New Born

縢秀星(PSYCHO-PASS)

 探るような、縋るような、でも、遠慮のない明確な視線。そんな目を向けられるような覚えはなかった。

 音を拾ったほうへ目先だけを動かして視界に入れれば左に二席隣の人物が、こちらに身体を向けている。透き通った赤褐色の瞳がわたしの輪郭をつつむようになぞっていた。
「わたしに、話しかけた?」
 いくらかわたしより歳下だとは思うけど、特別若いわけでもない。三十代前半、いや中ごろくらいだろうか。わたしは人の外見から年齢を予想する能力に乏しい。
 古い雑誌やウェブサイトのコピーなんかで見かける、所謂バーの空間をいかにも踏襲したホログラムデザインの店内。わたしが腕をうんと広げて(実際に広げたことはない)三人分くらいの長さのカウンター席。ここ一年ほどのあいだに都内では数軒の、アルコールをメインに提供する場が開店した。袋小路にあるこの店は、会ったことはないがエンドウさんという人がオーナーで、「ジ・エンド」という。立地と名前をかけた、駄洒落。イケてるのか、ダサいのか、絶妙なラインだ。ちなみにわたしは中立の立場を取りたい。というわけで、店名の由来を知っているくらいにはここへ通っているが、その間、彼と出逢ったことはなかったはずだ。
「そうだよ」
「あぁ、そう……」
 動画は見たことがないので、当時どのような接客や会話を楽しんでいたのかは想像することしかできないが、少なくともドローンがお酒をつくって提供していなかったことだけは確かだろう、と、バーテンダーとしての役割を果たしているそれを遠巻きにして見ながら思う。今の状況のように客同士での会話もあっただろうけれど、きっと昔の人たちの楽しみ方とは異なる。それでもいい。現代に則したスタイルはこれから築き上げていけばいいだけだ。
「別れ話してたんすか?」
 彼からは好奇心、期待、さらには落胆のようなものすらも感じられた。彼の容姿や声色、なにがそう思わせるのかはわからないが、トータルとしてどこかアンバランスさを覚える。目は口ほどに物を言うなんて慣用句がはるか昔から存在しているが、彼の瞳は物を言いすぎていてどれが本心なんだか、初対面のわたしにはとてもじゃないけれど掴めない。といっても、質問の意図として先ほどまで壁際、わたしの右隣に腰掛けていた男との関係を知りたがっているのだ、と察するのにはたいした時間は必要なかった。
「……彼はフレンチレストランの、見習いシェフ。わたしはそこの、太客」
「そういう店も近ごろは増えたよねぇ」
 アルコールを嗜む店以上に、食材をまともに調理して提供する店が軒並み増えた。お酒がメインではなく、料理といっしょに少し楽しむことに関しては市民権を得つつあるのだ。
「わたしが彼と個人的に仲良くしているのが、そこのオーナーにバレて。ごたごたしたからお詫びがてら、飲んでただけよ」
 チェイサーのグラスをゆらして、何かしら返事の代わりにしようとした。ただ、同時に彼は食い下がるだろうという確信めいたものもあったので、説明を続けることにする。
「それで、別れることになったわけ?」
「オーナーは、店にわたしが来なくなるのが困るんでしょ。わたしが行けば年間百万単位のお金が動くから」
「……最後の情報、必要だった? アンタ、友だちいないんじゃない?」
 いるわよ、少ないけど。と突き返す代わりに、水を流し込む。このまま彼がわたしに興味を示し続けるのであればこちらにも要望がある。右隣の空席を人差し指で差し示す。
「悪いけど、話しかけるならこっちからにしてもらえる?」
 左は聞こえづらいの。と眉をひそめれば彼は驚いたような、疑うような、でもいっぽうで納得したような表情を浮かべている。ここはBGMこそ落ち着いたジャズがかかってはいるものの静かだし、問いかけはすべて理解していた。その上で、言葉を選んで会話をした。ただ、目や表情、口の動きを懸命に追いかけ続けるのはどうにも疲れてしまう。アルコールが入ると尚更、判断は鈍る。情報はひとつでも多いに越したことはないので、右側からの声がほしかった。じゃあさ、と彼は勢いよく立ち上がる。
「いっしょに飲んでもいいってことだよね」
 わたしは肯定も否定もしないが、誘導したのはわたしに違いなかった。アプリコットフィズらしき液体が薄く残っているタンブラーを片手に、彼はモルタルの床を軽やかに数歩移動して、わたしが指差していた椅子を引いている。もう革に他人の温もりは残っていないだろう。

