鉢屋三郎(落第忍者乱太郎)現代設定
金曜二十時。とてとてと短く太い足で、駅のホームを闊歩する薄汚れた野良猫。帰宅ラッシュの人混みをさらに賑やかすその姿を、座席に背中を預けたまま、人と人の合間を縫って、地下鉄車両の窓ガラス越しにぼんやりと眺めていた。
二回生の、夏が来る前だった。同じ社会学部で友人関係になった竹谷と、高校の同級生で法学部の久々知と三人で居酒屋で飲み食いしていたところで、だれかがわたしの肩を馴れ馴れしく叩いた。わたしは大学生だったからその経験はまだなかったけど、肩を叩くという慣用句の悪い意味が脳裏をよぎったのは、どうしてだろう。たぶん、わたしの目の前に座っていたふたりが、その瞬間眉を寄せたり、お猪口を持ち上げたまま静止したりしたからだと思う。とてもハッピーな様子には見えなかったのだ。
その、わたしの背後にいた人物が、一回生、二回生と英語の講義をわたしと同じくしていた、国際関係学部の鉢屋三郎だったわけで、以来、三郎はわたしの活動範囲に割り込んできた。人をたらし込みそうで、激しく威嚇しそうな、相反する表情を器用に貼り付けていた三郎の後ろにはもうひとつ顔があって、彼は心理学部の不破雷蔵だと言った。三郎と雷蔵はそうして、そのまま居着いた。以来、五人は日によって場によって増減しながら同じ時を共有することになった。
「野良猫を手懐けたんだと思った」
三郎たちの自然で不自然な乱入をどう思ったのかと久々知に問えば、彼はさして悩むこともなくそう答えた。確かにその野良猫は懐いたと言えるかもしれなかったが、けっして飼い猫に成ったわけではなかったというのが、最重要ポイントだった。その証拠に、大学卒業とほとんど同時に三郎は行方知らずになっているのだから。
そうして三郎が姿を消してからだいたい二年が経とうとしているのだということを、駅員に首根っこを掴まれている猫を見て、思い出していた。ふたたび動き出した電車にゆられながら、吊り革を握る女性のトレンチコートの肩口に、ほんのり茶色がかった一枚の桜の花びらが載っていることに気がついた。もちろん指摘することはせずスマートフォンをいじりながら、最寄り駅までの残り六駅をやり過ごそうとしていたけれどその動作は着信を告げるために切り替わった画面とバイブレーションによって一時的に阻害された。ディスプレイに映された発信元は旧友の名前を表示している。
「二単位足りなかった」
当事者のくせに我関せずというような無表情で報告する竹谷の代わりに、社会学部のラウンジでわたしは頭を抱えた。大学四回生のいうところの単位が足りないというのは、五回生が確定したこととイコールだ。それなのに、なぜそんなにも淡々としているのだろうか。本人にはまだ、現実味が感じられていないのかもしれなかった。
「たしか、単位もらえるボランティアあったよな?」
「あったあった、確認して来たら」
久々知と雷蔵がそう促せば、竹谷は大人しく従った。しかし、小一時間後にラウンジへ戻ってきた竹谷は、ただ黙って首を横に振るだけだった。
「遺失物センターで単位落とした時期言って、届いてないか訊いて来なさいよ」
手元の端末から顔を上げず、顎だけくいっと上げたわたしの太ももをバシバシ叩きながら、三郎は腹を抱えていた。
最寄駅に降りてからかけ直すと、竹谷はおーとかよーとかひさしぶりとか、ひどく陽気に発声してから「てかさ、一、ニ杯ひっかけてから行かね?」と提案をした。突拍子もない発言に思えるが、明日の、共通の友人の結婚式の話をしているのだとすぐにわかる。男友達の結婚式には呼んでもらえないものだとばかり考えていたので、面食らったものだった。
「えー。二次会もあるんだし、そんな生き急がなくても」
「じつは、結婚式はしごでさ。二次会出られないんだよなあ」
「なおさら飲む必要ないじゃん」
「早く着くし、暇なんだよ」
