尾形百之助(ゴールデンカムイ)九〇年代前半設定
奥のテーブル席からカウンターまでやってきたマスターが手招きしてわたしを呼び、耳元に手を添えて、
「さかずきを用意してくれ」
と、言った。
「はい!」
スナックのカウンター内。元気よく返事をしてみたものの、用意をする、ということは道具か酒かつまみかなにかであることは明白だが、
「さかずき、って、なんでしたっけ」
どうしても"さかずき"がモノに変換されない。
煙草をくわえながらすっぽんの首根っこに包丁を下ろしているチーフの門倉さんに顔を向ければ、
「テンちゃん、意外と常識ないんだなあ」
にやにやしている。腹立たしい。ちなみにテンは、わたしの源氏名である。なんとなく、テレサ・テンから拝借した。
先月、常連の杉元さんとそのずいぶん年下の奥さん、それに白石さんと、今まで食べたゲテモノ料理の話になった。その流れで門倉さんが、すっぽん鍋でもひさびさにやってみるかとやる気を出して、今日がその会に設定されていた。
門倉さんは昔、田舎の親戚の小料理屋で修行していたらしいのだけど、レジの金をくすねて賭博に使って負けて、そのまま逃げているらしい。小心者っぽいのに、よくわからないところで無鉄砲だ。そんな人に常識がないなどと言われたくない。腹立たしい。
マスターは自分の額にある正方形のアザをさすりながら、革張りのソファにふんぞりかえっている初老の男と、向かいのチェアに座っている若い男をながめていた。
「ほら」
門倉さんが日本酒の入った一升瓶を指差して、
「これとか飲むときに」
と、人差し指をゆらす。
「使うのは、お猪口じゃなくて?」
「じゃなくて。皿みたいなやつよ」
「……あー! はいはい、盃ね!」
マスターの指示の仕方からして、あまり聞かれてはいけない話なのだろうと察していたので小声でやりとりしていたのに、思わず叫んでしまった。無駄だが、両手で口元をおさえる。
「盃を交わすんでしょうよ」
門倉さんが煙草を灰皿に置くまでのわずかのあいだ、"盃を交わす"と、いう行為について自分の脳内に保管されている情報を動員して考えてみる。あ。
「まさかあれですか、ヤクザのなんかあの、儀式」
さらに一段声をひそめれば、うむ、とマスターが首を縦に振る。
「やだ、マスター、生涯カタギ宣言してたじゃないですか……」
「俺ではなくて、あそこの客同士で、流れでそういうことになってな」
なにがどうなったら、そうなるの?
声には出さず思いっきり眉間を寄せた。
うちはあくまでもヤクザお断りのていを貫いてたはずだ。まあ、それでもたまに怖い人が来るけど。それこそ、その今奥に来てるのがどっかの親分とこれから子分だか兄弟になる人なんだろうけど。
もちろん、今店内にはほかにもお客さんがいる。カウンターにはチーフが相手にしていた杉元さんと奥さんと白石さん。それから常連に認定してよいのかは微妙なライン──そもそも何回来たら常連なのか──の、尾形さんがわたしの目の前に。それにあとひとり、十三番──お手洗いの隠語──に、今は入っているママがついている一見さんがいるのである。こんなところで、カタギじゃないことしないで!
「とりあえずそれっぽければいいらしいから、よろしく」
「そんなテキトーな感じでいいんですか……」
ノースリーブのドレスから出ているわたしの肩をたたいて戻っていくマスターのデカすぎる背中を追いかけながら、極道のドラマでしか見たことない盃を交わすときのセッティングを思い返してみる。
お猪口はわたしの背後の棚にあるが、盃なんてあったかしら。あ。今年のお正月に見た気がする。結局、お猪口を使ったのだけど。ふつう三が日は休みだろ、と言いたいところだが、お客さんとは家族のような付き合いをしているのだ。まあ、正直そんなプライベートと分けきれていないこの仕事は、嫌いではない。
「門倉さん、お正月に使ったやつどこですか?」
「どこにしまったっけなあ」
ふらふらと裏にひっこんでいく門倉さんに、
「甲羅引っぺがしたまま、どっか行かないで!」
叫ぶが彼は戻らない。すっぽんの臓器一式、丸見えなのよ。
ありそうな場所教えてくれたらわたしが探すのに、とため息をついて、しかたがないのでほかに必要そうなものを探すことにする。
盃とお銚子が台の上にのっていて、そのあいだに紙が敷かれていなかったか。
「紙……は、懐紙ですかね?」
