、やめておいたほうがいいだろうな」
悪戯に口角を上げて、冗談に決まってるでしょ、とは身体の重心を戻そうとする。瞳に月光が宿る。マットレスから離されかけた片腕を掴んで、引き寄せた。
ふたたび近づいた薄い顔に片手を沿わせた。親指で執拗に目尻を擦るようになでつける。指先の体温が溶けていく。
「……嫌なわけじゃねえ。酔った勢いでした、なんて、冗談にさせねえためだ」
当たり前だ、勝ちたいに決まっている。