嵩張る想い



 もうすぐ一ヶ月だった。最終的には27日間だった。

 黛真知子は、ベッドに仰向けに寝そべり、ぎっしりと黒と赤の文字が書き込まれているスケジュール帳をかかげた。労働基準法を無視して休みなく働いた、その日数が27日間だったというわけだ。だが、古美門法律事務所は労働基準法に違反してはいない。なぜならきちんと一週間に2回休日があったからだ。
 しかし、黛はその休みにも動いた。雇い主である古美門研介が処理せずに放置していたこと、例えば書類の整理だとか協力してもらった方々へのお礼状を書くだとかそういうことを、勤務中だけではやりきれなかったのだ。だから黛は形式上の休日であっても事務所に出入りをしていた。そのあたりの手際の悪さは本人も自覚済みではある。もう何もないな、と事務所のソファで紅茶を一口飲んでから、ああ、あれも重要な証拠につながるかもしれない、という可能性をふと見出してしまって、翌日に走り回ることもしばしばであった。
 今日はそれが見つからない。よって、彼女は27日ぶりの完全オフ日を手に入れた。この世には毎日せわしなく活動し、じっとしていられない人種もいると言うが、彼女は決してそういう類の人間ではなかった。もちろんうっとうしいほどの正義感から休みを返上して行動するが、それでも彼女にはひとりで家にこもって過ごす時間が定期的に必要である。
 さて今日はどのようにして部屋で過ごそうか、そんなことを考えていた。しかしそれは、けたたましい携帯電話の着信で中断することになった。ベッドの脇に放置されていた携帯電話を覗き見ると「事務所」の表示。反射的に起き上がってから画面をスライドさせると、着信音に負けないほどの騒々しい声が耳を貫いた。

「まーゆーずーみー!このポンコツめ!あの資料どこへやった!動物園訴訟だ!お前が勝手に持ち出したり変な場所に置いたりするもんだから私も服部さんもお手上げだ!いますぐにじ」
 携帯電話を耳から話して電源を切る。動物園に娘を連れて行ったところライオンが交尾しており、娘に悪影響を与えた、という父親と動物園側の裁判の話だ。「金にはなったが実にくだらない。今後参考資料になることもないだろうから破棄してしまえ二度と私の目につかないようにしろ」と言ったのは古美門研介だったことはちゃんと記憶に残っている。

 機能を果たせなくなった携帯電話を投げ捨て、黛はいつかの古美門研介のように頭から毛布をかぶった。





「おはようございまーす・・・」

 翌日、古美門法律事務所に足を踏み入れ異変に気がつく。服部さんがいない。いつものずっしりとした出迎えの声の不在に不安感を覚えながらそろそろとリビングに向かうと、机に脚を投げ出して椅子に座り新聞を広げる先生を見つけた。
「今日はもう帰っていいぞー!休みだー!休日だー!さあ、とっととそのガニ股で歩いてきた道のりを再びガニ股で逆走したまえ!」
 嬉々とした声の休日宣言。スーツではなくベージュのカーディガンを羽織った彼の腕が「ええ?」私の間抜けな声をかき消すようにガサガサと耳障りな音をたてて新聞を一枚めくる。新聞で隠されて彼の表情を見ることはできない。
「なんでいきなりそういうこと言うんですか?今日休むことで困るのは先生でしょう?早いとこ依頼人と決めなきゃいけないことがたくさんあるのに!そもそも休みにするなら私が出勤する前に連絡したらどーーー」
 持っていた新聞を顔面めがけて投げつけられる。「うわっ!何するんですか!」新たな反論を口にすることとなった。
「黛真知子ー、お前が何を考えているか知らんが雇い主様からの電話を用件も最後まで聞かずに切るなんて非常識極まりない!疲労困憊で雇い主とも口を聞きたくないとでも言うのかーーーー?そんな身勝手な行動するやつはクビだクビーーーーーー!あっ、はじめからそう言えばよかったー!そうだ、クビだー!お前は今日から次の就職先が見つかるまでずーーーーーっと休日だこのオタマジャクシめ!これを機にガニ股矯正器具でもつけて四国八十八ヶ所歩き遍路でもしてくるといい!歩き方もその狂った思考回路も少しはマシになるだろう!」

 もっと不貞腐れた顔をしているのかと思っていたのだけれど、と、やっと見えた彼のゆるんだ口元と、下がった目尻に気を取られる。
「そ、それは謝ります!でも、あの資料を処分しろと言ったのは先生です!しかも、あの電話の後、メールで資料を送ったでしょう!」
 新聞を拾い上げて机に叩きつける。それが合図だったかのように彼は立ち上がり歩み寄ってくる。ああ、そういう問題ではなかったのか、はたとそこで気がつく。骨に鈍い痛みが走る程度の力で手首を握られ、思わず「いたい、」と声が漏れた。次に彼は何を言うのだろう、と少し顔を背けて身構えてみたものの、風が窓を叩く音しか耳に入ってこなかった。
「先生、私、たくさん働けますよ。体力ありますもん。でも、一人でぼけっとする時間が必要なんです。だってほら私、根暗ですから、あんまりアクティブなこと続けたり、毎日誰かといるとガス欠しちゃうんです。ね?お休みにしてくれるのは嬉しいですけど、そんな時間は一日そこらで足りるんですよ、すみません」

 だから、その手を離してください。 そう言った私の声は彼には聞こえないのかもしれない。彼の指先が食い込む感覚に目をつぶる。
 理由がないと会えないとでも言いたいの、傍若無人なあなたが。