湯呑みが割れた。
中学校の修学旅行先の京都で、なんとなく購入した新撰組のメンバーの名前が印字されている湯呑み。はじめてそれを見た清光と安定は、それぞれまずい飯をさもおいしそうに食べているときのような、複雑そうな顔をした。まあ、かわいくもかっこよくもなんともない湯呑みだけどさ。べつに放っといてくれよ、と思ったものだ。それから彼らと新撰組との繋がりを知ったという、わたしは主にふさわしくない女である。
そんな湯呑みは実家から本丸への引っ越しの際も、なにも迷うことなく段ボールに詰めたわけだけれど、特別、お気に入りというわけではなかった。ただ、そこにあったから、今もここにあったのだ。
深夜、メリヤス編みと裏編みを順にくり返しただけのお手製カーディガンを肩にかけて台所へ向かった。眠れなかったので、それならば山のように積み重なっていた書類でも捌いてしまおうと考えたのだ。ほんとうにそうするのか、ただ茶だけしばいて夜が明けるのかは五分五分だった。
わたしが手を広げても端から端は届かない横に長い三段の引き出しの上にオープンボードが載っていて、上部にはプッシュオープン式のガラス扉が三つ並んでいる、我が本丸の木製食器棚。結構洒落ている。
その上の扉の先に収納されているのが見えた湯呑みを引っ張り出そうとしたら、無理して伸ばしていた手から離れて落下した。いつもならボードの隅に手動のコーヒーミルとふたつのマグカップと共に置かれているのに、おそらくだれかがここを掃除したときに一旦片付け、そのままになっていたのだろう。責められない。
コーヒーを毎日飲むのは、わたしとにっかりと歌仙だ。わたしはインスタントで構わないのに、黒々とした液体の出生に興味を示した歌仙がいろいろと揃えたがった結果、毎朝豆が挽かれている。歌仙とにっかりの分として発注したのが、無傷で棚に収まってくれているふたつのマグカップだった。
こちらを割らなくてよかったとはいえ、音を認識したのが先か、床に転がる分裂した湯呑みを認識したのが先か。自分の左側に転がったそれらに、とにかくこの状況に、狼狽えていた。
「どうしたんだい?」
「……歌仙」
破片を見下げていた視線を、開閉の音のした同線上の勝手口にそのまま上げれば、今しがた思い描いたばかりの存在の登場に、ほんのり緊張感が走る。どうしたもこうしたも、見たままだよ。と、わたしはまた目を下にやる。
警備のためにこの時間も起きて表へ出ていた歌仙がここへ来たというのは、割れる音を聞いたからだろう。寝静まっている刀たちが、起きて来なかったのは幸いか。
「見ていたって、元に戻らないよ」
半笑いを浮かべる歌仙は「割ったこと、ないのかい?」こちらへ歩みを進めて、わたしと湯呑みだった陶器の前で腰をかがめる。
「だ、だめ!」
わたしがやるから。わたしが割ったのだし。
そう言ってわたしは破片をつかもうと、指を動かしてもらいたくないということを示した。
「僕がやるべきだろう?」
「……そんなこと、させられない」
歌仙に、というより、本丸にいるすべての刀という神さまたちに、させられない。と、わたしは咄嗟に思った。
「炊事洗濯その他諸々をやらせておいて?」
「……」
ぐうの音も出ないとはこのことか。
とりわけ刃物に刃物を扱わせている奇妙さはたしかに感じてはいたが、わたしはわたしの不得意なことを率先してやってくれる彼らを目の前に、目をつぶっていた。
さすがに素手では触らないよと、歌仙はゴミ箱のペダルを踏みつけてセッティングされていた袋を外し、底からストックのビニール袋を一枚と、軍手をつまみ出す。粉々に砕けた、というわけではなかったから、いち、にい、さん、と、三度の動作ですぐにそれらは袋に収まった。
「明日も早いんだろう」
「……」