「突発性難聴で……もう十年以上になるのか」
「そりゃ長いね」
「完全に聴こえないってわけじゃないけど」
 右側から聴こえた相槌に安堵すると同時に生まれながらにして障害者ではないのだ、とわたしはアピールしたかったのかと、ほとほと呆れる。
 普通や健常の基準は明確なようで不明確だ。シビュラの弾き出すサイコパスは今もひとつの指針として活用されてはいるが、あくまで参考程度である。その数値になんら強制力はない。ただ、とんでもない数値を叩き出せば監視対象にはなる。ついでに数値の出ない異常者も存在する、ということは公となっているが、それでもわたしたちは一定の基準を欲しがる人種に変わりなかった。
「ずっと、小指の先よりも小さい小人に、耳の中からささやかれてるみたいな感じ」
 無音ではなく、つねに音があるということを伝えるのは、想像してもらうのは、案外難しい。もはや気にならないときのほうがデフォルトだが、どうしても今のように鬱陶しく感じることもある。声に、相手に集中しないと会話の軌道が容易に逸れる。聞き流す、という行為が難しくなった。わたしが会話をするのは、正常な聴覚をもつ人よりも体力も気力も使うものなのだ。
「それって、原因は?」
「ストレス……要するに原因不明だから、突発性なのよ」
「よく色相濁らなかったね」
「もちろん多少は。でも、致命的ではなかった」
「ほーんと、女は強いよなぁ」
 女のほうがストレス耐性がある、色相に影響が出にくい、というのは決して論文で証明されたようなことでも、まことしやかにささやかれ続ける一論でもない。彼のまわりにそういう女がほかにもいたのだろう。彼の自論だ。しかし、わたしにも思い当たる節はあった。かつての後輩にそんな子がいた。
「料理は? 自分ですんの?」
 リアルおつまみで晩酌派? それとも家ではイミテーション? 明るくない話を打ち切りたかったのか、わたしに気を遣ったのか、興味がなかったのか、いずれにせよ彼は話を戻した。
「いや、わたしは食べる専門だよ。つくらない」
「はっ。そうだよね。今度俺がつくってあげよっか。彼の代わりにさ」
 なにを、まるで回答がわかっていたみたいに。
 でも、それもそうなのだった。キッチンに立つことが女の甲斐性を示すことがなくなったのはわたしが生を受けるよりずっと前の話。今やそんな人間のほうが男女問わず珍しく、異質だ。それなのに、文句のひとつでも言いたくなるのは彼のもの言いのせいだろうか。
「……マスター! いつものにする」
 一体が、離れた場所からオーダーを承ったことを告げる。そのドローンはマスターという名前を与えられており、呼べば当然反応する。いつもの、は端末に銘柄を保存しているので理解してくれている。昔はこういったやりとりが粋だったらしい。隣で背もたれのない椅子から転げ落ちるのではないかというほど大きくのけぞって、またスルーされたと喚いている男が設定しているかどうかは知る由もないが、同じセリフを言わないのでいずれにしても、デスクに埋め込まれている端末の操作をするしかない。
「あーあ。そんじゃー俺は、コープス・リバイバーにすっかな」
 わたしはぎょっとして彼を見る。corpseは、死体。reviverは、復活させる人。意訳すれば、死者が蘇る。そんなふざけたカクテルの名前をメニュー上に見かけて、わたしも頼んだことがあった。
「死にたがりなの?」
「いやいや、生き返んのよ!」
 彼もその名の意味は知っているようだけど、飲んだことはあるんだろうか。ブランデーベースのそれは一杯で生き返れたとしても、二、三杯目にはまた墓入りしなくてはならなくなるような、強烈なお酒だったと記憶している。
「せっかく生き返っても、死ぬよ」
「別に俺、そんなに弱くないよ?」
「ロング飲んでるくせに」
「弱いのから上げてくもんでしょ?」
「だとしても、チェイサーを挟むもんだよ」
 彼が悪酔いしてどこかしらへ帰れなくなっても、当然わたしには関係のないことだった。でも、わたしは彼を心配しなくてはならない、そういうものなのだ、という意識がじんわりと腹の奥底に沈澱している。年長者の使命だ。
 そういえば、彼はいつこの店に入ってきたのだろう。わたしたちが入店したときには、すでにいたのだろうか。ここが曜日・時間帯を問わず満席になるということは決してない。店内を見回せば、もう彼とわたししかいないようだった。敷居を跨いだときにはもう白ワインを一本、赤ワインを一本、ふたりで空にしたあとだったので、記憶が朧げだ。前言撤回。わたしがお酒の飲み方を言えたもんではない。
「はいはい。……じゃあ、ナンバーフォーにでもしとくか」
「それなら、いいんじゃない」
 わたしの思案の時間をそのまま説得のそれと捉えたのであろう彼は、代案を示した。操作を促す彼の代わりに液晶をタップする。たしかに、コープス・リバイバーNo.4はノーマルのそれより度数は格段に落ちるはずだ。

