「いいことでもあったのか」
 溌剌とした声と楽器から流れる音色が近くから遠くからと混じり合う放課後、武道場とサッカーコートの間の踊り場で足を投げ出しコンクリートにお尻をついていたに問えば仁王立ちの俺に上目遣いの視線を向けて、「ないよ。むしろ物理で赤点とったもん。39点」と、めでたくない報告をした。
 当然ながら俺としてはの機嫌がよさそうに見えるときに冒頭のように問いかけるのだが、決まっての状況は逆であった。
「久々知、追試対策してよ」
「対策もなにもないだろ。そもそも基礎がわかっていないから最低限の点数も取れないんだから」
 えー、と不満の声をあげ、ジャージを履いた色気のない足をばたつかせるはどこか楽しそうだったので、しばらくそのまま調子を合わせることにした。
「先生に謝られたの」「謝るのはのほうだろ」「あと1点分、どこかおまけできないかと思って探したけどなかった、って」「……」。


「どうして久々知くんは標準語なの?」
 読書中の俺の視線は本からそう問いかけるクラスメイトの顔へと向けられた。俺が京都生まれ・京都育ちだとなんらかの筋から情報を得たのであろう。は高校一年生の梅雨の時期に、そう俺に疑問を投げかけた。
「母親が東京の人なんだ」
「そうなんだ」
 だからって生まれてこのかた京都なのでしょう、とは詰め寄ることはしなかった。これまで何度言われたかわからないことだったが、は人には人の事情があるということを身を以て理解しているような距離感だと思った。そもそも、さほど興味はなかったのかもしれない。同じことをに問えば、「京都の生まれ育ちではないからだよ」
と、返答があった。
「転勤族でさ。ついに海外転勤にまでなって。付いて行きたくなかったから、おばあちゃんちがある京都の高校へ進学したってわけ」
 こちらに深入りはして来なかったくせに、自分のことはさらりと話した。
「そうか。……俺はさ、母親の味方でいたいと思ったんだよ」
 ほとんど初対面ともいえる人間に曖昧だけど意味ありげな言葉を返したのは、はじめてだった。は少し口をすぼめてから、
「それはいいね。言葉を使って人は日々会話するんだし、地味に思えて意外と理にかなっている気がする」
 俺が幼いころにうっすらと実感して行動にうつしたその感覚を、は瞬時に理解したようだった。
 ぱたぱたと雨が窓を叩く音が小気味よかった。別にそうはならなくてもいいけれど、この子とは長い付き合いになるのだろうと、ぼんやりとした未来が脳裏に広がったことを覚えている。


 ところ変わって、部活動終わりのまだ熱気がじわりと残る武道場の畳の上。プリーツスカートであぐらをかき、畳に突っ伏してしまいそうな急勾配の前かがみで座り込むの正面に、同じくあぐらをかいて俺は座っていた。
「ちゃんと考えてる?」
「考えてるよ」
 くるっとシャーペンを指で回しては畳に落としながら、欠伸をしては答える。うそをつけ。その証拠にの明日中に提出しなければならないという物理のプリントの解答欄はまだ解答を待っていた。
「なんで、さっきここやったばっかだろ」
「知らない。でも考えてたよ」
 そう言ってシャーペンを置いて俺の顔をまじまじと見ながら、悪びれる様子もなく言った。
 そもそも私立高校の特進クラスにいるのだからもともと勉強はできたに違いない。ただおそらく、にとってのゴールは親元を離れて日本に暮らし続けるための強気の材料を取得することだったのだろう。学費は嵩むが、大きなヘマをしなければ──すでに赤点はそれに値するのかもしれなかったが──大学までのルートが敷かれている高校への合格こそが、説得材料になったことは想像に難くない。
 日が高いとはいえもう遅いから帰ろうと男の俺が提案する前に、はプリントをつまんでクリアファイルに差し込み、スカートのポケットに手を突っ込んで自転車の鍵を取り出していた。
 自転車置き場にはまだいくつか自転車が停まっていて、ここからは少し離れたのグラウンドの騒がしさからおおよそ部活動の時間が過ぎても残っていた野球部のものであることがわかる。「暑い」という言葉をもう何度発したかわからないは愛車を解錠し──なんとか号と名前をつけていたはずだが忘れた──ストッパーを蹴り上げた。
「漕いでやろうか」
「へえ? 久々知は優等生だと思ってたけど」
 ふっとするどく息を吐き出して「二人乗りー! 止まれー!」いつも眉間にシワを寄せている体育教師の真似をして俺の言動を揶揄った。似ていないと頭を叩くつもりだったが、わりと特徴を掴んでいたのではは、と声が出た。
「いいんだよ」
 の持っていたハンドルを代わりに握る。気温に文句を言っていたくせには俺を追い越し小走りで校門をくぐり抜け、振り返ってこちらへ手を振る。交通違反のスタートはそこからだ。この先にすぐ現れる急な下り坂と武道場で丸まっていたの背中に思いを馳せる。──何がいいんだろうか?