水圧にゆがむ



 階段がきしむ音を聴いて反射的に振り返るが、ここからではその人影を捉えることはできない。もちろんその人物が誰なのか、選択肢はふたつもみっつもよっつも存在せず、「あれ、先生、起きたんですか」答えは出ていたので、特に問題はなかった。

「「あれ、先生、起きたんですか」じゃない。君こそなぜ私の家にいるのだ。今何時だと思っている。寝起きに幼稚園児の顔を見て喜んだり微笑んだりするのはせいぜいその親もしくは死期の近い祖父母ぐらいだろう」
 いつもの悪口には相手をせず、今、何時だろう?と机の上に置いてある携帯画面を見れば午前0時をまわっていた。二人で外回りを済ませて帰宅したのは今からざっと6時間ほど前のことになる。服部さんが「おかえりなさいませ」と言い終わる前に「頭痛がするので寝室に行きます。服部さん、今日はもう帰っていただいて結構です。ありがとうございました」と、彼が階段をのぼっていったのも、およそ6時間前の話だった。
「もう頭痛いの、良くなりました?」
 まとめていた書類をパラパラと捲りながら彼が向かった先に声が届くように、でも頭には響かないようにと調節した声で問いかけるが反応はなく、冷蔵庫の扉を開ける音がして食器棚から二つグラスを取る音がしてそのグラスに液体が注がれる音がするだけ。二つ分。そして彼が私のいるリビングへと近づいてくる気配が続く。
「先生、頭痛薬。服部さんから預かってます」
「さっさとよこせ」
 私の左手から、粉末ではなく錠剤の頭痛薬を奪い取ると、テーブルに水の入った二つのグラスを溢れない程度に乱暴に置き、一人がけの椅子ではなく私の座るソファの横にどかりと腰を下ろした。彼はいつだって行動が過剰なのだ。ゆらゆらと液体がゆれる。
「偏頭痛にはカフェインが良いらしいですよ。紅茶淹れましょうか?薬を紅茶で飲むのはよろしくないと思いますけど」
「いらない」
 彼はそう言うとグラス一つ分の水をたっぷり使ってふたつの錠剤を飲み込んだ。
「それで、君はなぜ私の家にいるのか」
「ちょっと仕事に集中していたら、いつの間にかこんな時間でした」
 抑揚のない声でそう答えれば、「仕事ぉ?紙飛行機でも作ってたんじゃないのか。いや、折り紙か?」テーブルの上の書類に目を落とした。
「・・・ねえ先生」
「なんだ」
「体調が悪いなら悪いと言ってくれたらよかったじゃないですか」
 じいっと、空になったグラスをみつめながら、努めて明るい声をつくる。ねえ先生。どうして外にいるあいだに、頭が痛くなったその瞬間に、二人で歩いているときに、「頭が痛い」、「たすけてほしい」と、そう言わなかったの。
「家に着いた途端に痛くなった」
「そんないきなり痛くなるもんですか」
「提灯パンツの幼稚園児に「頭が痛い」なんて宣言をして何になる?考えられる幼稚園児の行動は「いたいのいたいのとんでけー!」そんなことでとんでくもんかバーカ無駄な声帯の運動だ私はそんな無意味なことをせずただひたすら足を動かして優秀な事務員が待つ自宅へ帰還することに専念する」
「それでも気休めくらいにはなるかもしれません」
 じろり、と顔を睨まれているのが目の端に映る。それでも私は彼の顔を睨み返すことができず、何も言葉を発さない私の代わりに空調がぐうぐうと相槌を打つ。

「・・・気がつけなくてごめんなさい」
 手元の資料を騒々しくまとめてクリアファイルに入れて鞄に突っ込んで少し端が曲がった感触がしたけれどそのままファスナーを閉めて立ち上がろうと脚に力を入れたけれどそれはかなわなかった。彼はそれ以上の力で私の手首を掴んでいて私にはそれを振りほどく理由がひとつも見つからなかったのだった。
「今日はもう遅い。ソファくらいなら一晩貸してやる。宿泊代は今月分の給料から天減だ」
 おとなしくお尻を浮かさない私を確認して彼は手を離した。彼もそこから動くことはなく「寝る」膝の上に彼の頭分の重さがあるだけだった。私の目は、水が入ったままのグラスをぼんやりととらえている。