「……でもね、ずっと、探しているの」
「は?……なにを?」
 小気味よいシェイカーの音が響きはじめてから、突然どこかに再接続された話の続きに困惑して、彼は小首をかしげた。これはわたしの悪手だ。なにが、でも、なのか。ひとつ息をついて、口から不意に出てしまった話を吐き出す。
「……人を。……その人のことを、わたしだけが忘れたんじゃないかと思ってる」
「なんでそう思うわけ?」
「都合よく忘れたから、正常でいられたような気がしている。でも、そんな人、いないのかもしれないけどね」
「……意外とその、小人さんがそうかもよ」
 彼が自分の左耳を指先で悪戯につつく。わたしの片耳から離れないざわめきが、その人の声だとでも言うのだろうか。それは随分とロマンチックな話のように思う。
「思い出せたら、突如クリアに聴こえるようになったりして」
「それはさぁ、年齢の割に夢見すぎじゃない?」
「そう言うきみも、たいがいよね」
 口に水を含んで、彼はわたしの根拠のかけらもない見解を否定していないことに気がつく。そもそもこんな話を他人にしたことはなかった。理由は明白。馬鹿げているからだ。そして、もうひとつ。もしほんとうにそうだったとして、それに気がついたわたしに対して人がどんな瞳をわたしに向けるのかと想像すると、とてもじゃないけど耐えられそうになかったからだった。おもに、数値の悪化という意味で。
「……きみが忘れられた側だったらどう思う?」
 生産性のない問いかけをした自覚はあったが、構わなかった。アルコールの席にそんなものを求めたことは、ほとんどの場合ないのだから。それに、一夜限りの男はわたしが恐れている表情をつくることはない。しかし、えーっとかなにそれーとか、彼が回答までの時間を埋めるために発しそうなリアクションはなく、「…………めちゃくちゃにしてやりたくなるよ」。
 流れた沈黙の間だけ、彼が本気で自分に置き換えて考えたということを色濃く示す。少なくともわたしが想定していた回答ではなくて、怒るんだ、とだけつぶやく。今度はこちらが言葉を選ぶ番だった。
「アンタにっていうか、さ。八つ当たりだよ。忘れたくなるような存在になった俺が悪いんだろ? ……この世の中じゃ、もはやどこに当たればいいかもわかんねーけど」
「……うん? まあ、抱えて生きていくことを諦めたわたしが悪くないかな。怒らせるってことは、期待に沿えなかったわけで」
「俺を捨てることで健全に生きられるなら、それがベストに決まってんじゃん」
「でも……じゃあ、きみは、」
 頬の熱が局所的に上がるのがわかる。現実と非現実の境目。例え話なのに両者共、主語が、主観が、いささか強すぎる。彼も同意見だったのか、テンポのよいやりとりを放棄していた。
 彼から逸らすようにカウンターに目を移せば、ドローンが液体の注がれたグラスをテーブルに置いている。夕暮れどきの空のような、落ち着いた、透き通った紫。それにならぶ、夕陽のようなオレンジ。期せずして二杯で陽が落ちる光景を描写しているようだった。ときに品がないようにも映るネオンライトのような紫色は、その味は、はじめてここでオーダーした日からずっと、どうしてだか懐かしい。そんなことを赤ら顔で述べたならいよいよ酔っ払いの出来上がりだから、口には出さなかった。
「これも、わりとそのままの意味よね」
 ファイナル・アプローチ。ジンベース。バイオレット・リキュールの香りが魅力。かつて北海道にあった航空会社の系列ホテルのオリジナルカクテル。飛行機の最終進入という専門用語であり、男性から女性への最後のアプローチという意味にも取れる。十二月三日の誕生酒です。
 わたしから説明を引き継いだドローンはゆっくりとカクテルの概要音声を紡いでから頭を下げてその場を外す。
「勉強になった?」
「…………知ってるさ」
 深海から届くような低い声に、ちょっと子ども扱いしすぎただろうかと反省する。男子はどれだけ成長しても十歳から精神年齢は変わらないなんて言うが、推定三十代は立派な大人だ。
 謝罪の代わりに彼のグラスへわたしのを近づけようと持ち上げ、鼻をかすめた香りに、息だけをのんだ。