「そっちが理由じゃんか」
大阪から新宿まで、竹谷は夜行バスで移動すると言った。いい大人なのに、と眉間に思わずしわを寄せてしまったが、竹谷はお金がないというより、夜行バスが好きなのだった。
二単位を拾うために、竹谷はわたしたちより半年長く学生だった。当時竹谷には付き合っていた女の子がいたが、そんな詰めの甘い男であることが改めて露見しても捨てられなかったのは、不幸中の幸いだったといえる。無事に卒業した竹谷はその子と籍を入れ、そのまま関西に腰を据えることになっている。関東に暮らすわたしと関西にいる竹谷はそうそう頻繁に会える物理的距離ではない。ついでに、わたしが竹谷の奥さんに好かれてはいないことも知っている。わたしは年内に行われるはずの彼らの結婚式には呼ばれないだろう。恨みはしない。ただ少しだけ自分の性別を後悔はする。LGBTがどうとかこうとか皆さん言っているところ悪いが、男と女、ふたつの性別だけでこれである。ジェンダー問題は根深い。
落ち合う時間と場所を決めてスマホから耳を離すと、すぐにホットペッパーのアプリを起動した。もちろん、予約時間を早めるためだ。女はヘアセットのために時間を逆算して美容室を予約しているということに、あの竹谷が思い当たるわけもないのだ。
少々飲みすぎた竹谷とわたしは所定の時間と場所に徒歩や電車では間に合わなくなり、タクシーに乗った。会場の前で自動で開いた扉から二人出てくる様はさながら夫婦と間違えられてもおかしくはない。夫役の指には結婚指輪が煌めいているが、こちらのほうにはそれがないので、間違いだと気がつくだろう。
つくやいなや受付も済まさずトイレに滑り込み、すっきりして出てきたわたしを竹谷が席次表をばたばたと振って呼んでいた。
何事かと小さなショルダーバッグにハンカチを押し込みながら横に並んで、縦長の厚手の紙を受け取る。「新婦友人、ここ!」竹谷の指が指すのを追って、わたしは開いた口が塞がらなかった。呼び慣れていたのにいざ印字されると、こんなんだったか? と、不安に思う名前がそこにはあったからだ。
石畳の隙間にピンヒールをはめ込んでしまわないように、地面を睨みつけながら歩く。披露宴後、二年ぶりの再会を果たしたわたしたちの間を取り持ってくれていた竹谷は、本日二度目のタクシーに飛び乗ってしまった。コツコツとヒールが鳴っているのも、同じく二次会の会場へと向かっているアルコールの入った陽気な参列者たちの声量にかき消される。その賑やかさを制すように、となりで静かにご機嫌な鼻歌が転がっていた。
「これは提案だけど。カタログギフトは完全電子化をはかるべきだと思う」
「それは文句だろ」
分厚いカタログと引き出物が入っている紙袋を三郎に押しやると、三郎は文句を言わない代わりにハミングを中断して、重たい紙袋を受け取った。
元チアリーディング部のキャプテンからはSMS、三郎と雷蔵の元バイト先の女の先輩からは、ROM専のインスタグラムのダイレクトメッセージで三郎の居所を問う連絡が届いた。インスタグラムのアカウントはいいとして、わたしの電話番号はどこで手に入れたのか、公衆トイレの壁にでも個人情報が落書きされているんだろうかと本気で心配した。オーケストラ部のコンサートマスターの後輩に至っては、わたしの職場まで訪ねて来た。ぴっちり固められたオールバックのポニーテールスタイルの彼女に、まったく知らない旨を努めて申し訳なさそうに告げて、上目で様子を伺えば、意外にも「先輩がご存じないなら仕方がないですね」とキリッと釣り上がっていた眉毛を下げていた。なにが仕方がないのだろう、と悩んだり問いかけ直したりすることはナンセンスだとわかっているので、わたしはランチタイムの数分を無駄にしたことを責めることもなく、小さく頭だけを下げた。
