駅から母の運転する車に拾われて、四十分くらい走った。高層のマンションはすっかり見えなくなり、田んぼやカラス除けの類がわたしを出迎える。緑と緑のあいだに立地しているこのあたりじゃいちばん格式が高かろう日本料理店の敷地内に降ろされた。じゃあよろしくね、と母は手を振って、車をUターンさせはじめる。店の引き戸をスライドさせて、もういちど振り返ると、母の車が出て行くのと入れ違いに軽トラックが入って来た。
あ、運転したはるんが“信ちゃん”や、とわかった。写真を見せられたわけではないから顔は知らなかったけれど、農業をやっている人だとは聞いていた。だから、自分と同じタイミングで軽トラで乗り付ける人は、おそらくその人だろうと思ったのだ。彼を待っていっしょに入店してもいいけど、会話する時間をわざわざ増やす必要はないだろう。仲居さんがゆるやかな声で来店を歓迎してくれたので、店内に向き直って会釈をしてから膝をまげてパンプスに手を伸ばした。
散々仕事をしたくない、飲みに行きたい、と駄々をこねていたのはわたしの上司だ。確か五十二歳。職業弁護士。めんどくせー酒のみてーなどと言いながら高い金払って依頼した弁護を受け持たれていると知ったら、グーパンチ一発くらいかましたくなることだろう。そんな彼がしぶしぶ、でも確実に事を進めだすのはランチタイムはずいぶん過ぎ去ったころだと相場が決まっている。
おまえがやりたくないってぐちぐち言っとるその時間、ちゃんと仕事してくれてりゃ後からわたしが走り回らんくてよくなるねんけどな! とそのままのセリフを言うことはせずに(ええからはよしてください。とは言った)、申請書をひったくって人の少ない午前中に東京地方裁判所へ赴いた。いわゆるお盆の時期の休みに入る前日にも関わらず先客はいなかった。電気も空調もつけず、座ることもせず中腰で裁判記録の謄写をもくもくと行なっていれば、「電気つけな! 冷房もつけな!」事務員のおばちゃんがさっそうと現れ、二箇所のボタンを早業で押してまたせわしなく出て行った。一気に明るくなった部屋に再度ひとり置き去りにされたぽつんと感と、あまりのスピード感に鼻から息が出た。鼻水が出なかったのは幸いだった。それとほぼ同時にテーブルの上に乗せていたスマートフォンが板を鳴らしはじめて、端末を手に取る。
『あ、今大丈夫?』
「なに?」
一足先に、自身の実家である兵庫県に帰省しているはずの母からの電話だった。
『明日、お昼前に帰って来られへん?』
「うーん、新幹線予約してへんし、大丈夫やけど。なんで?」
『お見合いにな、行って欲しいねん』
「はあ?」
よくよく話を聞いてみれば、母の母、ようするにわたしの祖母が、友人の孫とのお見合いをセッティングしたのだという。お見合い、という単語自体にさほど驚きはなかった。
「いつもの冗談とちがうん」
初孫であるわたしの結婚を見届けることがどうしても楽しみでしかたがないらしい、ということは隔年の帰省時のばあちゃんの発言から、理解はしていた。そのたびに、お見合いせえへんか、とばあちゃんはうわ言のようにつぶやいていたのだ。
『それが、もうお店も予約したとか言うて』
「とりあえず関西におる孫にしいよ。よりによって東京都民をあてがうな!」
大阪で生まれ育ったわたしは大学から東京に出て、そのまま東京で就職した。そういうわけで、わたしは東京都内在住である。ばあちゃんにとっての孫はわたしだけではない。母は五姉妹の長女であり、それぞれ娘がいるし、彼女たちは関西にいるはずだった。
『だからあんたにしとこ、ってのもあるんよ? ほら、遠距離やったらそれを理由に前に進まへんくてもええんやから』
「ほんならマジで時間の無駄やん。あっちの人にも失礼やんか」
言って気がつくが、ばあちゃんに振り回されているのはこちらだけではなく、おそらくあっちもなのだ。ばあちゃんちは兵庫県の田舎だが、実際お見合いなんて古臭いこと、必要ないはずだ。ちょっと出りゃあ、出会いはいくらでもあるはずなのだから。
『ばあちゃんの遺言や思って聞いたってや』
「遺言て…………。……わかった。会うだけ会うたる」
縁起でもないことを言うもんだ。実際、東京にいてばあちゃん孝行はなにひとつできていないという負い目はあった。まさか着物は着ないし、仲人的なものも不要、とにかくいかにも、みたいな形式だけはとらんといてほしい。ということだけは、母に約束させた。
そんなわけで、一応まあまあそこそこなワンピースを着用して、今である。
ばあちゃんが言うところの信ちゃんは、北信介さん。いや、くん? 年齢すらわからへん。わたしの年齢から誤差があっても二、三歳ではあろうが、ばあちゃんの記憶力は定かではない。ボケとるとかじゃなくて、ばあちゃんという生き物は往往にしてそういうものなのだ。
「たまには、ええんちゃうかな」
なにが“たまにはええ”んやろうか。
お見合いなんて何度もやるもんとちがうし、こういう、ちょっとええとこでご飯を食べることが、ええんかな。まあ、知らんけど。
案内してくれた仲居さんが飲み物を尋ねてくれ、彼は烏龍茶を頼んだのでそれに倣う。まあ、彼は車で来たはったしね。アルコールもないとは、もう詰みですか。
目の前の彼の顔は日に焼けていて、なるほど農家の人、という感じであるが、もともと彼は色白のなんというか、シュッとした人なんじゃないだろうか、と想像した。そういう顔立ちをしているのだ。少しまわりより温度が低そうな。
「あの、北さん?」
「信介でええよ」
「し、信介さん……」
しどろもどろである。
