地下駐車場で車のキーを向けようとしたところで、名前をよばれた。背後からの声にうしろを振りかえれば、想像どおりの人物がこちらへ向かって歩いてくる。
Tシャツ、デニム、スニーカー。せっかくなのだから、しずかな空間に響かせるヒールの音くらいの色気があってもいいと思う。
もともと著名人の恋愛沙汰や与太話を専門に書かされていた週刊誌の記者だが、近頃俺にひっついてくるようになった。刑事としての俺ではなく、ラップという芸とそれに関わるほんの少しの名声をもっている俺に用があるのだ。芸能人の部類にジャンル分けされるとは“バトル”をしている側の人間にとってみれば居心地のよいものではない。
「さん、こんばんは」
そして、この女はいいか悪いか、幸か不幸か、中学時代の同級生だった。とはいっても会話をした記憶はあまりない。それでも、「昔馴染みならあれこれ聞き出せるんじゃねえの。おまえ行ってこいよ」なんて安易な話が社内で行われたことは想像できる。
「よくも火貂組なんてあてがってくれたわね」
「おや、何の話でしょうか」
そういうわけで、彼女の存在は少々仕事の邪魔だった。四六時中つきまとわれるわけではないが、左馬刻に軽く脅しておいてくれと頼んだのだ。対象が女であることに左馬刻は眉根を動かしたが、それこそが彼女の安寧に繋がるだろう? と言えばだまって舎弟をよびつけた。
文句しかない様子で俺を見上げるその右の目の下の皮膚がほんの数ミリ切れていた。血はにじんでそのまま凝固しているため、直近の傷ではないらしい。
「……暴力はいけませんね。被害届は?」
「結構! 先に手を出したのはわたしだから」
いや待てよ、脚か。と、あごに手をそえ、右脚を蹴り出す。
「お行儀が悪いですね」
ひざ下に軽度の痛みを受けながら、末端までおまえの思想が行き届いていないようだが、とあとで左馬刻には伝える必要がありそうだと考える。己の未熟さを棚に上げてとばっちりで自分が暴言を浴びる未来はみえた。
「入間くんは、ほんとに自分が上手くやれてると思ってるの?」
「なにがですか?」
ヤクザを斡旋したことに気がつかれていないとはこの期に及んでさすがに思っていない。週刊誌の芸能面をにぎやかす記者の質問としての意図がまったくわからなかった。
「今、入間くんが追ってるけど追いついてないヤマはどこぞの密売人に通じてるよ」
「そうでしょう」
だから追っていた。
もともと猟奇殺人のたぐいだと勘定されていた閑静な住宅街での殺人事件のホシが、出所したばかりのヤクザ者である線というのは、妻と娘を殺され、ひとり残された男がヤツの服役していた刑務所の看守であったことから浮上してきたものだった。
凄惨な現場は証拠を隠蔽したような様子は見られず、すぐに令状が出るだろうと踏んでいた。ところが、科捜研からあがってきた報告は、指紋もDNAも見つからず暗礁に乗り上げている、という悪報だった。
とうぜんホシには紙切れを持たずに当たってはみた。平然と「ムショで世話になったお礼に伺いましたぜ」などと現場へ滞在したことは認めたが、それだけだった。
「入間くんに不満のある上層部が噛んでるんだよ」
「それはまあ、そうでしょうね」
「呑気なんだね」
そんなことにはすっかり慣れていて、それが当たり前になっている。だからこそ今回ピンポイントで狙われたということ、そしてずいぶんとおおごとになっていたということには、たしかに気がついていなかった。いつものことだ、と対して焦りを覚えないのは成長の証だと思いたいところだが、どちらかといえば退化かもしれない。
「さんは、芸能番なのでは?」
「そうだよ。変わりない」
左馬刻をまわすのは一歩か二歩か遅かったのだ。巻き込むのは不本意だった。
むずかしい顔をして、俺にふりかかっているトラブルを一生懸命説明してくれた彼女には申し訳ないが、たどたどしい言い回しで、なによりその外見に話の内容が釣り合っていなかった。本人とて、本意ではなかったにちがいない。
もっとはやく手を打てたのではないだろうか。自分がここまで気が回らないほど疲弊していたつもりはなかった。では、俺はあえてここまで打たなかったとでもいうのだろうか。それはひどい結論だな、と鼻が鳴る。
「ペンは剣よりも強し……そう思いますか?」
「バカにしてる? トレンドはペンは剣よりヒプノシスマイクでしょ」
「それぞれ優劣つけたつもりはありませんがね」
とくに悔しがる様子もみせず、ひとつ笑い声を出した彼女は自分の両腕で自身の上半身をだきしめて、「残念ながら、わたしは長いものに巻かれるタイプだよ」小さく首をかしげた。
健気さを演出したかったようだが、ただ首が凝っているデスクワークの女のストレッチにしかみえなかった。それならば手は後ろにまわして肩甲骨を開いたほうがいいだろうな。
「送っていきましょうか?」
一生駐車場で立ち話をしているわけにもいかない。運転席のドアに手をかけて提案する。
「わたしが週刊誌に売られるわ!」
「それは困りますね。では夜道にお気をつけください」
「昨日の今日で、しゃれにならないんだけど!」
今度は女のひとりやふたりくらい連れてなさいよ! と身を翻して大股で歩いていくその背中、そのたびにゆれる髪の毛を横目に、ドアを開けた。
明け方、喫煙所に入る前に朝刊置き場からひったくった二つ折りの新聞紙を片手で広げる。【シンジュク組対がヨコハマに圧力か】【隠蔽工作「命令だった」科捜研の証言】。
吐き出した煙草の煙が思わず小刻みに空間をただよう。──なるほど、自分の手は汚さないと。たしかに直進してへし折られるより、曲がったほうがいいこともある。
週刊誌を彩るには多少もの足りなかろうが、【MAD TRIGGER CREW入間銃兎 熱愛か!?】くらいの見出しを小さく踊らせてやる協力くらいはしてやってもいい。その相手も、果たしてそれが謝礼になるのかも、彼女の意向次第だ。