三郎が遊んでいたのか、本気で付き合っていたのかはわかりっこないけど、そのいずれかだと認識していた人間たちからのコンタクトはなかった。むしろ、この三人のことをわたしは知っていたけれど、三郎と密に関係があるということにまったく気がついていなかった。大切なものは隠しておいたのかな、なんて。結構わたしって鈍感だったんだな、なんて。男友達の色恋沙汰に気がつかないことのなにが悪いんだ、なんて。全部、今わたしのそばにいない三郎に問いかけるかのように、自問自答したものだった。
「おまえはさ、俺を追ってこなかったよな」
恨みがましいような、諦め切ったような声色で三郎は言った。
わたしだけじゃない。三郎のことを誰も積極的に探そうとはしなかった。追われたかったのか? そうされれば撒くくせに、わがままなやつだ。
「探してはいたよ。……おもに久々知が、都市伝説的な方法で」
「ああ」鉢屋は思い当たる節があったようだった。「次屋に伝言されたな」わたしは想定外の名前に、となりの男に気がつかれないよう注意を払って細く息を吸う。
「鉢屋三郎っていう男を見かけたら探していると言っておいて」と、久々知が会う人間に思い出したように軽い調子で頼むのを何度か聞いた。家猫が脱走したときは、近所の野良猫に戻ってきてくれるよう伝えておいてと頼むといいのだ、と久々知は誇らしげであった。言いたいことはあったけれど、それくらいのスタンスがちょうどいいという意見には頷けたので、なにも言わなかった。雷蔵以外の三郎の知人を知らないということを、そうして気が付いた。その雷蔵すら居場所を把握していないというのだから、それは探すな、という脅迫と同義と受け取っていた。
「おまえは、別れたあとに感謝の連絡を寄越さなかったから」
別れたあと。なにを別れと言うかはいろいろとあるが、少なくともわたしたちが付き合ったことはない。感謝の連絡。それこそ三郎には感謝より文句をぶつけたいことばかりである。そういうわけで、なにひとつぴんと来ない。わたしがアルコールをかぱかぱ飲んで頭の回転が遅くなっているからではない。
「なんの話?」
「ほら、あの夜」
「あの夜……」
漠然とした返答こそあれ、わたしにはあの、がどの夜なのかやはりすぐには思い当たらなかった。少なくとも対象となる夜は、三郎と出会って約六年間分あるのだ。
「ラブホ行ったろ」
勢いよく地面から顔を上げて、右上を仰ぐ。ぱち、と色素の薄い瞳と視線が交わったのがわかってすぐに逸らした。三郎は嘘をついていないのである。
一回生の冬休み。三郎の運転する車で牡蠣小屋に行って、夜景を見て、コンビニでお酒とおつまみを三郎が買った。年齢は確認されなかった。酒を飲んだら運転はできない。わたしたちはいわゆるラブホテルで一泊してビールと酎ハイを飲んだ。
実際のところ、わたしと三郎は体の関係はもたなかった。コンビニの商品で膨れたビニール袋には小さな箱も入っていたのだから、当初はそのつもりだったはずなのに、どこでやる気が削がれたのかはわからなかった。とにかくわたしは、こんな小汚い田舎のラブホテルで飲むくらいなら牡蠣小屋で飲みたかった、とばかり考えていたし、そもそも車で来なければよかったし、こんなデートまがいな回りくどいことをせずともよかったではないか、どうせ女に困らないのに。と、まったく内容が頭に入ってこないお笑い番組を見ながらビールを煽っていた。
「別れるときにありがとうとちゃんと言ったら、連絡はいらなくない?」
「そーじゃなくてさあ」
感謝の気持ちの表現が重要なのではなく、次につながるアクションをとらなかった、と三郎は言いたいのだ。また遊びに行こうね、とか、次はいつ会える、とか。それはそうだろう、英語の講義はクラスを同じくしたまま二回生も継続だったのだから、嫌でもわたしたちは同じ空間にいなくてはならなかったのだから、そうする必要がなかったのだ。