おそらくほとんどの会話を聞いていたであろう目の前の尾形さんに問いかけるが、うんともすんとも反応はない。そのまま一方的にひとりごとを浴びせることにする。
「天ぷらにいつも使ってるやつでいいですよね!」
わずかに尾形さんのくちびるがひきつったのをわたしは見逃さなかったが、そこにツッコんでいる時間はない。今ここにあるものだけでまかなうしかないのだから。
「親側のお酒は、めっちゃ大きい盃に入れてませんでした? それこそ大きめのお皿とかのほうがそれっぽいですかね」
リアクションのない話し相手は返事をするかわりにウイスキーを口に運んでいる。
「台は、ないなあ。神棚? いや、あんな平べったくないし、壁から外せないな。もう、きれいなお盆でいいか」
懐紙は折るものだろうけど、ふだん料理関係は門倉さんしかやらないので、ぼんやりとしか形が思い出せない。でもこれ、絶対慶事と弔事があるやつやん。ヤクザそういうの気にしそう〜! いや日本人だいたい気にする〜! と、頭をかかえていたところで、
「カノママ、懐紙の折り方、わかります?」
ママがお手洗いから戻った。ママはゆっくりと頭を小さくかわいらしく傾ける。
「折り方? 腕とか足とか首とかなら……」
「もういいです」
ママに頼ろうとしたわたしが悪うござんした。それこそ門倉さんが適任だろう。
「門倉さーん、かい」
ガシャーンと、明らかになにかが落下した衝撃音に、わたしの呼びかけは遮られた。
「もー! 門倉さんっっっ!?」
裏とカウンターを仕切っている暖簾をめくりあげる。案の定、門倉さんは脚立から脚を踏み外して尻餅をついていたけど、盃たちは門倉さんのだらしないお腹の上に鎮座していて無事だった。危機一髪。
守られた道具を抱えて立ち去ろうとすれば、俺が先じゃない? と、すねている。無視して暖簾に手をかけたところで、
「……ははっ」
乾いた笑い声がカウンター席から聞こえて、勢いよく布を引っ張った。
想定はしていたけど、いやはやそれはないだろう、と思っていた人物が、わたしと視線を交わらせて口角を上げ、目尻を下げていた。
どうしよう。あの尾形さんが、笑った。
すっぽんの生き血を焼酎で割って、お猪口でぐいっと。ひとつには心臓が入っていて、ママが引き当てた。尾形さんと、一見さん、それに、さきほどなんらかの契約を交わしてしまった男性ふたりにもお裾分けをした。クーラーのきいている室内で食べる鍋は、贅沢だ。
すっぽん鍋は肉ではなく、スープを楽しむものだ、とわたしにぼそぼそと蘊蓄をたれたのは尾形さん。たしかに、締めの雑炊はいままで食べたもののなかでトップ5に入るのではないかというほど、絶品だった。門倉、やるやん!
「尾形さんって、ふだんなにやってるんですか?」
あ、答えたくなかったら大丈夫です。と、補足する。今日は笑って、尾形さん比ではよくしゃべっているからといって、なんでも答えてくれるとは限らないのだ。
「しがない会社員さ」
調子にのってはいけない。と、気を引き締め直したのも束の間、ちゃんと返事が返ってきた。
「そうなんですか? 社長さんとかかと思ってました」
「社長も会社員みたいなもんだろ」
「……」
「俺は付き従いたい人間がいるほうが楽しいタイプだ」
「ああ、じゃあ社長じゃないんですね。副長タイプだ。となると、やっぱ忙しいですね」
「暇ではないな」
「ふーん。尾形さんって、ふと、来なくなりそうだなあって思ってて」
まあ、お客さんっていうのは、そういうものなのだけど。そういうこと、思っても言わないようにしているのだけど。ちょっとわたしもすっぽん鍋といっしょにお酒をいただいてしまったので、口から出すことば選びに隙ができている。
「同伴とかアフター、縁ないじゃないですか? ママとも行ったことないですよね?」
それらをしたからといって常連として居着くかどうかは別問題だが、それがあるのとないのとでは雲泥の差があるのだ。というより、そうだ、これをすると晴れて常連の仲間入りという感覚はあるな。
「なら、どっか行くか?」
「えっ。同伴とかアフターってことですか」
「そう」
怖っ。怖いよ、尾形さん。店外に誘ってくる男の人はもっと、こちらの警戒心を解こうとするやわらかい表情をつくるんですよ。あなたの表情、無、なんですけど。
「いやいやいや、いいですよ。そういうのなくても、ふらっとお店にきてくれるのがいいんです」
「商売っ気のない女だな。わりと本気で誘ってんだぜ」
「わたしの給料に影響ないんで……」
「なにが食べたい」
話、聞いてた?
