「岩ちゃんがアンタのこと好きなんだってよ」
反射的に口から引っこ抜いた紙パックのジュースに突き刺さっているストローの先端はつぶれている。ついつい噛んでしまうのはわたしの褒められない癖のひとつである。
「ええ……誰がそんなことを……」
みぃんみぃんじじじじじ、と響く蝉の大合唱は、学校からバス停までの道のりにひしめく野次馬のようだった。
高校三年生の男子たちの恋バナってどんな感じなんだろう。「好きな人いんの?」とか、真っ向から聞いたりするのだろうか。岩泉が「俺は誰々さんが好きだ」なんて、馬鹿正直に教えるだろうか。そもそも岩泉が誰かのことを好きだ、なんて本人以外に言うんだろうか。せいぜい、いいなと思ってる。くらいなんじゃないか、とわたしの岩泉一像は言っている。
火のないところに煙は立たない、ということは学生生活のなかで身をもって理解したことわざのひとつなので、友人の言うことは一部は間違いなくほんとうなのだろう。しかし、どこかで話がねじれたはずだ。そうに決まっている。
そのうえで考えたのは「誰かいねーの? 誰々さんとかは?」という候補列挙型で、岩泉が肯定とも取れるあいまいなリアクションをしたのではないかということだった。それか、消去法で残ったとか。
あとは、わたしが「及川くんってほんっとにかっこいいよね」という耳タコな感想に「岩泉のほうがよくない?」と答えるような。ちょっとウケが狙える無難な選択肢。また、やけにリアルな回答とも言う。
仮にわたしの「岩泉のほうがよくない?」というコメントが男子側にもれたとしても、岩泉の耳に入ったとしても、岩泉は真に受けることなくスルーしてくれる。実際、そうやってここ数年をかけて何本かフラグをへし折ってきた男だ。信頼の実績がある。
「で、どーよ、岩ちゃん! ダメ?」
「いや、ダメとかじゃないけど……」
わたしと岩泉はよく話す部類ではあると思う。わたしはあまり気楽に話せる男友だちが多くないので、岩泉一という男の顔面に〝仲良〟と彫られた判子を押せるけれど、岩泉から見たわたしはどうだろう。
岩泉は及川の近くにいるのも相まって「岩ちゃ〜ん」「いわち〜」「はじめちゃ〜ん」などとギャルたちに構われていることも多い。つまり、女と話していること自体は珍しいタイプではない。
「わたしがというより、岩泉がわたしのことダメだと思うんだけど」
「だーかーらー! 岩ちゃんがアンタのこと好きなんだから、そこはクリアしてる前提でしょうが」
そもそも、そこの信憑性がもっともないわけである。
「バス来てんじゃん! じゃ、また来週!」
ドタバタと大股で駆けてゆく友人の豪快に揺れるスカートに遅れて返事をする。
岩泉がわたしのことを好き、なんて、そんな。
汗がつつ、とこめかみをなぞる。コンクリートに転がっていた夏の風物詩がびたびたと跳ねていた。
シャープペンシルを握るきれいに整えられた指の先。丸まった背中にうっすらと透けているランニングシャツ。配布物を後ろへ回すときに浮き出る腕の血管。スクイズボトルを口につけて上げた顎。上下する喉。
はっ、と気がついたときには左斜め前に座っている男を目で追っていて、ひっ、と見てはいけないものを見てしまった、と目を逸らす。まれに視線がかち合ってしまいわたわたする。といった一連の流れを飽きずに一日中くり返した。
終礼後の教室からはわらわらと生徒が吐き出されていく。バス停までの道を共に歩く友人はアルバイトの日なので、いの一番に飛び出して行った。
片手に紙パックを握り、机の上のスクールバッグに顔を沈める。〝岩泉一がわたしのことを好きである〟という可能性を提示されてから、わたしはどこかふわふわした気持ちを押さえつけながら土日をやり過ごした。
そして月曜日。岩泉一という存在は比喩でもなんでもなく、わたしにとって粲然たるものとなっていた。わたし、単純すぎる。ウブすぎる。愚かすぎる。
「なんか怒ってんのか?」
「いっ……」
岩泉!