「ずっと会いたかったんだぜ」
三郎の言葉と行動は一致していない。そうであったなら現代のツールを最大限に活かして欲しかった。
さも当然のようにわたしの手を引く三郎の手を振り払わないわたしも、別にその辺にいる掃いて捨ててきた女と変わりやしないだろう。追わずとも、逃げないのだから。そういえばあの頃は三郎のことを鉢屋と呼んでいたなあ、とか。はっきりと三郎呼びにシフトチェンジした瞬間を、わたしはひどく鮮明に覚えているけれど三郎に記憶は少しでもインパクトのあるものとして残っているのかなあ、とか。そんな酒の肴にもできなさそうなパズルのワンピースよりも小さな破片がちらつく。
わたしも会いたかった。わたしもさみしかった。そんな言葉をあげてしまったら、今まできっとそうし続けて来たように、三郎はもう、戻らないのだろうか。
「ひとつ確認だけど、今日の新婦にアンタの手垢ついてんじゃないの?」
「だったとして、どうする?」
さあ、どうするのだろうか。けらけらと笑う三郎の声は、わたしにいつも選択を間違えさせる。
どうして彼と付き合わないのか、と訊かれたことは数えようとしていないから数えられないだけだけど、一回ではなく複数回ある。同級生の鉢屋三郎と二学年下の次屋三之助についてはよく訊かれたと言って差し支えないだろう。その質問に対する返答はいつも決まって「そういうんじゃないから」。それを言うならば、高校生から行動を共にしている久々知についても聞かれてしかるべしと思うのだけど、それはどうにも違うらしい。ただ、久々知が聞かれることはあったようだった。久々知がなんと答えていたのかは、今思えば知らない。
次屋に関してはなにかをどこかで間違えたんだなあ、という曖昧で、でも決定的なボーダーラインがあった。三郎に関しては、肉体的な意味で一線を越えようとした、越える選択肢が用意できた仲なので、互いへのリスペクトという大事な部分がどこか欠損している気配があった。結局、手軽な関係を選ばなかったことになんらかのポジティブな意味合いが含まれていたのかどうかは不明である。結婚式の後の二次会も三次会も、ひたすら酒を流し込んでいたら終わっていた。じゃあまた、と手を振った記憶もない。気がついたときにはタクシーの後部座席で窓ガラスに片方のほっぺたをくっつけていた。
次の日の夕方、二日酔いの頭でスマートフォンのロックを解除してメッセージアプリの連絡先と電話帳をチェックした。なにを期待していたのかわからないけど、わかりやすく落胆していた。だから、わたしは、わたしがなにかを期待していたということに嫌でも気がついた。
それから約半年後、わたしはさくっと仕事を辞め、ボストン行きの片道航空券を予約していた。婚約破棄したとか、仕事で大失敗したとか、そんな人生の転機みたいなものはわたしに今のところ訪れたことがなかったけれど、それは突拍子もないことをしないことの確証ではなかった、ということに長年の友人である久々知はわかりやすく驚愕していた。わたしにはわかりやすいけれど、他人から見れば表情の変化には乏しかったかもしれない。「とりあえず、両親のところに行こうと思って」と、海外への一時的な移住を宣言したわたしに、「海外が嫌だから、ひとりで京都に住んでたんじゃないのかよ」「蛙の子は蛙なのかもね」ずず、とアメリカンコーヒーをすすれば、久々知はいつものように眉を下げていた。
顔に突き刺さるような寒気を鼻から吸い込んで、頭の奥が凍りつくような感覚に襲われる。耳たぶからは完全に温度と感覚が消失していた。どこかにあるはずの太陽は雲が覆い隠してしまっている。今冬のパリは軒並み冷え込んでいるらしい。雪が降らないだけマシだ。フランス人は英語を話さないのだとばかり思っていたが、すんなりと英語での会話が成り立ち、立ち寄ったコーヒーショップの女店主が教えてくれた。いつまでも意地をはっていては置いてけぼりを食うということだろう。それとも、時の流れには抗えない、なんて教訓だろうか。