そもそもわたしは、お店の外でお客さんと会うのは好きではないのだ。自分の収入に反映されないのもあるけど、お店以外で男の人と会うのはやっぱりどこか、緊張するから。お店から出てしまったら、だれも助けてはくれないのだから。わたしの責任なのだから。
「では……上海蟹、ですかね」
「すっぽんは甲殻類じゃなくて、爬虫類だぞ」
バカにしたような声色で尾形さんが言うので、
「べつに、すっぽんの甲羅から蟹を連想したわけじゃなくてですね」
言い訳を並べようとしていたところで、洋楽の有線がかかっていたスピーカーから、聴き慣れたカラオケ音源のイントロが流れてきてどきりとする。これは、舘ひろしの朝まで踊ろうだ。みんなで仲よく鍋はつついたとはいえ、盃交わした後だよ。空気読んでくれ! と、尾形さんから視線を外して店内を見渡す。──って、分厚い歌本持ってるの、子分だか兄弟分だかやん! なんで入れた? どういう情緒?
「テンちゃーん、踊ろうぜ〜」
ひとりで錯乱していれば、白石さんがフロアに立ってわたしに手招きをしていた。
「手え引いてまわるやつ!」
「やだ! 白石さんヘタクソなんだもん!」
わたしが両腕でバッテンをつくっているあいだに、杉元さんと奥さんが立ち上がって、踊りはじめている。
「焼酎一本入れるからさあ!」
「ワン、ツー、スリー、フォー! で、ちゃんと手、引くんですよ。フォー! ですよ! わかってます!?」
いっしょに手を引くタイミングで引いてくれないから、わたしだけが引いて白石さんがわたしに向かって倒れてきたことがある。わざとだと思う。
尾形さんにちょっとごめんなさい。と、片手を上げてカウンターのスイングドアにお腹を押し当てる。カウンターから出て、尾形さんの背中に手を置けば、彼はちゃんと振り向いた。
「これ、クラブステップって言うんですよお。蟹、蟹!」
歌うのに合わせて、このあいだストリートダンスをしている友だちに教えてもらったとおりに足を動かしてみせる。煙草に火をつけていた尾形さんは、わずかに眉をひそめて、
「合わないんじゃないか」
今かかっている曲か、この店になのかはわからないが、わたしのステップは場違いなのではないかと感想を述べた。
「ヒップホップのダンスと合わせたって、いいじゃないですか。ジルバじゃないといけないとか、ツイストじゃないといけないとか、ないんですよ!」
尾形さんの肩を二回叩けば、やっぱり興味なさそうに煙を吐き出していた。
「お店終わったら、待っててください」
善は急げっていうでしょ?
そう笑いかければ、尾形さんはなにか言いたげに煙草を灰皿の上に置いている。
「もう冗談とか言ったって、手遅れですからね」
ドレスを脱いで、ハンガーから外した私物のノースリーブワンピースに着替えて、入れ違いに着ていたほうをロッカーに仕舞う。ほとんど剥がれていたほうれい線と眉間のあいだのファンデーションを塗り直し、口紅も引き直した。ショルダーバッグをたすき掛けして、大判のシルクストールを体に巻きつける。
半分あいているシャッターに腰を屈めて身体を通してコンクリートから視線をあげれば、正面の店の壁に寄りかかって尾形さんが仏頂面で煙草をふかしていた。
「わあ、ほんとうに待っててくれた」
「信用ないんだな」
わたしをみとめて、尾形さんはぽいっ、と地面に煙草を放り投げ、きれいに磨き上げられている靴の底で吸い殻をすり潰した。
「上海蟹、どこで食えるんだ」
「さあ、どこですかね? 聞き込みしてみます?」
わたしが横に並ぶと、尾形さんはゆっくり歩きはじめた。空きテナントのビラが貼ってある建物のヒビ割れた窓ガラスに、わたしと尾形さんが映る。
「テンは、源氏名だよな」
意外にも尾形さんのほうから問いかけがあって、ちらりと視線だけとなりに向ける。まだ営業中であることを示しているソープランドの看板のネオンライトが、あいかわらずひと文字分切れていた。
「はい。テレサ・テンからもらいまして。あっ、べつに、わたしがチャイニーズだから、上海蟹が出てきたわけじゃないですよ。ってか、テレサ・テンは、台湾ですしね」
死亡説ありましたけど、今なにしてるんですかね、テレサ・テン。
そう言ってアジアの歌姫の顔をぼんやりと思い浮かべる。
「今度食べたいものを聞かれたときは、上海蟹って答えようと準備してたんですよ」
どこへ向かっているのか、尾形さんにはあてがあるのかはわからないけれど、立ち止まる気配もないので、わたしも歩き続ける。
「前に、常連さんが食べたって聞いて。あっ、それ難しそうなリクエストだし、次誰かに誘われたら、そう言おうって」
「不本意だったのかよ」
アフターに行きたくなかったのか、と尾形さんは笑うでも怒るでもなく、ぼそりとつぶやいた。
「いや、条件反射的なもので。リハーサル的な? 実際、ほかの蟹となにが違うんだろうっては思ってて興味はあったんですよ」
だから、上海蟹が食べたいわけではないのです。そもそもこのあたりにはそんなお店はありません。なので、これからどうしましょうか。どこに向かっているのですか? という意図をこめてネタバラシをしたのだけれど、尾形さんには伝わっただろうか。彼の表情を盗み見ても、まったくわからなかった。
「上海は出張で、行ったことがある」
「わあ。まさか、食べたことあるんですか。上海蟹」
「うん」
「ほかにはどこに行きました?」
「いろいろ行ったよ」
「どこがいちばんよかったですか?」
「どこも一長一短だよ」
「……おもしろくない答えですね」
わたしが肩をすくめれば、そういったことは言われ慣れている、といったていで尾形さんはふん、と鼻を鳴らした。
「旬は、秋から冬だな」
「なにがですか?」
「蟹」
「あ、そうですよね」
「旬の時期になったら、上海へ行くか」
上海へ行くか。上海へ行くか?