とっととお休み。と表情で語りながら軍手を外す歌仙には従わず、わたしはまだ突っ立っていた。
「……コーヒーはやめておこう。ミルクティーでいいかい?」
「……うん……」
引き出しを引き、缶からアッサムのティーバックをひとつ、ふたつ取り出す。長い腕で下ろされた歌仙とにっかり用のマグカップの中に放りこまれる。
職務放棄には口をつぐんで、そのなめらかな動きをぼんやりとながめていた。
「なんだい、その奇妙な容器は」
台所に背を向け、オープンボードの上でネット通販で購入した、薄黄色のプラスチックの器にオートミールと牛乳を入れて浸していた。
どこから情報を仕入れて来たのか、オートミールは髭切が食べてみたいと言ったからついでに買ったのだが、ひと口食べて「おいしくないね」と言い残し、やつは逃走した。みんなには内緒よ、とわざわざふたりでこっそり開封の儀・実食の儀を執り行ったというのに。
なんとなく見えていたはずの未来だったのに、律儀に上映してしまったわたしは髭切に甘すぎるのかもしれない。かくして在庫処分は主の仕事となったわけだ。
「借りるのも悪いし、てきとうに買ってみた」
どちらかというと、ボードに置かれている容器より、わたしが左手に握っていた赤色のプラスチック素材のコップに対して歌仙は感想を述べたのだろう。
一振りにつきひとつの、飲み物用の容器。わたしはけっしてミニマリストというわけではなかったが、あまりものが多いのは好まない。だからもちろん、主であるわたしもひとつのあの湯呑みしか持たなかった。新しい刀たちのことを考え、つねに予備はあるけれど、あくまでもそれらは新たな刀を待つ身である。
「雅じゃないね。それに」
そういうことではないと思うのだが。
わたしの手の中から取り上げたコップのふちをつまんで、上下左右観察しながらつぶやいた歌仙は明らかに、呆れていた。
「素材を変えたとて、壊れるものは壊れるんだ。それが、ものというものだろう?」
「……それは、そうなんだけど」
割れる瞬間というものは、ひどくおそろしかった。それはまちがいなく、この本丸で起こったことだったからだ。
わたしがそれを見るのはまだいい。なにより、ここに住まうわたし以外の存在に、その光景を二度と見てほしくなかった。
「それに、今あるものはどうする。捨てるのか?」
「……」
すべてお見通しとでも言うのだろうか。たしかに、わたしはこれを機に本丸の食器やグラスをすべてプラスチック製にでも変えようかと考えていた。耐熱性だし、電子レンジでの調理も問題ない。
これみよがしな歌仙のため息に、わたしはますます頭を垂れる。
「金継ぎをした」
「……きんつぎ?」
「知らないのか」
悪態に目線を上げた先、歌仙の着物の袖から見慣れた文字が並ぶ湯呑みがあらわれる。ボードの上に置かれた湯呑みは、割れ目が黄金色の線で埋められていた。いびつなようにも見え、同時にかがやきをまとったようにも見えた。
「傷のまったくない人も、ものも、ないだろう? それなら、それごと愛でるべきだ」
歌仙からつむがれることばは、その空間に漂っている。傷が、傷の形が、そのものの歴史を彩るのではないかと、ひとり言のように続く。
星屑のように無残な姿になっていたら、この修復も叶わなかっただろう。もしそうだったなら、歌仙はどうしていたのかと、想像しようとするがまったく絵が浮かばない。
「しかしね、コーヒー用のカップくらいは買ってもいいんじゃないか?」
湯呑みでコーヒーを飲むなんて風流じゃないね。煎茶をコーヒーカップで飲むのも、またしかり。
歌仙はそう言って、腕を伸ばしコーヒーミルを引きずる。いったい、わたしはだれにものを言われているんだろうか。
特別、お気に入りというわけではなかった。ただ、ここに現れたから、今もここにいるというだけで。