紙パックを危うく押し潰しそうになったのをすんでのところで堪えて顔を上げる。突っ立っている岩泉の顔はわたしより随分と高いところにある。
「今日、いつ見てもガン飛ばしてたぞ」
睨みつけていたわけではないのだが。むしろなんというか、それとは対極にあるような感情を抱いてしまっていたような気がするのだが。
ちゅう、とストローからミルクティーを吸い込む。すでに閉じかかっている吸い口からはあまり多くの液体を吸い上げられない。
「それか、体調悪いのか」
わずかに変化した声色に背筋が伸びる。いつも軽口ばっかり叩いているくせに、こういう気遣いができてしまうところがまた憎く、無駄な心配をかけさせたことに焦ってしまう。
「いや、すこぶる元気なんだけど……なんか岩泉が……その……」
「俺!? 俺がなんなんだよ」
岩泉は眉根を寄せる。怒っているわけではなく、ただただ彼も、わたしに何か粗相をしたのか、と不安なのである。
「……えっと、まあ……今日からちょっと……かっこよく見えて困る、っていうか……」
「はぁ!? 今日から、ってなんだ!」
俺は前々からかっこいいだろ! とは岩泉は言わなかったし、たぶん思ってもいないだろうけれど、見事にその点を指摘した。
「ふざけた噂なのはわかってるんだけど! 岩泉がわたしのことを、まあ、いいな……みたいに思っているという話を聞いたら、岩泉がとつぜん発光し出して戸惑ってる」
あんぐりと口を開けた岩泉のきちんと収まるべき場所に収まっている永久歯たちがわたしを見ている。
「いや、ごめん! 岩泉がわたしのこと好きなわけないんだけども!」
見当違いな心配を継続していただかないようにする代わりに、馬鹿正直にありのままを伝えてしまった。マジな感じになってしまった。ここから、お笑い芸人でもないわたしはこの状況を笑いに変えられるだろうか。
「と、というわけで! 岩泉は、自身の思い当たる光源を破壊することに努めてほしい!」
雰囲気をおかしくしたくない結果、おかしなことを言っている自覚はある。ヤバいやつだといまさらながら認識されても構わない。また普段どおりにここから戻れるのであれば。
勢いよく立ちあがるべく脚に力を込めたけれど、不発に終わる。貧弱なわたしのメンタルはそれすらさせてくれないらしい。
「……まず、顔がいいだろ」
そんなわたしに構わず、岩泉はわたしの隣の席の椅子を引いて腰を下ろした。おずおずとだいぶん下がった視線に、わたしも合わせる。
ほんとうに自身の光源を探しはじめたらしい。しかも、岩泉は結構自分の顔面に自信があったのか。たしかに、うちの学校の白いブレザーなんて着こなせる男どもはポテンシャルがかなり高いのは間違いないが。
「一般的にの顔は特別どうこう、というわけではねーらしいが、俺はいいと思う。正直、女は全部同じ顔に見えるときがあっけど、の顔はわかる」
「それは……どうも?」
なんと、わたしの話だったらしい。わたしの顔は認識できる、という最低ラインについてはどう解釈すればよいものかわからないが、一応、貶されているわけではないようだ。
「あと、要領がいいよな。指定校推薦決まったのだって、第一陣だったろ? っていつもあんまりやる気がないように見えるって言われりゃそれまでだけど、そつなくこなせるまでのベースはつくってきたわけだ。努力した経験があるから、余力があるんだろ」
「はあ……」
「ま、ほかにもあるけど、じゅうぶんじゃねえの」
「……なにが」
「俺がを好きになる理由」
わたしの両目は過剰な光線によって焼き潰れた。
間欠泉のように熱湯やら水蒸気やらがわたしのつむじから噴き出してしまったと思った。わたしの心臓を一撃で射抜く銃声すら耳鳴りのように響いたかもしれない。
────岩泉が、わたしのことを、好き。
とてつもない衝撃として、わたしの全身全霊はその事実をなんとか受け止めようとしていた。
「が俺のこと好きなのかは、聞いてねーから知らねーけど。ぜんぜん俺は好きだから、否定させてほしかっただけ。……以上!」
必死にこじ開けた目は、わたしとは対照的にスムーズに立ち上がってしまった岩泉をとらえていた。
咄嗟に岩泉のシャツの裾を掴んでしまったのは、彼の曲がった口元と、頑なにわたしを視界に入れようとしない目が、拗ねた子どものようだったからだ。
「……いや、たぶん、もしかすると、結構前から好きだったのかもしれない、とは思っているのですが……。とにかく今は間違いなく、好き、ですね……」
顔も上げられずにぼそぼそと頼りなく紡いだ言葉は、彼の心に、わたしが感じたように、大きな意味をもって届いただろうか。
するり、と伸びてきた手はわたしの飲みさしの紙パックをつまみ上げる。その指先を追って顔を上げれば、
「ストローについてる歯形もいいよな。ガキっぽくて……かわいい」
岩泉は熱に浮かされたような頬でストローの先を啄んでいる。
「わーっ!?」
吹き飛ばされて、突き飛ばされて。死にかけの蝉のように転がって悶えられるものならそうしたかった。