スーパーへの買い出しを月二度くらいの頻度で依頼をしてくるさんという女性がいた。萬屋に特売への参戦依頼はよくあったけれど、ネットスーパーや生協というありがたい存在を無視して萬屋に定期的なお買い物を依頼する人はあまり多くはない。依頼料もべつに、そちらより安いということもないからだ。
買い物のリストは5キロのお米とかトイレットペーパーとか、重かったり大きいものが多かったので、注文方法を覚えるのが億劫で、体力のないおばあちゃんかな、くらいは依頼主のことを想像したことはあった。特売の場合はスーパーの出入り口で渡してしまったり、指定の自宅や場所で受け渡しをするけれど、さんの場合は購入品はアパートの玄関前に置いて、お代は請求分が口座に振り込まれるというやりとりだったので顔を見ることがなかった。おばあちゃんなのであれば、健康状態の確認もかねて顔を合わせてもらったほうがいいな、ただこのアパートは階段しかないけど足腰大丈夫かな、なんて、考えていたところだった。
「ネットスーパー、置き配してくれないのよ。かといって、生協を頼むほどでもないしね」
階段で二階まで上がり、さんが勝手に配置しているのであろう萬屋用の簡易ボックスにどさりと今日の戦利品を下ろしたところで、背後から声がかかった。振り返れば若い女の人だったのでおどろいた。俺と独歩とどちらに年齢が近いかと言われると、ぎりぎり俺側なのではないかと思う。
さんが萬屋に買い物を頼むのは、置き配を気軽にしてもらえるから、という理由らしい。もちろん、彼女の腕力の問題もあるだろう。上から下へとその姿をついながめてしまって、彼女のお腹がその華奢な肩幅と比較して大きいことに気がつく。そうか、妊婦さんでは、なおさら体に負担をかけたくなかったのだ。
「今日は対応がギリギリになってしまって、すみません」
「いやいや、時間通りですからいいんですよ?」
「いや……鉢合わせたくなかったのかな、と」
「お気遣いありがとう」
レシートの入った封筒だけさんに手渡せば、「またお願いね」。口角をきれいにあげて、ほほえんだ。
そう言っていたにもかかわらず、翌月から彼女の依頼は途絶えた。
土曜日の昼過ぎ、依頼が入ったと兄貴から連絡があった。ちょうど二郎が聞き込みをしているあたりのアパートだからとりあえず行ってくれないかと住所がスマートフォンに送られてきて、見れば依頼主はさんであった。もうあれからどれほど経っただろうか。季節が少なくとも一周はした。過去の記憶はわりとちゃんと残っていて、地図なしで向かうアパートの様子をたどる。アパートといってもワンフロアに一世帯しか居住スペースがないという広々とした間取りであったから、一階と二階で二世帯だけで、マンションではなくても家族で暮らしやすそうな家だったなあ。
コンコンコンと階段を鳴らして二階へたどりつき、今まで押したことのなかったインターホンに手をのばす。なぜだか少し、深呼吸が必要だった。
「萬屋ヤマダ、山田二郎です」
名乗れば化粧っ気のない顔のさんが顔を出し、後ろからとてとて、と足を動かしこちらへ向かってこようとする子どもがみえる。そうか、あの日のお腹にいた子は無事にうまれていたんだな。はやく扉を閉めたほうがいいだろうと、ドアの取っ手を引っ張った。
「ワンオペだから、たまには息抜きしたくてね」
ひとりで家事と育児をさばいている、ということだ。ネットニュースかなにかで見かけたことのあるワードだった。スニーカーを揃えてフローリングに足をつける。お世辞にも整っているとはいえない部屋の様子が日々の慌ただしさを彷彿とさせる。
「片付けか子どもの相手か、どっちか手伝ってほしくて」
得意なほうでかまわないよと俺を気遣うさんに、
「仕事だから、どちらでもやりますよ。だから、さんが苦手なほうを俺にください」
と言えば、
「どっちも!」
さんは声をあげて笑った。俺の聞き方が悪かったがために、俺はどんな表情をしていいのかわからなくなった。