さすがにわたしは初対面の男性のことを下の名前で呼び捨てられるだけの図々しさは持ち合わせていない。ただ、彼がわたしにナチュラルに敬語を使っていないのは、同い年だからか、彼のほうが年上だからか、なにか確証があるんだろう。
「農業は、たのしいですか?」
「たのしいよ」
「……」
「……」
踏んだり蹴ったりである。
とりあえず会席料理を食べきるまでの辛抱や。合コンは散々やってきたけど、一対一で、しかもばあちゃんの友だちの孫とか、農家の人とか、なにも接点がなくて絶望的。わたしは営業畑でもないから雑談力もないのだ。それこそ、年齢でも聞いてみるべきだった。
「仕事、なにしてるん?」
「えっと、法律事務所で働いてます」
「弁護士さんなん?」
そう見えるだろうか。
見えないだろうから、彼はおどろいた顔をしているにちがいない。残念ながら秘書であると伝えると、彼はとくに残念がるそぶりも見せずに、わたしが数分前に尋ねたことが返ってくる。
「おもろい?」
「はい。たのしくやってます」
今度はわたしが驚愕した。わたしの返事に、わたしが。
えっ。わたし、仕事おもろくて、たのしいんか。自分で答えておいて、自分の答えを疑った。ちょっと、違和感はあったのだ。
襖がひらいて、ふたつのグラスがそれぞれの前にそっと置かれる。控えめにグラスを掲げて乾杯して、わたしも信介さんも一口飲み込んだ。
「なんやろ、そうですね。仕事が、っていうか、人間関係が、おもろいんかな」
「関わる人は大事よな」
たのしい職場ってそうそうあるもんやないやろ。ええな。
そう言って顔の前で手のひらを合わせた信介さんは、はっきりと「いただきます」と口にして先付けにお箸を伸ばす。わたしも弾かれたように手をくっつけ、復唱した。
「農業って、喋らないものが相手やないですか。たのしいですか?」
わたしは彼から否定のことばを引き出したいのだろうか。問い方を変えたにしても、二度も同じ質問をしてしまった自分のおでこを指先で叩く。気を取り直してわたしも小鉢から甘エビを口に運んだ。
「喋り相手がつねにおらんのが楽しくなくないですか、って意味なんやろけど」
ていねいにわたしの質問の意図が変化したことを拾い上げられて、少し恥ずかしい。もぐもぐと咀嚼を続けながら二度うなずく。
「そら喋らへんけど、正直な相手やし、人間よりわかりやすいかもしらんな」
信介さんは、ふだん無口なんやろうか。いや、こうしてうまく喋れないわたしの代わりによく話してくれてるけど、無理して得体の知れない人間とコミュニケーションをはかってくれているのだろうか。そう思えば思うほど、まったく心臓が落ち着かない。わたしはこんなに緊張しいだったか。社会人も数年経つと、小さな変化はあれど、自分のテリトリー、通常、みたいな範囲から大きく外れることってないからなあ。
「たまにニュースでみますけど、農作物は天候にめっちゃ左右されるやないですか。……あれ、つらくないですか?」
小学生の社会科研究か。
もしかするとこの辺りに住む、農業に慣れ親しんでいる子どものほうがよっぽどいい取材をするかもしれない。いや、絶対する。
「結果はあくまでも副産物や……って、昔は思っててんけど。いや、今もまあまあふつうに思ってんねんけど、結果出さへんとお金にならへんからなあ」
ま、けどだからってきちんとやらへんでええって理由にはならんけども。と、信介さんが眉を下げる。
聞き覚えのある言葉やな、と脳みそがだれかのことばを引っ張り出してくる。ああ、おそらく友人同士であるばあちゃんたちの共通言語なんだろう。きちんとやる、ちゃんとやる、神さまが見ててくれるから。
「……きちんとやってもね、神さまなら、ゆるさないであろう人間のことを法的に野放しにしてしまうこともあるんですよね」
訴訟に必要な書類をそろえて提出するのが、わたしの主な仕事だ。不備はゆるされない。きちんとやっている。
それでも、"勝つべき”と思う人が最後に笑っているかというと、そうではない。不倫でも事故でも、なんでも傷つくのは人である。そして傷つけるのもまた、人だ。さまざまな案件の資料をみながら、過去の記録を読みながら、弁護士になれる頭はない──そもそもなるつもりもなかったが──アホはアホなりに、書類の先にみえる人物を想像し、同情し、ときに腹を立てたりするのだ。
「いや、なんかごめんなさい」
「ええよ」
この人がええよ、と言うたら、ほんまに“ええ”かな、って気持ちになるな。このにじみでる納得感は、信介さんが日々、きちんとやっているからなのかもしれん。
「そうやって親身になってまうのも、真剣にやっとるからやんな」
「いや、わたしは手を抜いてたのしくやれる範囲のことやってるんですよ」
「だとしても、仕事おもろいかて聞いて即答でおもろい、って返すやつ、そうそうおらんで」
黄色とピンクと白で三層になっている卵焼きらしきものにそっと箸を入れる。
「ええ奥さんになるわ」
思わず指先に力が入りすぎてボロボロと身がくずれる。いや、これは卵焼きとちがうわ。
この人はほんとうにお見合いの体を成しているつもりだったのか? それとも、そういう成り行きでここにいるから、わたしの未来へのエール?
「はは、なれますかね?」
そうして、わたしはわたしの覚えた目の前の男の第一印象を出会って数十分で否定せざるを得なくなる。
「なる気、ある?」
なにが、まわりより温度の低そうな人、だ。小さく首を傾げて口角を上げる彼は、太陽にも劣らない。
どうしよう、まだ前菜にもたどり着いていないのに。