日本では手に取ったこともない耳当てを購入しようとして思いとどまったのは三日前の話だったが、やはり買っておけばよかった、とフットボールのベンチコートみたいなロングのダウンコートのフードを深々と被り直す。両手の手袋をポケットにしまってテイクアウトカップを握り込んだ。
セーヌ川にかかる石橋が、ドクターマーチンのエイトホールブーツの底を擦り上げる。とてもではないが当てもなく散歩をする気にはなれない。マイペースなパリの人たちも心なしか早足だ。アコモデーションに戻って、ネットフリックスをiPadで流しながら、食事の作り置きをしよう。たまにはソーシャライズしない日があったっていい。
視覚的に認識したのと、感覚的に意識したのと、どちらが早かったかはわからない。極寒の中稼働しているクルーズ船の動きが、飛び立ったシーガルの羽根の動きが、気になったわけではない。人の気配だった。ゆっくりと視界の右端の影を振り返る。手すりに背中を預け、黒いピーコートのポケットに両手を突っ込み首をすくめている。凍てつく空気に似通っているような、ゆっくりと溶かしていく人肌の温度のような、相反する瞳がわたしを見据えていた。
「おまえ、フランス語なんて取ってたか」
「いや、中国語……、って、開口一番なにを聞くのさ」
三郎には、パリの街並みが似合うと思っていた。ロンドンも、捨て難いけれど。わたしが立ち止まらなかったら、振り返らなかったら、彼は声を発して、わたしを呼び止めただろうか。想像してみたけれど、とてもそんな気配は感じられなかった。上半身が少し前傾し、憎たらしいほどすらりと伸びている細身のトラウザーズの先のレザーシューズが、気だるげにわたしに向かってくる。
「絶対に見つけられるって、自信があったんだ。でも、どこ行ってもいないしさ。意外と時間、かかっちまったな」
「いや……なんでここがわかったの?」
「兵助には連絡してただろう」
「だれにも言わないでってお願いしたのに……」
「兵助は言わなかったぜ」
じゃあだれかが言ったのか? というわけではなく、久々知がかろうじて漏らした情報から、三郎がわたしの居所をなんとかして突き止めたのだ、という推理がひらめいた。それはとてつもなく奇妙で滑稽なことのように思えた。たとえばそれを次屋がやるなら想像がつく。でも、今わたしの目の前で白い息を吐いている男が、そんな馬鹿げたことに労力を費やす姿は逆立ちしても見えそうにない。
「……帰ってくるまで待ってればよかったのでは」
「迷子になってたら困るだろう」
すぐ迷子になるのは次屋だよ、なんて口から出かかって、わたしはぎゅっと唇を結ぶ。じっとわたしの鼻の先あたりをぼんやりと眺めている三郎には、わたしの思考回路が読まれているかも知れなかった。誤魔化すようにそっと手元のカップに口をつけた。
「帰ろう」
思わず吹き出しそうになったコーヒーを飲み込んでから、わたしは三郎を右手に、橋の端を目指して歩くことを再開する。ずっと立ち止まっていたらなけなしの体温は奪われる一方なのだ。
「やだ」
「もう十分だろ」
「じゃあ、帰る理由をちょーだいよ」
「みんな待ってる」
「へえ、そういうこと言うんだ」
歯の浮くような、典型的な使い古されたような主語が曖昧な理由に、わたしは嫌味たらしく鼻で笑う。わたしの半歩後ろをついてくる三郎は、明らかになにか言い淀んでいた。
「言ってもいいのか」
前振りする三郎なんて、恐怖そのものだ。わたしは懲りずにまた振り返る。両の手で抱えていたカップを左手に渡して右手を開けた。ずい、と無骨に差し出されていた手を握るために。
これからロンドンへ行かない? そう提案するのは、暖をとってからでも遅くない。