む。
 いつみてもそういう口をしている。おちょぼ口のようにあひる口のように、でもその表現では少し語弊をうみそうな、む。
 むっ、じゃない。それだと不平不満をあらわしている要素が強くなってしまう。そうではない。む、なのだ。弁当をたいらげて口を拭いたあとも、む。おいしくないのか。見かけるたび、未来が少し視えるたび、いつでも、む。なぜもなにも、彼女にとってはむ、が通常なのだ。
 そんな、む、の持ち主は、おれが数多くいる同じ高校に通う生徒のなかで認識している人間のうちのひとりだった。
 およそ年齢に比例した無邪気さというものが足らない。いたってふつうの高校生だ。とくに問題のある家庭環境だと噂を耳にしたこともない(もっとも、近界民侵攻時に親族や知人を亡くした者は少なくはない)。
 仮になにかあったとしても、だれかしらどこかで喜怒哀楽を表現しているものだ。喜びと楽しさの表現に乏しい人間でも怒りについては大きく出たりもする。

 彼女をむの口の女だと認識してから数か月、いままさにすれ違おうとしているその彼女が表情を変えるイメージがふと視え、なんどかまばたきを重ねる。
 彼女にいいことがあったのか、と尋ねたのはほとんど衝動に近い。だから問い方を間違えた。いいことはこれから起こるのだ。過去形ではない。確定でもない。
 なぜ、と、小さな口が動くが目を合わせてもらえない。当然のことながら警戒されているようだった。
 発言を少し訂正し、おれのサイドエフェクトがそう言ってるのだと伝えると、サイド、と、おれの口から出た文言を頭の中で並べ、組み立てようとしたようだが、最後まで繋げることを彼女は放棄した。未来がちょっと視えるのだと告げると、そうですかと彼女は床につぶやいた。
 そのまま彼女の横をすり抜け、背後に急に会話もしたことのない男子生徒に声をかけられ突っ立つことになったかわいそうな彼女の気配を感じながら考えをめぐらす。
 いったい何が君のその頑なな口を動かすというのだろうか。


 あくる日、すっかり生徒が吸い込まれてしまってから大分時間が過ぎた校舎に足を踏み入れると、やけに静かであった。
 教室へ向かうことをやめ校庭のほうへ行き先を変更すれば、離れの講堂に全生徒が集まっていた。部活動のユニフォームを着用した生徒が充満していることから、壮行会が行われていることを察した。
 放送部部員のマイクを通した進行の声がじわりと漏れ聞こえる最中、壇上に上がる彼女がいた。美術公募展で表彰されたというようなコメントが聞こえてきたが、聞き間違いではないだろうか。なにせ彼女の口は。

 あれはいいことではなかったのかと、講堂の出入り口から吐き出される彼女に問うと、彼女と待ち合わせ教室へ戻ろうとしていたのであろうふたりがふいに現れたおれと彼女の顔を交互にみて、彼女をひとり残した。
 あれがどれだというのはついさきほどの出来事から連想できたのだろうが、ことばを濁す彼女はひとつ息を吐いて、なにがいいことなんだろうかと、自分にかおれにか、問いかけた。もちろんおれにはわからないので、

「じゃあ、おれといいことを探そうか。」


 とはいったものの、 いいこと、とはなんだろう。
 その口ばかりにおれは気を取られているが彼女は容姿にも恵まれているほうだろう。
 学歴、恋人、お金、趣味、地位、名誉、嗜好品。とりあえず彼女にひとつふたつ、話題を振る日を重ねると彼女は一応何かしら答えてくれる。
 わざわざ彼女のいる教室に足を運んでも彼女は迷惑な素振りはみせない。が、彼女はきまっていつもおれの顔をみない。空いている空間をみている。そこにだれがみえているのかのように、そこへ語りかけ、口をまた閉じてしまう。
 もちろん、む、にもいろいろとあった。
 当然ながらつねに口がむの形でくっついているわけではないから、少しずつその表情は違うのだ。人間だから、人形じゃないから、彼女の口周りにも感情があった。それが明確になにを表しているのかは、残念ながらまだまだおれの勉強が足らない。


 ばたばたと雨粒が窓に打ち付ける音に合わせて小さく歌いながら仄暗い校舎の廊下を歩いているとき、途中に彼女の描いた絵画が掲示されていることに気がついた。正確にいうとその絵画をみたときにこれは彼女の描いたものだと、理解した。
 同時に帳がかかっていたようだった彼女の表情がふと煌めき、階段を転げるようにくだる。校舎を飛び出した先でひとつふたつ水たまりを踏み、しぶきがズボンにかかるのをおれは嫌がっているが、そもそも傘すらさしていなかった。

 あれは——


 雨粒に黄色い点滅が反射して道路を叩く。
 突っ立っている彼女の表情は彼女のさす赤い無地の傘が邪魔をしてみられない。
 これがいいことかと問えば彼女は雨音に負けないぎりぎりのラインの声量で、ならばそうだと思うと短く答えた。ならば、というのはおれに未来が視えているのならば、ということだろう。
「だから、止めないで。」
「ごめん。それはできなかった。おれも、みたかったけど。」
 なにをかと目的語を尋ねる彼女に頼んだら、一般的な標準的な所謂笑顔という表情を頑張ってつくってくれるのだろうか。彼女が息を止めるその瞬間にゆるむというその口を、みられるのだろうか。
 傘の柄を掴むとほとんど彼女は抵抗せず、掌と指の力を抜いておれに預けた。
「でも、いいんだ。今は、その顔がみたいんだ。」