 スミレのリキュールって、ある? そう、初回のわたしはドローンに尋ね、いくつか要望を伝えたうえでデータからこのカクテルを探してもらったのではなかったか。はじめてなのに懐かしいもなにも、わたしははじめてではなかったから懐かしかったのではないのか。

 グラスの脚をつまむ指がわずか震え、耳鳴りが主張する。もはや右と左、どちらから拾っている音なのかも定かではなく、混線していた。
 彼に内在する静かな嘆きをわたしには鎮められそうにない。触れたら瞬く間に弾けそうな危うさが怖かった。それでもわたしは今、この場に彼を繋ぎ止めたいと、はっきりと感じるのだ。だから、そんなに悲しげな、願うような、熱を覆い隠したような瞳を、わたしに寄せないで。  

Afterword

 

  • 小雨さんのお酒を飲む時の描写の大ファンで・・・そしてサイバーパンクの世界観の夜の街もすごく好きで・・・そしてそして自分が会話してるものは実在の人間か幻かなサイコホラーも大大大好きで・・・・その全部を大好きなサイコパスの世界で味わえるなんて感動しています。オーダーメイドの欲張りセット!!かがり君あの後サイバーの世界に紛れて生きてるかも、な生存エンドもさすがです。New Bornの最後のノイズ入る感じとお話の終わり方がシンクロしてさいご不思議な酩酊感味わえました。素敵なお話を本当に本当にありがとうございました!!!(選曲者:によ)
  • あちこちに散りばめられている皮肉のこもった言葉に刺されつつ、子どもと大人を行ったり来たりする縢君とヒロインの危うい綱渡りみたいな会話にめちゃくちゃドキドキしました!「いやいや、生き返んのよ!」で早速グアアと呻き声を上げることになりました。「I've got nothing inside」と軽薄に笑う縢君、いる……バーに絶対いる……「……きみが忘れられた側だったらどう思う?」からのじりじり熱に焼かれるような空気、PSYCHO-PASSの世界観だ……!と何度も読み返してべろんべろんに酩酊してしまいました。素敵なお話をありがとうございます!!(迂路)
  • いろいろと盛り込みすぎて格好悪い感じになりました。「生存を前提に」を合言葉にしておりましたが、やはり原作で退場した人を生き返らせるには抵抗があり。それならその前の時点の話が妥当なわけですが、この後どうせいなくなるんだ、と思ったら、つらくて書けない! 結果、記憶ない、ドローンは縢くん(仮)と会話してない、というわけで幻かもしれないし、生きてたかもしれないレベルで落ち着かせました。まさか夢小説から十年弱離れていた間にどハマりしたPSYCHO-PASSを書くことになろうとは。よい機会をありがとうございました!(編曲者:小雨)June 20, 2022