わたしは自分の頭のなかで尾形さんのことばを復唱して、今度はしっかりと首を動かしてとなりの男に顔を向けた。
「それは最高ですけど。わたしは不遇な生い立ちとか生活をしているから、水商売をしているわけじゃないんですよ」
「わかるよ。見ていれば」
「だから、よくいる女の子の、逃避願望はないのです」
「そうだろうな」
あ、ちがう。
これはわたしへの仕返しだったのかもしれない。尾形さんがまさかほんとうにわたしと飛行機に乗って上海に行って蟹を食べるわけがないじゃないか。ふつうに考えれば、社交辞令、その場のノリ、戯れ、だった。なんで気がつかなかったんだろう。恥ずかしい。
まじめに受け取ってしまったのは、なーんちゃって。うそうそ。って、白石さんみたいなふざけた表情をつくってくれないからだ。尾形さんのせいにしよう。
「あっ、にゃんこ」
路地裏からぬるりと姿をあらわした薄汚れた茶トラの猫に、今日もいたのね。と、わたしは相手にされないことをわかっていても立ち止まり、片手をストールから離してその子に手をふる。
「連れて帰ったほうがいいのかなあとか思うけど、まあ、近づくと逃げてくし。そもそも、うち、ペットだめなんですけどね」
落ちかけたストールを片手で引き戻して、あ、大家さんに家賃を渡しに行かなきゃ、と思い出した。しばらくバケツのゴミ箱をひっくり返していた猫はわたしたちにお尻を見せて、また薄暗い道へと引き返してゆく。
となりで、ふと、しずかに唐突な気配を感じた。ずっとそこに立っていたのに、おかしな話だけれど。
「尾形さんと今日どこかへ行って、もう来てくれなくなるのは、いやです」
わたしは、となりの男に向かい合う。琥珀色が暗い空を持ち上げはじめているのを、建物の隙間からみた。
そうなのだ、おかしいのだ。尾形さんが笑うとかしゃべるとか(人間扱いしていないわけではない)。それに、杉元さんたちとも最後はいっしょに飲んでいた。ふしぎとあまりその光景に違和感は覚えなかったけれど、それでも変なのだ。アフターするとかどこかへ行こうとか言うなんて。
「なんだ。今更、営業すんのか?」
「でも、だからって、今日どこへも行かないのも、いやです」
猫みたいにどっかでひっそりと死のうとするなんて、絶対にゆるさない。いや、死ぬなんて尾形さんは言っていないけれど。それに、猫は悟られないように出て行くんだ。こんなにわかりやすい跡はのこさない。
右手と左手のこぶしがわたしの前に差し出される。彼のなんの色も浮かんでいないようにみえる瞳が、わたしをうつしていた。
「二択だ。こっちとこっち、どっちにする」
彼の趣味がマジックである可能性は低い。その手のひらが実際になにかを握り込んでいるわけではないだろう。ただ、選択肢としての役割を暫定的に与えられているだけだ。
提示されているのはこれからの行き先なのか、そもそも、行くのか・行かないのかだろうか。なにかわたしには想像できていない、ほかのことかもしれない。
わたしはつまんでいたストールから手を離し、角張った尾形さんの手の甲に、手のひらをかぶせる。肩からするりと滑り落ちてゆく生地の感覚には構わずに、
「どっちもです!」
瞳はぬれていないのに、どうしてだか今にも泣きだしそうに空気をふるわせている彼に向かって、叫んだ。