「ごめんごめん、息子がきらいなわけじゃないよ。すき、すき」
さんは俺の肩をひとつ叩いて、俺の足元をくるくるとまわり続けているその子の頭をかがんでなでた。
俺の母親がどうだったのかはわからないが、実際俺たちのことを彼女はどんな風に扱っていたのだろう。その想像の片隅に、疲労や苦痛があったことを考えずにはいられなかった日々が、あった。だから、そんな言い回しが口をついてしまったのかもしれない。
二郎くんに人見知りしないみたいだから、しばらくそのままよろしく。とさんはカウンターキッチンへと向かう。たまっていた食器を洗うべく、蛇口から水がシンクを叩く音がする。洗い物というのは修行のようだ。終わったと思ってもすぐに次のご飯の時間。永遠にくりかえされる食事は洗い物を終わらせてはくれない。俺が半日そこらこの家にいたところで、根本的な解決にはならないだろう。
「旦那さん、お忙しいんですか」
「忙しいもなにも、いないのよ」
「単身赴任ですか?」
「いやぁ、わたし未婚だから」
また悪手だ。さんは人と適度な距離を保ちたい人なのだ、だからスーパーへの買い出し依頼もあの日以来途切れたはずだ。これではまた彼女が人を頼る手段をひとつ減らしてしまうのではないか? カウンター越しに顔色をうかがうが、下を向いたままでよくみえなかった。
「私情に口を挟みすぎました。申し訳ありません」
「いいんだよ」
「あの日も、間が悪くてすみませんでした」
あの日。とさんは顔を少し上げて小さく口を動かす。ああ、と思い当たった様子で、
「いやいや、シンプルにインターホンに出て短い会話をして商品を受け取るのがめんどかっただけで、絶対に会いたくないとかじゃなかったよ」
あの玄関前で鉢合わせた日から数日後に実家へ戻ったのだと、以来の依頼がなかったことについて理由を述べた。頼れるところといったら、結局肉親しかいなかったのだと。ほんとうに助かったけど、もともとあまりいい関係を築いてはいないから、ともに暮らすことにも疲れこちらに戻って来たのだと言う。この家の家賃は男が払ってくれているのでそのまま放っておけたのだそうだ。
「二郎くんみたいな男前が運んでくれてたなら、むしろ会っておけばよかったね!」
あははと笑うさんの声につられて、子どもがふにゃふにゃと顔をくずして声をあげた。
「あっ! じろー!」
公園を囲むように設置されているポールのあいだから見慣れた子どもが俺のなまえを叫んで駆けてくるので、腰を落としてそのまま抱きとめる。
「おー、元気か?」
「うん!」
左右を見渡すが見慣れたおとなの顔が見当たらない。子どもの手をつかんで一歩二歩と横にずれると、
「つかまえてて!」
さんが必死の形相でこちらへ走ってきているところだった。もう足元もしっかりして、口も達者になってきたけれど自分にふりかかる危険を理解はできない子どもを見張るのは骨が折れるだろう。
「右手は俺、左手はおかーさんとつなごうな」
「やだ!」
やだ、じゃねぇんだよ。と小さな右手をにぎってさんが追いつくのを待つ。
「二郎くん助かった、ナイスタイミング」
乱れた髪の毛を手でほぐしながらさんが片手で息子の左手をとろうとしたが、その前に息子の手が母の手首をとり、俺の空いている右手まで運んだ。
「じろーがおかーさんとつないどいて」
「はいよ。ほれ、オーケー?」
……ん? なにがオーケー? ナチュラルな流れ作業でつないださんの手の感触に、ふたり、ほうけた顔で目を合わせる。ほかほかふわふわとした手ではなく、ささくれがチクリとさすその手は母親のそれだった。その隙に俺の手から逃れた捕獲対象は短い足をいっぱいに動かしてまた公園内を目指して走っていく。
「──これじゃ、あんたが捕まえられないから意味ないのよ!」
息子を追うべく一歩踏み出した母親に引っ張られ、つんのめる。それくらいではほどけないほど、思わず強くにぎってしまっていた自分の手に、おどろいた。